第81話 追憶(四)
水面を淡い光が流れていった。
舳先と
本物の舟よりもはるかにちいさいことは、蝋燭との対比をみればすぐに分かる。
片手で持ち上げられるほどのそれは、木や竹で作られた模型の舟であった。
いま、
総数にしてざっと五百隻は下るまい。
さほど広くない川幅いっぱいを埋め尽くした船団によって、運河はさながら光の川といった風情を醸し出している。
運河沿いの道には、老若男女の別なく
八月も終わろうかというある日――。
沙蘭国の王都・沙京では、年に一度の慰霊祭が催されていた。
七国の信仰では、死者は舟に乗って冥界へと旅立つと考えられている。
いにしえの聖天子の御代には、実際に死者を納めた棺を舟に積み、川に流すことで葬礼の締めくくりとしていた。
亡骸を載せた舟は、やがて海の彼方にあるという楽園に流れ着き、あらたな生命を与えられた故人はそこでいつまでも幸福に暮らすと信じられていたのである。
各国の建国から七百年あまりの歳月を経るうちに、そんな習慣も中原ではすっかり廃れた。
おおきく形を変えてこそいるものの、現在も毎年欠かさずに慰霊祭を行っているのは、最辺境の沙蘭国だけだ。
そもそも沙蘭国は河川自体が少ないため、建国当時から模型の舟で代用することが常であった。外海につながる川が存在しない以上、実際に遺体を流したところで無意味であるという合理的な理由もある。
本式にこだわった他国が文化を捨て去っていくなかで、やむにやまれぬ事情から略式を採用していた沙蘭国が最後まで伝統を保ちつづけたのは、まさしく皮肉と言うべきだろう。
ともあれ、季節の風物詩ともなっている慰霊祭は、今年も例年通りに進行している。
この一年のあいだに世を去った者を弔い、せめてその魂だけでも楽園へと送るために各地から沙京にやってきた人々は、それぞれ持ち寄った小舟を運河に流していく。
夜の市街地に白々と流れる光の川は、王宮からもよく見えた。
市中で慰霊祭が催されるのと時を同じくして、沙蘭国の王宮でも恒例の儀式が挙行されている。
王宮で行われる儀式は、市井のそれとは異なり、特定の死者を弔うことを目的としたものではない。
ふだんは国じゅうに散らばっている王族が一同に会し、歴代国王の遺徳を偲ぶとともに、社稷の幾久しい安寧を祈念するのである。
夜明けとともに始まった祭祀は、日没のすこしまえにすべての予定を消化した。
ふだんはみずからの領地から出ることのない王族の面々は、系譜の上ではきわめて親しい間柄同士であっても、実際に顔を合わせることはめったにない。
むろん、国王から謀反の疑いをかけられることを恐れ、よほど重要な用向きがないかぎりお互いに接触を避けているという理由もある。
そんな彼らにとって、今日という日は久闊を叙する数少ない機会でもあった。
儀式の終了からほどなくして、王宮内では盛大な
国王・
酒を好む人間が多い沙蘭国のなかでも、国王とその親族は並外れた酒豪としてつとに名高い。かつて蛮族の族長たちを招いた和睦の宴が王宮で開催された折には、いまは亡き先王・
親から子へ、祖父から孫へ、伯父から甥へ。
盃はめぐり、また
老いも若きもしたたかに酔いしれた一族の男たちとは裏腹に、衝立を隔てた女たちの席はしんと静まり返っている。
その理由は明白だ。
上座に視線を向ければ、ひとりの貴婦人が女たちを睥睨している。
国王の正室にして、宮廷の一切を取り仕切る女傑――袁夫人。
宴が始まってからいままで、王妃はわずかに一杯の盃を空にしただけにすぎない。
袁王妃の酒嫌いを知らぬ者はいない。
一杯だけは飲み干してみせたのも、先祖への礼儀のためにやむなく口にしたのだ。
酒そのものに付帯して、宴会で男たちが演じる馬鹿騒ぎもまた、王妃の最も嫌悪するところだった。
国王の側室を始めとする一族の女たちは、袁王妃の秋霜烈日たる性格にすっかり恐れをなし、彼女の前であえて酒を飲もうという者は誰もいない。
ただひとり――
国王の寵愛を一身に受ける女は、紫色の液体が満たされた盃を手に取ると、ほころびかけた蕾のような唇へと運ぶ。
嚥下するたびに白い喉がうごめくさまは、おなじ女であってもおもわず見惚れるほど艶めかしい。
宙を滑るように差し出された空の盃に、
世にも美しい美女と、その傍らにはべる蜂蜜色の髪の女官。
袁王妃を中心に空気まで凍りついたような女たちの席にあって、二人だけが別天地の風情を漂わせている。
「よほどその酒が気に入ったようだの、
袁王妃が呼んだのは、秦夫人の本名だ。
王妃である彼女には、年長者も含めた一族のすべての女を呼び捨てにすることが許されている。
