第80話 追憶(三)

 初陣から五年の歳月が流れた。

 戦場での過酷な日々は、少年を変えるのに充分だった。

 少女のようだった身体はしなやかな筋肉の鎧をまとい、顔つきは精悍な戦士のそれへと変わっている。

 母譲りの蜂蜜色の髪と、藍青色ラピスラズリの瞳こそ子供時代と変わらないが、その端然とした佇まいには年齢に不釣り合いなほどの風格が漂っている。

 十七歳の王子季おうしきは、いまや名実ともに沙蘭国を代表する将軍となっていた。


 十二歳での初陣以来、父・王扶建おうふけんとともに臨んだ合戦は数知れない。

 国境くにざかいで蛮族とのいくさが起こるたびに、子季は赫赫たる手柄を挙げた。

 みずから先陣を切って敵中に斬り込み、その手で討ち取った大将は七人。彼らの配下も含めれば、子季が挙げた手柄首の数はさらに膨れ上がる。

 最初は将校見習いとして一頭の馬とわずかな部下を与えられたにすぎなかった少年は、初陣からわずか数年にして将軍の地位を手にしたのである。

 親の七光りというありきたりな誹謗を口にする余地さえない、それはまぎれもない彼自身の実力であった。


 いつのころからか、軍中において子季は奇妙な二つ名で呼ばれるようになった。

 白面将軍――。

 いまだ若年(白面)であることと、母譲りの白い肌をかけて、味方の将兵からそのように呼ばれはじめたのである。

 子季の存在は、敵である蛮族のあいだでも広く知られるようになっていた。

 彼らは戦場で鬼神の如き戦いぶりをみせる少年将軍への畏怖と憎悪を込めて、子季を白面鬼と呼んだ。

 好悪の差こそあれ、自分たちとはまるで別種の怪物いきものと見做していたという点では、敵味方にさほどの差はない。

 どちらも心の奥底には、胡人の血を引く少年に対する恐怖が抜きがたく横たわっていたのである。


 当の子季はといえば、他人が何を言おうとまるで関心を示さなかった。

 戦で功績を挙げているかぎり、軍には自分の居場所がある。

 すくなくとも、ここでは面と向かって心ない言葉を投げかけてくる者はいない。母の出自や身体の特徴を侮辱され、半蛮族と嘲笑されることもない。

 子季にとっては、それだけで充分だった。

 自分がどれほど手柄をてても、父・王扶建が喜ばないことだけは不可解だったが、それも部下の手前致し方ないことだ。

 軍において二人は親子ではなく、あくまで上官と部下なのである。

 官吏養成学校を中退し、沙蘭国軍に志願してからはや七年。

 そのあいだに軍人としての分別を身につけたからこそ、子季もあえて父に苦言を呈することはしなかった。

 

 この五年間は、子季にとってけっして平坦な道程ではなかった。

 戦場で幾多の戦功を挙げる一方で、それ以上の生命の危機に晒されてきた。乱戦のなかで敵に包囲され、多くの部下を失い、自身もあやうく討ち取られそうになったこともある。一騎討ちの最中に深手ふかでを負い、命からがら本陣に戻ったことも一度や二度ではない。

 それでも、子季は自分の選択を悔やんだことはない。

 将軍として功成り名を遂げたことで、何もかもが順調に回りはじめた。

 もしあのまま学校に残り、官吏としての道を歩んでいたなら、こうも早く状況が好転することはなかっただろう。

 周囲から陰湿ないじめを受けていたあのころに較べれば、蛮族と生命のやり取りをしている現在のほうがどれほどか知れない。


 軍人になったことで救われたのは、子季自身だけではない。

 妹の明蓮めいれんは、一昨年から王宮に出仕するようになった。

 敵将を討ち取った褒賞を辞退する代わりに、妹を貴人に仕えさせてくれるよう国王に懇願したのである。

 王侯貴族に随従し、身の回りの世話をする女官は、主人に準ずる待遇を受ける。

 女官に非礼を働くということは、取りも直さずその主人への侮辱を意味するのだ。女官同士のささいな諍いが、それぞれの主人を巻き込んだ大騒動に発展することも、宮廷においてさほど珍しくはない。

