第75話 帰郷(二)
白い街に夜の帳が下りた。
日中の苛烈な日差しは嘘みたいに消え失せ、快い夜風が白壁の家々の合間を吹き渡っていく。
時おり感じるむっとするような熱気は、市街地に満ちた人いきれだ。
わけても街を東西に貫く目抜き通りは通行人でごった返し、まさしく立錐の余地もないありさまだった。
沿道に立ち並ぶさまざまな商店は、日が沈んだあとも一向に店じまいをする様子は見られない。
それどころか、昼間は見られなかった屋台や露店がそこかしこに立ち並び、夜とは思えない賑わいを見せている。
この街では、日暮れから明け方までのあいだだけ営業する店も少なくない。それで経営が成り立つのは、人々が昼よりも夜に好んで出歩くことを意味している。
暑気を避けるために昼間は家のなかで寝てすごし、過ごしやすい夜のあいだに活動する。
熱暑の国ならではの生活の知恵であった。
人波に揉まれながら、少女と青年は寄り添うように目抜き通りを歩いていく。
同地の人間からは、もっぱら「ロウシァン」と呼ばれている。沙蘭国の地理一般の例に漏れず、公的な地図に記載されている中原風の地名とはべつに本当の名前を持っているのだ。
夏凛と怜は、まだ陽が高いうちに楼泉の城門をくぐると、そのまま市内の宿屋に転がり込んだ。
五剣峰越えと昼間の暑熱で疲れきった身体をしばらく休めたあと、二人は市街地へと足を向けた。
夕食を摂り、今後の旅に必要な物資を買い入れるためである。
目指す王都・
みちみちで城市や集落に立ち寄るにせよ、いまのうちに充分な装備を整えておくに越したことはないのだ。
すれ違う人から浴びせられる不躾な視線は、夏凛に居心地の悪さを感じさせるのに充分だった。
衣服だけではない。
視界に入る何もかもが中原とは異なっている。
中原では木と土の家が主流であるのに対して、楼泉の沿道に建っている家々はどれも日干し煉瓦によって形作られている。白壁の町並みは、それら煉瓦の色にほかならない。
人々が交わす言葉も、たしかに七国の言語でありながら、どこか異国めいた響きがある。道行く人々の顔つきも同様だ。
極めつけとばかりに、夜風に乗ってどこからか漂ってくるのは、中原ではついぞ嗅いだことのない奇妙な香りであった。
「ねえ、怜、ここってまるで……」
袖を引きながら呟いた夏凛に、怜はそっけなく答える。
「それ以上は言うなよ」
「私、まだ何も言ってないわ」
「異国みたいだと言いたいんだろうが、そいつは沙蘭国の人間が一番嫌う言葉だ。誰かに聞かれたら面倒なことになる。思うのは勝手だが、くれぐれも口には出すなよ」
自身も沙州人である怜の言葉には、反問を許さない重みがある。
夏凛はこくりと首肯することしか出来なかった。
沙蘭国は七国の最北端であり、その国境は蛮族の支配圏と接している。
蛮族とひと口に言っても、その実態は数十とも数百ともしれない大小の部族の集合体である。
原始的な狩猟生活を営んでいる部族もあれば、強力な王のもとで独自の国家を築き上げている部族もある。辺境の砂漠と大草原には、七国すべてを合わせたよりもずっと巨大なもうひとつの世界があると言ってよい。
巨大であることは、しかし、かならずしも豊かであることを意味しない。
豊富な水と肥沃な土壌に恵まれた中原への進出は、そうした北方の有力部族にとって長年の野望でもある。
七国と外界を隔てる壁のように横たわる沙蘭国は、蛮族にとって最大の障害であり続けているのだ。
そのため国境付近ではつねに武力衝突がたえず、沙蘭国軍による大規模な征伐もたびたび実施されている。
その一方で、国王に恭順の意を示した部族は州内への移住を許可され、婚姻による同化政策もさかんに奨励されてきた。
建国から七百年という長い歳月を閲するうちに、民族的にも文化的にも混淆が進み、いまや沙蘭国は七国でもひときわ異彩を放つ存在となっている。