それでも、王妃が秦夫人に対してことさらに本名を呼ばわったことに、居並ぶ女たちは例外なく肝を冷やしている。
「はい。大変美味しゅうございます。せっかくの機会ですし、王妃さまも一杯いかが……」
「わらわが飲むと思っておるのかえ」
「これは失礼を……どうかお許しくださいませね」
鈴が鳴るような声で口にしたのは、謝罪とも思えない返答だった。
ひりつくような緊張が宴座を支配する。
明蓮でさえ気を失いそうになっている状況で、秦夫人だけは我関せずといった様子で端座している。
袁王妃と秦夫人の対立は、いまや王宮だけにとどまらず、各地の王族のあいだにもすっかり知れ渡っている。
秦夫人が次期王妃に立てられると見て、ひそかに交誼を結ぼうとする貴婦人は引きも切らない。
そんな彼女たちも、いざ袁王妃を前にしては、蛇に睨まれた蛙もかくやというほどに萎縮しきっているのである。
驚くべきは、ちいさな酒盃ひとつを武器として、袁王妃に真っ向から挑みかかった秦夫人の肝の太さだ。
たおやかで上品な佇まいからは想像もつかない気丈さに、満座の女たちは心中で惜しみのない喝采を送っている。
「身体に障ろう。そのあたりにしておくがよい、恵良」
「私ごときへの過分なお心遣い、まこと痛み入ります。みなさまにご迷惑をおかけするようなことはけっしてありません。どうかお気遣いはご無用に――」
「わらわの言うことが聞けぬと申すのかえ」
あくまで落ち着き払った袁王妃の声には、有無を言わせない迫力が宿っている。
もうすぐ四十になるとはにわかに信じがたい顔貌を秦夫人に向けて、王妃はふっと微笑んでみせる。
あるいは感情に任せて怒鳴りつけ、悪鬼の形相で睨めつけたほうが、どれほど優しいだろう。
二人の女のあいだで激しい火花が散る。
目には見えず、聞こえもしないはずの火花を恐れるあまり、明蓮は我知らず目をつむっていた。
わずかな沈黙のあと、口を開いたのは秦夫人だ。
花の
「お言葉ですが、王妃さま……」
「言いたいことがあるなら、遠慮なく申してみるがよい」
「本日は御先祖の遺徳を偲び、一族の友誼と結束を確かめるための特別な日。わたくしども女人にとっては、誰の目を憚ることなく酒食に舌鼓を打ち、親しい者との思い出話に花を咲かせる貴重な機会にございます」
「わらわがこの場にいる者たちを怯えさせていると?」
「王妃さまにおかれては国母としての襟度を示され、なにとぞご高配をたまわりますよう――」
あくまで淑やかに言って、秦夫人は深々と頭を垂れる。
一見すると、戦いを放棄し、みずから袁王妃に敗北を認めたようでもある。
実際にはその真逆であることは、周囲の女たちの顔を見れば一目瞭然だった。
自分の酒嫌いを周囲にも押し付け、楽しかるべき宴会の席を処刑場のような雰囲気に変えた袁王妃の狭量さを、秦夫人は直截な言葉を用いずにみごと喝破してみせたのである。
袁王妃は顔色ひとつ変えず、じっと秦夫人を見つめている。
ほんの数秒前までは快哉を叫びかけていた女たちも、一転して骨まで凍りついたみたいに硬直している。
一族の前でここまでやり込められて、あの気位の高い王妃が黙っているはずがない。
いままで水面下での激しい角逐を繰り広げてきたという二人だが、今夜いよいよ血を見るのではないか……。
そんな大多数の予想に反して、袁王妃の声色はあくまで冷静だった。
「どうも酒気にあてられたようじゃ。わらわはすこし風に当たってくるとしよう――」
それだけ言うと、袁王妃はさっさと席を立っていた。
王妃がひとりで中座するのは、これまでついぞなかったことだ。
どんなときもまっさきに着席し、最後に席を立つ王妃が、ひとりで去っていった。
恐ろしげな足音が充分に遠ざかったのを確かめて、女たちは我先にと秦夫人のもとへ殺到していた。
***
城下の灯りを遠望して、
王宮の庭園に設けられた瀟洒な
秦夫人と二人の王子に何事かあったときにはすぐに駆けつけられるよう、今朝からここで待機しているのだ。
当初は難色を示した近衛兵も、白面将軍の名を聞いたとたんに震え上がり、それきり姿を見せない。
それにしても……と、子季は夜空を振り仰ぐ。
この数日というもの、遠くを見つめて嘆息することがとみに多くなった。
理由は分かりきっている。
あの日――この腕に抱かれながら、我が子を守ってくれと懇願した美しい女。
はじめて触れた柔肌の手触り。
熱くなまめかしい吐息。
黒髪の芳しいかおり。
秦夫人を形作っているすべてが子季の心を縛め、いっかな放そうとはしない。
ふとした拍子に感覚がよみがえるたび、居ても立ってもいられないほどのもどかしさが沸き起こる。
それでも、すこしも不愉快には思わなかった。
あの女にずっと縛られていたい。
