第42話 邂逅(二)

 呂江ろこうは、華昌国中部の小都市である。

 この近辺では最大の人口を誇り、城壁を有する唯一の城市まちでもある。

 夏凛は城門の近くで農婦と別れたあと、単身で呂江の市街地へと足を踏み入れていた。


 先を急ぐ旅とはいえ、不眠不休では身体が持たない。

 時には休息を取り、旅に必要な食料や生活用品を適宜買い入れる必要もある。

 それも、どうせ立ち寄るのなら、なるべく人口稠密な大都市のほうが好ましい。木を隠すなら森の中というように、いったん雑踏のなかに紛れ込んでしまえば、夏凛の素性をいちいち気にする者もいない。

 大都市になるほど人間関係が希薄になるのは、どこの国でも変わらないのだ。


 王宮を脱出したときに持ち出した宝石は、いまでもいくつか手元に残っている。

 それらを売り払えば、沙蘭国までの路銀には十分すぎるほどの金になるはずだった。

 夏凛は大通りを歩きながら、質屋と宿屋を探す。

 幸いと言うべきか、二つの店舗は通りを挟んで向かい合っていた。

 夏凛はしばらく考え込んだあと、まずは宿屋に足を向けた。今夜の寝床を確保しておけば、余裕を持って行動することが出来る。

 華昌国に入ってからというもの、ずっと野宿が続いているということもある。

 逃亡生活を経て野宿そのものにはさほど抵抗はなくなっているが、何日も続けばさすがに疲労も蓄積してくる。

 七月とはいえ夜は肌寒く、野犬や盗賊への警戒から眠りも浅くなる。

 たまには屋根のある場所でぐっすりと休みたい。湯船に浸かることが出来ればなおいいが、過度の期待が禁物であることも分かっている。

 

 宿屋の入り口に足を踏み入れようとしたとき、夏凛の背後にごろごろと転がってきたものがある。

 振り返ってみれば、それは人間だった。まだ二十歳になるかならないかの若い男だ。

 中原ではめったに見かけない金糸の髪と、藍青色ラピスラズリの瞳。通りの埃っぽい空気のなかで、白皙の肌は陽光を浴びて輝いている。

 その取り合わせの妙に目を奪われたのもつかの間のことだ。

 おそるおそる近づいていこうとした夏凛の前で、は火を噴くような勢いで吠え立てはじめた。


「てめえ、何しやがる――!!」

「商売の邪魔だからつまみ出したまでだ。文句あるか?」


 おそらく向かいの質屋の主だろう。禿げ上がった中年男は青年の前に進み出ると、やれやれというようにため息をつく。


「ごちゃごちゃ言ってねえで、さっさと俺の荷物を返しやがれ!!」

「だから、さっきから何度も言ってるだろうが。金を持ってくりゃすぐにでも返してやるよ。そういう商売なんでね」

「人が寝てるあいだに財布まで巻き上げといて何を言いやがる。あのアバズレ女とてめえ、裏で繋がってやがるんだろ!?」

「言いがかりはよしてくれんかね。恨むんなら、不用心な自分を恨むんだな」


 店主は呆れたように言って、その場でくるりと踵を返す。


「こっちにも商売の仁義ってもんがある。あんたの持ち物は買い手がつくまでは取っておいてやるよ。質種しちぐさが流れちまうまえに取り戻したかったら、頑張って金を工面することだな」


 にべもなく言って、店主は店の奥へと引っ込んでいった。

 青年は蜂蜜色の頭髪をかきむしり、声にならない呻き声を上げている。

 夏凛はしばらく様子を伺っていたが、やがて意を決したように青年に歩み寄っていった。


「どうかしたの?」

「あ……? なんだ、おまえ?」

「大声で騒いでいたから、気になって」

「べつに――遊女おんなに身ぐるみ剥がされただけだ。床に入るまえに一服盛られたらしい。目が醒めたら寝床にゃ俺ひとり、金目のものは全部しちに入れられてた。俺としたことが、まったくツイてねえ。まさかこんなドジ踏むとは思ってなかったぜ。それとも、因果応報ってやつか……?」