「沙州人はどの国の人間よりも気位が高いんだ。中原の人間を蛮族から守ってやってるのは自分たちだと自負しているからな。他国の人間に蛮人扱いされると、女や年寄りでも手がつけられなくなる。おまえみたいにひと目で中原から来たと分かる格好をしてるなら、なおさら言葉遣いには注意しないといけねえ」
羊肉の串焼きを頬張りながら、怜は噛んで含めるように語る。
しばらく歩いたあと、二人は沿道の酒家に入った。
店内の客たちの視線が夏凛に集中したのも一瞬のことだ。
雑談と食事に興じる人々のあいだに紛れ込むようにして、夏凛と怜はちいさな
「本当に大丈夫なのかな……」
「何がだよ?」
「王宮に取り次いでもらえても、私、
怜は串をひょいと屑入れに放り捨てると、指についた
そして、
「
「本当?」
「だが、まったく問題がない訳じゃない」
「それは、どういう――」
怜はちらと周囲に視線を巡らせると、声を潜めて言った。
「王妃だよ。スケベなだけの旦那と違って、こいつは性根の腐りきったクソババアだ。七国じゅう探してもあれよりタチの悪い女はいねえ。あいつの悪どさに比べたら、砂漠に住んでる恐ろしい毒ヘビのほうがまだマシなくらいだ」
「怜は王妃様に会ったことがあるの?」
「いいや――だが、あのババアがどういう人間かなんて、すこしでも王宮に知り合いのいる人間なら誰でも知ってることだ。おまえが沙蘭国に来たことがもし王妃に知られでもしてみろ、どんな悪辣な嫌がらせをしてくるか知れたもんじゃない」
苦々しげに言って、怜はわざとらしく眉根を寄せてみせる。
「心配するな。おまえを王宮に連れてってくれる
「……ありがとう、怜」
「分かったなら、さっさとメシ食うことだ。明日には楼泉を発つんだからな。今夜しっかり休んどかねえとキツいぞ」
そう言いながら、怜は夏凛の前に置かれた小鍋を指差す。
夏凛が視線を落とすと同時に、額を冷たい汗がつつと流れていった。
小鍋に盛られた料理を見てしまったためだ。
およそ食べ物とは思えない真っ赤な汁に浸かった丸い物体は、ラクダ肉と根菜を練り固めた肉団子である。
中原ではまず目にすることのない辺境の
王宮を逐われてから質素な食事には慣れたつもりだったが、それも慣れ親しんだ中原の文化の枠内であればの話だ。
選り好みをしている場合ではない。
多少口に合わなかったとしても、無理にでも慣れていかなければならない。
これからさき、
***
「ねえ、沙蘭国の人って、いつもああいう料理を食べてるの?」
歩きながら、夏凛は怜の背中に問いかけた。
ラクダ肉の団子汁は、想像していたよりはずっと食べられる味ではあった。
それでも、いまだ口内や唇に残っている痺れるような刺激は、中原で生まれ育った人間には馴染みのないものだ。
血のような汁の色は、臭み消しの香草の色が染み出たものであったとは、夏凛は知る由もない。
「さあな、俺に訊かれても分からん」
「どういうこと?」
「俺はあんな妙な料理は一度も食ったことない。さっきもこいつおかしなもん頼みやがるな……と心の中で思ってた」
「ひっどい! 前もって言ってくれれば違うのにしたのに‼」
憤懣やるかたない様子の夏凛は、しばらく進んだところではたと足を止めた。
目抜き通りの一角に黒山の人だかりが出来ている。
なにごとかと覗き込もうとした夏凛の腕を、怜がすかさず掴んでいた。
「ありゃ講談屋だな」
「コウダンヤ?」
「あちこちの国から集めてきた情報や噂話を話して聞かせるのを生業にしてる連中だ。沙蘭国は字が読めない人間がほとんどだから、みんな金を払って話を聞きに行ってるのさ」
なおも前に進もうとする夏凛に、怜はあきれたように声をかける。
「おい、タダじゃねえんだぞ」
「分かってる。お金を払ってでも聞きたいの!」
「昴帝国のことが気になるのか?」
怜の言葉に、夏凛は無言で頷く。
ここまでの道中、昴帝国と延黎国が戦に突入したという話は何度も耳にしている。