重い鎖でがんじがらめに絡め取り、二度と逃げられないようにしてほしい。
子季は、これまで女を恋しいと思ったことは一度もなかった。
何年か前には、興味本位で沙京の遊郭に出かけたこともあった。
手を取って
けっきょく、子季は叩きつけるように後金を支払うと、顔と髪を何重にも隠して遊郭を立ち去ったのだった。
それ以来、子季はひたすら武芸に打ち込み、戦のたびに周囲を驚かせる戦果を挙げてきた。
白面将軍と恐れられ、軍人としての名誉を勝ち取っても、けっして手に入らないと諦めていたひとりの人間としての
唯一それを与えてくれた秦夫人と彼女の子供たちを守ることは、自分の天命にほかならないはずだった。
さいわいと言うべきか、先の合戦で大勝を収めて以来、周辺の蛮族は一度も
このまま敵襲がなければ、ずっと沙京で秦夫人を護衛することが出来る。
敵の襲来を恐れ、戦のない日々を本心から望んでいることに、子季は我がことながら驚きを隠せずにいた。
「秦夫人――」
無意識に思慕してやまない名が口をついて出たのと、庭園に気配を感じたのは、ほとんど同時だった。
子季はとっさに懐に手を伸ばす。
王宮に武器を持ち込むことは許されていない。たとえ寸鉄でも帯びているのを見つかれば、それだけで死罪を言い渡される理由になる。
子季は小ぶりな鉄扇を懐に忍ばせ、いざというときはそれを使って刺客と戦うつもりだった。
暗器とも呼べないささやかな隠し道具だが、子季ほどの武人が用いれば話はべつだ。
たとえ発見されたとしても、武器ではないと言い逃れることも出来る。
(誰だ――)
四阿の陰から注意深く顔を出した子季は、その姿勢のまま固まった。
庭園を横切って、数人の女官を従えた貴婦人が歩いてくる。
ただの女ではないことは、薄闇のなかでも分かる。
袁王妃。
秦夫人の敵は、子季のまさに目と鼻の先でふいに足を止めた。
「そこに隠れているのは分かっておる。はよう姿をお見せ」
愕然と目を見開いた子季は、観念したように袁王妃の前に進み出た。
見破られている以上、逃げ隠れするのは得策ではない。
「ほう、おまえ……」
「王扶建が長子・王子季と申します。ご無礼をお許しください」
「その名も高い白面将軍が、なぜこんな時分に王宮におるのかえ?」
「秦夫人の護衛として登城いたしました――」
ほんの一瞬、袁王妃の面上を驚きの色がよぎった。
王妃はそのまま子季に近づき、品定めするみたいに視線を巡らせる。
と、長い指が下顎に触れた。振り払おうにも、一将軍にすぎない子季には許されるはずもない。
「王子季。そなたの母、
「――」
「ふふ、よう似ておる。どちらにものう……」
どちらにも?
王妃の言葉に引っかかるものを感じながら、子季は黙然と立ち尽くしている。
秦夫人の名前を出してしまった以上、うかつな真似をすれば、彼女にも累が及ぶ。
たとえ憎い敵だとしても、ここは嵐が過ぎ去るのをじっと耐えるしかないのだ。
そんな子季の心情を知ってかしらずか、袁王妃は子季の顔を見つめながら、ほうとため息をついた。
「王子季、ひとつだけ忠告しておこうぞ。――あの女には近づかぬことじゃ。おまえ自身のためにならぬ」
「それは、どういう意味でしょうか?」
「言うたとおりの意味よ。あれに関われば、おまえも身を滅ぼすことになる。よいな、わらわの言葉、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
反論することも出来ず、子季は呆然とその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
そのあいだにも袁王妃と女官たちの姿は徐々に遠ざかり、やがてすっかり見えなくなった。
(王妃は、こちらの離間を図っているのか――)
ふたたび四阿の陰にうずくまった子季は、胸の奥にふつふつと怒りが沸き起こるのを自覚していた。
秦夫人をあれほど追い詰め、このうえ自分まで彼女から引き剥がそうとする。
女狐とは、まさしく袁王妃のことを言うのだろう。
権威を盾に宮廷を思うがままに壟断し、自分の野望のためなら国王の子さえも手にかける。
あのような悪辣な女を生かしておいてはならない。
秦夫人のため。彼女の大切な子供たちのため。そして、沙蘭国の未来のために。
出来うることなら、この手であの悪女を除きたい――。
と、絹を裂くような叫び声が上がったのは次の瞬間だった。
子季は薄闇のなかを猛然と駆け抜ける。
向かい風に顔を打たれながら、少年の胸を埋めたのは、愛する女の無事だけだった。
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