 たとえ明蓮が胡人の血を引いていようと、主人の後ろ盾があるかぎり、面と向かって彼女を嘲笑することはもはや誰にも出来なくなる。

 王氏の一門から女官が出ることは稀だが、みずからの手柄と引き換えにするというかたちで、子季はなかば強引に妹の社会的地位を確保しようと企てたのである。

 はたして、その懇望は聞き入れられ、明蓮は国王の第七夫人であるしん夫人付きの女官に取り立てられた。


 秦夫人は、本名を秦恵良けいりょうという。

 沙蘭国の下級貴族の家に生まれた彼女は、軍人であった前夫と若くして死別した。

 その後さる貴人の女官を務めていたところを国王に見出され、そのまま側室に迎えられたのである。

 その可憐な美貌とたおやかで優雅な立ち振舞いは妻妾のなかでも一頭地を抜き、すでに国王とのあいだには二人の男児を儲けている。

 序列の上では第七夫人にすぎないとはいえ、宮廷での実質的な地位は袁王妃に次ぐものと見做されている。

 年齢的にも四十近い王妃に対して、秦夫人はまだ二十一歳。

 かつては王女・蘭耀花らんようかと並ぶ天下の美人と称された袁王妃も、いまや容色の衰えは隠しようもなく、国王からの寵愛は久しく絶えている。

 なにより、ついに国王とのあいだに一子も得られなかった王妃とは異なり、秦夫人はすでに王位継承権を持つ男児を二人も産んでいるのである。

 すでに成人している国王の嫡男・蘭冀らんきは生まれつき蒲柳ほりゅうの質であり、とても王の務めには耐えられない。袁王妃のもとで育てられている次男と三男は、いずれも妾腹の子であり、母の身分は下級とはいえ貴族出身の秦夫人とは比較にならないほど低い。