詳しい話を聞こうと道行く人に尋ねてみたこともあったが、中原を遠く離れた辺境に伝わってくるのはあいまいな噂ばかりで、一向に要領を得なかったのである。
それでも、情報の断片から推測するかぎりでは、夏凛たちが五剣峰に足を踏み入れた直後に両国の戦端が開かれたらしい。
鳳苑国の例があるとはいえ、開戦から一月も経たずに決着がつくとは考えにくい。
なにより、延黎国が勝利する可能性も無ではないのだ。
そうなれば、急激に版図を拡大した昴帝国の国威にも翳りが生じる。
いまは朱鉄を恐れている各国も、昴帝国が斜陽と見れば態度を変えるかもしれない。
どう転ぶにせよ、両国の戦の結果は、今後の夏凛の道行きに少なからぬ影響を及ぼすはずであった。
「あの人たちは情報を生業にしてるって言ったわね。だったら、詳しいことを知ってるはずよ」
「そりゃそうかもしれんが――」
「私ひとりでも聞きに行ってくる‼ 怜はそこで待ってて‼」
言い終わるが早いか、夏凛は人ごみのなかに駆け出していた。
***
「
まるで魚でも商うような口上を述べた講談屋の男は、あらたに観客に加わった少女をめざとく見つけていた。
全員が金を払わなければ話は始まらないのである。
夏凛はあわてて袖から小銭を取り出すと、見台に置かれた笊めがけて放り投げる。
ちゃりん、と小銭が小気味のいい音を立てたるのを確かめた講談屋は、
「まいどっ!――さてさて、お集まりの紳士淑女の皆々様。本日お聞かせいたしまするは、かたや延黎国、こなた昴帝国のあいだにて起こりたる天下分け目の
さすがにその道でたつきを立てているだけあって、よく通る声で語り始めたのだった。
講談屋は開戦に至る経緯から、緒戦の展開までをテンポよく語り聞かせる。
虚虚実実、ありもしない一騎討ちや、武将同士の丁々発止のやりとりを随所に織り交ぜながらの辻軍談。
そのたびに群衆からは「延黎国は情けねえなあ」「いいぞ朱英!」といった声が上がる。
やがて夏凛の胸に去来したのは、言いようのない不安と違和感だった。
沙蘭国の人々は、昴帝国が勝つたびに喜んでいるようにみえる。
気のせいではない。朱英や四驍将が活躍するたび、やんやの喝采が沸き起こる。
夏凛は、近くにいた老人に小声で話しかける。
「あ、あの……どうしてみんな昴帝国を応援してるんですか?」
「はあ? お嬢ちゃん、何言っとるんだね?」
「いえ、ただちょっと気になって……」
「朱鉄は成夏国を滅ぼしてくれたからね。みんな昴帝国が好きなのは当たり前じゃないか」
老人は迷惑そうに顔をしかめながら、なおも腑に落ちない様子の夏凛に語って聞かせる。
「むかし、沙蘭国にはそれはそれは美しい姫様がいたんだよ。その評判を聞きつけた成夏国の国王は、攻め込まれたくなければ姫をよこせと沙蘭国を脅してきた。姫様は祖国を救うため、泣く泣く成夏国に嫁いでいったんだ。それから沙蘭国の人間は、みんな成夏国王を憎らしく思ってたのさ」
夏凛は愕然と立ち尽くしたまま、言葉を失っていた。
成夏国に嫁いだ沙蘭国の姫とは、生母である蘭王妃にちがいない。
そして、武力をちらつかせて姫を奪っていった暴君は――。
「朱鉄と朱英の兄弟は、貪欲で非道な悪人を討ち取ってくれたんだ」
やめて。
その名を言わないで。
周囲の景色は色を失い、講談師の明朗な声もいまは遠くに感じられる。
夏凛の全神経は、老人が次に発する言葉に向けられている。
「まったく天罰ってやつだよ、夏賛がああいう死に方をしたのは――」
老人が言い終わるまえに、夏凛はたまらずその場から逃げ出していた。
長い旅を経てようやく辿り着いた母の国。
そこに住む人が口にした父の名は、憎悪と軽蔑に彩られていた。
両目からあふれる涙を止める術もないまま、夏凛は夜の雑踏に身を投げていた。
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