第74話 帰郷(一)

 乾いた風が吹いていた。

 風にそよぐ木々のささやきや、水面に刻まれた波紋はどこにも見当たらない。

 見渡すかぎりの風景を占めるのは、ごつごつとした岩と、赤茶けた砂礫だけであった。

 時おり上空を旋回する猛禽のほかには、動くものさえない荒涼たる大地。

 五剣峰ごけんほうの北側の裾野である。

 沙蘭国さらんこくの最南端にあたる一帯は、人の住まない不毛の荒野が広がっている。

 寂寞たる世界のなかで、ただ空だけが高く澄みわたっている。

 ことに現在いまの時間帯――朝ぼらけの空の美しさは、この地を通過する旅人の心にひとしく鮮烈な印象を与えずにおかない。

 夜の黒と、陽の紅とが玄妙に入り混じり、えもいわれぬ美観を現出させるのだ。


 燃えるような払暁の空を一朶の白煙が区切った。

 白煙のたもとを辿れば、屹立した巨岩のあいだに挟まれるように、ぽつねんと佇む二階建ての小屋がある。

 沙蘭国軍の国境監視所であった。


「リカウ隊長、交代の時間ですよお――」


 カンカンと鉦を打ち鳴らしながら、若い兵士は階上にむかって叫ぶ。

 ややあって、のっそりと階段を下ってきたのは、後ろ足で立ち上がった熊を思わせる中年男だ。


「やっかましい!! とうに起きておるわ!!」

「はあ、しかし、こうするのが規則ですので……」

「新兵の分際で口答えをするな、ハジェク。この監視所にはわしと貴様の二人しかおらんのだ。つまり上官であるこのわしが規則だ。分かったな?」


 熊男ことリカウは、部屋の隅に置かれた水瓶からわずかばかりの水を陶杯コップに移すと、ちびりちびりと飲みはじめた。

 豪放な見た目に似合わぬ飲み方にも、むろん理由がある。

 この場所では水は何よりの貴重品なのだ。麓の集落から他の生活物資とともに一週間に一度運んでくる水瓶は、二人の男たちにとって文字通りの生命線であった。

 もし水が底をついたなら、山頂から雪を運んでくるか、麓に降りるかの二つにひとつしかない。


「夜のあいだ、変わったことはなかったか?」

「いえ、特には……ああ、でも……」

「でも――なんだ? はっきり言わんか」

「旅人が監視所の前を通っていきました。若い男と、十五歳くらいの女の子の二人連れです」

「五剣峰を越えてきたのか? もしそうだとすれば、男のほうはともかく、娘は見上げた根性だ。五剣峰の峠は大の男でもへばって行き倒れになるからなあ」

「いちおう規則に従って尋問しましたが、特におかしな様子もなかったので、そのまま通過させました。なんでも沙京さけいにいる親戚に会いに行くとかで……」


 ハジェクの報告が終わらぬうちに、リカウはどっかと椅子に腰を下ろしていた。

 テーブルに置かれた平べったい麺麭パンを無造作に口に放り込み、もそもそと咀嚼する。

 日持ちするように堅く焼き上げた麺麭は、お世辞にも美味とはいえないうえに、ただでさえ貴重な水分を容赦なく奪っていく。それでも他に食べるものが存在しない以上、選り好みは出来ないのだ。

 ハジェクは麺麭を細かく手でちぎりながら、ぽつりと問うた。


「そういえばボウ帝国と延黎国えんれいこくの戦争、どうなりましたかねえ」

「わしが知るはずなかろう。次の報せが来るのは五日後だ」


 リカウは喉に詰まらせないように注意深く麺麭を飲み下しながら、いかにも興味なさげに呟く。


「もっとも、どちらが勝とうと負けようと、沙蘭国こちらには関係のないことだ」

「なぜです? 延黎国が負けたら、次はうちが攻められるかもしれないじゃないですか?」

「おまえ、国軍の兵士のくせに沙蘭国の国是を知らんのか」


 リカウはわざとらしくため息をつくと、居住まいを正して語り始めた。


不侵不盟ふしんふめい――どこの国ともむすばず、どこの国にも攻め込ませない。我が国は建国から七百年もそれでやってきたんだ。昴帝国が新参者でも、その程度は弁えているだろう」

「はあ、そういうものなんですか」

「沙蘭国はな、。中原で何があろうと、わしらには対岸の火事なんだよ」


 腑に落ちないといった様子のハジェクに、リカウはなおも続ける。


「だいたい、国境の監視所にわしとおまえの二人しかいないのがその証だ。むかし成夏国せいかこくがあちこちに攻め込んだときも、沙蘭国にはけっして手を出さなかった。おいハジェク、なぜか分かるか?」

「砂漠と草原とヒツジばかりで何もない田舎だからですか?」

「……まあ、それもあるだろうがな。沙蘭国は北方の蛮族を食い止める砦だからよ。おまえは蛮族と戦ったことがないから知らんだろうが、好き好んで蛮族やつらの相手をしたがる国などありゃせん。わしら沙州人さしゅうじんはずっと貧乏くじを引かされてる代わりに、中原のゴタゴタとも無縁なのよ」