 国王もひとりの男である以上、その情愛はたえず移ろいゆく。

 袁王妃に代わって秦夫人が正室に取り立てられるのも時間の問題であろうとは、王宮の内部事情に通じた者たちのもっぱらの噂であった。

 とまれ、次期王妃と目される秦夫人に仕えることは、現状で望みうる最良の条件であることにちがいない。

 子季はむろん、父である王扶建も異論を唱えることはなかった。

 それから二年が経ったいま、十五歳になる明蓮は、見習い期間を終えた一人前の女官として秦夫人に仕えている。


 一年の大半を国境くにざかいでの蛮族との戦に費やしているということもあり、兄と妹が顔を合わせる機会はめっきり減った。

 父子が沙京に戻るのは数ヶ月に一度。

 離れて過ごす時間は、ことによれば一年近くにも及んだのである。

 だが、どれほど距離を隔てても、お互いのことを思わなかった日は一日としてなかった。

 妹は女官として忙しない日々を送りながら、王都で父と兄の無事を祈り続けた。

 そして、兄は戦場で死線をくぐり抜けるたび、甲冑の内懐にしまいこんだ琥珀の首飾りブローチにそっと触れたのだった。

 それはかつて初陣の際、明蓮から手渡された無事のお守りであった。


***


 ある日の夕刻――。

 配下の兵士たちを引き連れて沙京に帰還した子季を出迎えたのは、意外な人物だった。

 いつもは明蓮と数人の使用人だけが城門で待ち受けているところを、その日にかぎっては見慣れない貴婦人の姿があったのである。


「秦夫人?」


 子季の問いかけに、貴婦人はちいさな顔をほんのわずか縦に振った。

 うっかりすると見落としてしまいそうなその所作こそ、高貴な女人に特有の立ち振る舞いにほかならない。


「城門まで子季兄様を迎えに行くとお伝えしたら、秦夫人もぜひ一緒に行きたいとおっしゃって――」


 言って、明蓮は照れたようにはにかんだ。

 ふだんは屋敷からめったに出ることのない女主人が、兄の出迎えのためにわざわざ城門まで出向いてくれた。

 もちろん、いままで一度としてなかったことだ。

 明蓮としては驚きに加えて、敬愛する兄に秦夫人が興味を示してくれたことに多少の面映さもあるのだろう。


 子季が秦夫人と対面するのは、今日が初めてではない。

 かつて父とともに王宮に召喚された際、一度だけ通りすがりに挨拶を交わしたことがある。

 接点といえばそれだけだ。

 妹が仕えるきっかけを作ったのはほかならぬ子季だが、国王の寵姫と軍人では、あまりに住む世界が違いすぎる。

 かたや国を守るために泥と血にまみれる混血の少年。

 かたや何不自由ない暮らしを営みつつ、ただひとりの男の子孫を残すことを至上の使命とする傾城の美女。

 土埃の舞う城門前で、二人は会釈を交わす。


「無事のお帰りなによりです。将軍には一度お目にかかりたいと思っておりましたの」


 秦夫人は日除けの傘をわずかに傾げると、小鳥のさえずるような声で言った。

 高貴な女とは、声まで美しいのか。

 子季は緊張のあまり声が上ずりそうになるのをこらえながら、ようよう言葉を紡ぎ出す。


「こちらのほうこそ、妹がお世話になっております」

「まあ、お世話をされているのはわたくしの方ですのに……」

「貴女にお仕えしていることで、妹がどれほど助けられているか知れません。どうかお礼を言わせてください」


 うやうやしく頭を下げた子季に、秦夫人は嫣然と微笑みかける。

 その瞬間、子季の身体は瘧に罹ったように震え出していた。

 王宮の女が、こんなふうに軍人である自分に微笑んでくれたことがあっただろうか。

 それも、国王の寵愛をほしいままにする沙蘭国随一の美女が……。

 呆けたように立ち尽くす子季をちらと見やると、秦夫人は身体の芯から蕩けるような声でふたたびささやいた。


「辺境の戦からお戻りになられて、さぞお疲れでしょう。ここで立ち話も何ですから、ぜひわたくしのお屋敷へ――」


 当惑を隠せない子季をよそに、秦夫人ははやばやと自分の馬車に乗り込んでいる。

 兵士たちの引率はひとまず副官に任せ、子季も馬車を追って愛馬を走らせる。

 やがて市街地を駆け抜けた馬車は、王都の郊外にある瀟洒な屋敷の門構えのなかに吸い込まれていった。

 国王の子を産んだ側室は、後宮を出てこのような屋敷に住むのが通例だった。

 みずからに課せられた役目をつつがなく果たしたことへの報酬であると同時に、何かにつけて衝突する妻妾たちを互いに遠ざけるための方策でもある。

 屋敷に足を踏み入れた子季は、促されるまま、中庭に建つ離れに通された。


「不躾なお招き、どうかお許しくださいましね――」


 明蓮も含めて人払いをしたあと、秦夫人はためらいがちに語り始めた。

 本来であれば、国王の側室が男と二人きりになるなど許されるはずもない。

 それでも、外界から隔絶されたこの屋敷の、さらに内奥に建つこの離れには、そんな常識も及ばないらしい。


「将軍は、王都で近ごろ流れている噂をご存じかしら?」

「申し訳ありません。長く戦場いくさばに身を置いていると、世情にはどうにも疎く……」

「この一年ほどのあいだに、国王陛下のお子が相次いで亡くなられているのです。すでに八人。そして全員が男子でした。なかには生まれてまだ日も浅い赤子も含まれています……」

 

 鈴を転がしたような声は、いつしか沈痛な響きを帯びるようになった。

 

「表向きはあくまで病死ということになっていますが、真実は違います」

「と、申されると……」

「国王陛下のお子たちは、みな袁王妃に殺されたのです」


 愕然と目を見開いた子季にむかって、秦夫人はなおも続ける。


「袁王妃は、生まれつきご病弱な王太子殿下の代わりに、自分の手で育てあげた蘭苒らんぜん王子を次期国王に据えようとしています。しかし、蘭苒王子の生母は、海稜国かいりょうこくから移り住んだ商人の娘。とても国王にふさわしい血筋ではありません……」

「袁王妃は、蘭苒王子の地位を脅かしかねない他の王子を抹殺している……と?」

「そのとおりです。もちろん、この事実を知っているのはほんのひと握りの人間だけ。国王陛下に上訴を試みた者は、みな王妃の送り込んだ刺客に殺されてしまいました……」


 袁王妃の苛烈な性格は、子季も以前から聞き及んでいる。

 それでも、いま秦夫人が語ったのは、一国の王妃が弄するにはあまりにも酸鼻で無残な陰謀である。

 子季は反門することも出来ず、秦夫人が次に口にする言葉をじっと待つばかりだった。


「わたくしも以前から袁王妃の恨みと嫉妬を買っています。あの方が次に狙うのは、まちがいなくわたくしの二人の息子たちでしょう……」


 言い終わるまえに、秦夫人の眦から涙があふれた。

 黒髪を乱した女は、よろめくように子季の胸にしなだれかかる。

 

「将軍、哀れな女の頼みと思ってお聞きくださいまし。白面将軍と畏怖される貴方様のお力で、どうかわたくしの息子たちを袁王妃の魔の手から守っていただきたいのです」

「秦夫人――」

「沙京の軍人たちはみな王妃の息がかかっています。明蓮の兄上である貴方様しか、もはやわたくしには縋れる方はいないのです……」

 

 秦夫人は、子季の胸に顔を当てて啜り泣く。

 静まり返った部屋では、衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。

 白魚のような指先が、はだけた逞しい胸板にそっとよりそう。

 久しく悪意以外のものが触れてこなかった少年の身体を、なよやかな感触が包み、満たしていく。

 この女は、許されないことをしようとしているのではないか……。

 おもわず突き放そうとした理性を、柔らかく熱い吐息が塗りつぶした。


「もちろん、お礼は差し上げます。貴方様が望むなら、なんなりと……」


 子季はもはや迷わなかった。

 どうあれ、人と生まれた以上はいずれ死ぬ。

 そして、人間の死に方などたかが知れている。自分の場合であれば、蛮族の刃に斃れるか、さもなくば人並みに病を得て死ぬか、ふたつにひとつだろう。

 この生命をどう使うかを自分の意志で決められるのであれば、すこしでも有用に使いたい。

 秦夫人と彼女の息子たちを守ることは、明蓮の平穏な暮らしを守ることでもあるのだから。

 夢とも現実とも知れない薄もやに包まれていく意識のなかで、子季はぽつりと呟いた。


 そうだ――――俺は、この女のために死ぬのだ。

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