 ハジェクは納得したように肯んずると、麺麭の残りをあわただしく平らげる。

 食事に時間をかければ、それだけ睡眠時間が圧迫されるのだ。

 二人だけの交替勤務はけっして楽なものではない。次の当番までには、出来るだけ身体を休めておきたい。

 

「あっ、そういえば――」


 食器を棚に戻しながら、ハジェクはひとりごちるみたいに言った。


「さっき話した旅人、ひとつだけ妙なところがありました」

「なんだ?」

「男のほうなんですが、髪が黄金こがね色で……染めているんですかねえ。ああいう髪の人、初めて見ました」


 それきり二人のあいだに奇妙な沈黙が流れた。

 不思議そうに振り向いたハジェクに、リカウは震える声で問いかける。


「ハジェク、その男……他に特徴はなかったか……?」

「ええ、暗くてよく見えなかったんですが、瞳も宝石をはめ込んだみたいに真っ青でした。あとは肌も男にしてはやけに白くて……隊長?」


 リカウの顔はすっかり青ざめていた。

 ふだんの豪傑然とした佇まいは跡形もなく霧散し、逞しい両肩は小刻みに震えている。

 やがて、ようよう開いたリカウの唇から漏れたのは、消え入りそうな声であった。


「ま、間違いない……だ……が沙蘭国に帰ってきたんだ……」

「隊長、いったいどうしたんです?」

「わしは急いで麓の官衙かんがに報せてくる!! おまえはここで留守を守れ!!」

「待ってください、いったい何があったんです!?」


 ハジェクの問いには答えず、リカウは監視所を飛び出していた。

 そのまま厩舎に繋いであった愛用の騾馬ラバにまたがると、猛然と山を駆け下りていく。

 監視所には緊急連絡用の烽火のろしも常備されているが、これは他国の侵攻があった場合にのみ使用が許可されるのである。


「や、奴が……白面将軍が戻ってきた……!!」


 リカウの呟いた言葉をかき消すように、冷たい風が吹き渡っていった。


***


 白い日差しが大地を灼いていた。

 もうじき九月になろうというのに、気温は三十度をゆうに超えている。

 沙蘭国では、短い雨季が過ぎたあと、冬の訪れまでこのような酷暑が続くのである。

 いま、陽炎ゆらめく街道を行くのは、青年と少女の二人連れであった。


「゛あづ゛い……」


 少女はいまにも顎を出しそうになりながら、誰にともなく言った。


「おまえ、このあいだまで寒い寒いと言ってたじゃねえか」

「だって、沙蘭国がこんなに暑いなんて知らなかったんだもの……」

「もうすこし我慢しろ。次の町に着いたら宿に入る。水とメシにもありつけるぞ」


 少女はこくりと頷くと、青年に遅れまいと歩調を速める。


 夏凛と怜が五剣峰を越えてから、はや三日――。

 二週間かけて過酷な山道を踏破し、沙蘭国に辿り着いた二人は、王都・沙京さけい目指して旅を続けている。

 沙京は同国最大の都市であり、沙蘭国王を始めとする王侯貴族が集住する地でもある。

 夏凛は、沙蘭国の王族であった亡母の縁故をたよりに、伯父である沙蘭国王・蘭逸らんいつに保護を求めようというのである。

 愛する人を失いながら成夏国を脱出し、華昌国かしょうこくでは刺客の魔の手を辛くもくぐり抜けて、いま目指す場所は目と鼻の先にまで近づいている。

 その感慨に浸るいとまもなく、二人は太陽に急き立てられるように先を急ぐ。

 歩きながら、夏凛はふと怜に問うた。


「ねえ、怜。沙京についても、そう簡単に国王陛下に会えるかしら?」

「いきなり王宮に行っても駄目だろうな。おまえが成夏国の王女だと説明しても、衛兵につまみ出されるのがオチだ」

「それじゃ、だれか私やお母様のことを知ってそうな人に……」

「まずは王扶建おうふけんという将軍のところを訪ねる。そいつとは昔からでな。事情を話せば、誰か王族に取り次いでくれるはずだ」

「本当!?」

「正直俺もあいつを頼るのは気が進まねえが、背に腹は代えられないだろう……」


 怜の言葉には、どこか鬱屈とした響きがある。

 一方の夏凛はといえば、先行きの希望を得られた喜びに浮かれているのか、先ほどとは打って変わって足取りも軽い。

 しばらく進むうちに、前方にぼんやりと白いものが浮かび始めた。

 揺れ動く塔と、溶けて混じり合った白壁の建造物。

 蜃気楼みたいに霞む遠景は、しかし、けっして幻ではない。

 

「ねえ、もしかして、あれが沙京?」

「残念だが、違う。ありゃ今夜泊まる町だ。沙京はもっとずっと先にある」

「なんだ――」


 がっくりと肩を落としたのもつかの間、夏凛はふたたび顔を上げる。

 あそこまで辿り着けば、長旅に疲れ果てた身体を休めることも出来るのだ。そう思えば、俄然力が沸き起こる。

 ゆらめく陽炎を追いながら街道を進むうちに、溶けたような家々は確かな輪郭を持つようになっていた。

 少しずつ傾ぎはじめた太陽を背に、二人は白い町へと足を踏み入れたのだった。

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