 青年は独りごちるように言うと、天を仰いで嘆息する。


「他のものはどうでもいい……だが、だけは……」

「そんなに大切なものなの?」

「大切なんてもんじゃない。俺にとっては生命よりも大事なものだ。あの店主なら、本当の値打ちも分からずに二束三文で売っぱらうだろうがな。いまの俺にはその二束三文さえ用意出来ないのが情けねえが……」


 青年は夏凛に背を向けると、頭を抱えてぶつぶつと独り言を呟きはじめる。

 これから取るべき方策について考えを巡らせているのだろう。


「急いで沙蘭国さらんこくまで戻れば……いや、とても間に合わないか……」

「ねえ、あなた、いま沙蘭国って言わなかった?」

「言ったが、それがどうかしたか」

「あなた、沙蘭国の生まれなの?」

「だったらどうした。悪いが、いまはそれどころじゃねえんだ。話し相手がほしいなら他を当たってくれ」


 夏凛はしばらく逡巡したあと、ちらと横目で青年を見やる。


「ここから沙蘭国までの近道、知ってたりする?」

「そこらじゅう旅してたからな。地元の人間しか知らない近道や抜け道も知ってるさ。……おまえ、さっきから何が言いたいんだ?」

「ふうん……」


 夏凛は一人合点がいったように手を打つと、


「あなたがさっき言ってた大切なものって、どんなものか教えてくれる?」

「首飾りだ。このくらいの大きさで、琥珀がはめ込まれてる。それに金の鎖がついていて……」

「ちょっと待ってて――」


 小走りに質屋へと駆け込んでいった。

 それから十分と経たないうちに、夏凛は革袋を手に店から出てきた。

 怪訝そうに見つめる青年のまえで革袋から取り出したのは、はたして金の鎖に結ばれた琥珀の首飾りブローチであった。


「あなたが取り戻したかったのはこれかしら?」

「そ、そうだ!! あんた、買い戻してくれたのか!?」

「二束三文だなんて言ってたけど、けっこう値が張ったわよ」

「ありがたい。もう駄目かと思ったぜ。親切なお嬢さん、いいや、天が遣わしてくださった救いの女神様。この恩義はいずれ必ず……」

「だーめ――早とちりしないでちょうだい。返してあげるなんて、私は一言も言ってないわ」


 わざと意地悪げに言って、夏凛は青年の手を払いのけると、首飾りを懐にしまいこむ。 


「おい‼ どういうつもりだ!?」

「どういうつもりもなにも、私が買い取ったんだから、これはもう私の所有物ものよ。あなたが私の言う条件を呑んでくれたら返してあげてもいいけれど」

「なんだ? その条件ってのは――」

「沙蘭国までの道案内を頼みたいの。知っているんでしょ、近道?」


 突然のことに青年は言葉を失ったようだが、やがて真顔に戻ると、信じられないものを見るような目で夏凛を見つめた。


「おまえ、なんだってあんな砂と岩しかない最辺境のド田舎に行きたがるんだ。沙蘭国がどんなところか知ってんのか。しょっちゅう蛮族が攻めてくるし、だいたい国王からしてケチなうえにスケベなろくでもない耄碌ジジイなんだぞ。やめとけって」

「そうだとしても、私は何がなんでも沙蘭国まで行かなければならない理由があるの」

「なんだよ、その理由ってのはよ」

「それは――」


 夏凛は喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 ついさっき出会ったばかりの青年に真実を語るのは、いかにも軽率な行動と思われた。

 自分を落ち着かせるように呼吸を整え、夏凛はまっすぐに藍青色の瞳を見つめる。真冬の空よりもなお深く冷たい青色を湛えた双眸は、じっと覗き込んでいると吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われる。


「……言えない。言えないけど、とても大事なことよ」

「答えになってねえぞ」

「とにかく、私を沙蘭国まで案内してほしいの。嫌だというなら、この首飾りは二度とあなたのところには返ってこないと思いなさい」

「あのな、世間知らずのお嬢ちゃん。俺は男で、おまえは女だ。力ずくで奪い取られるかもしれないとは思わないのか?」

「おかしな真似をしたらその場で叩き壊すまでよ」


 試すように問うた青年に、夏凛はあくまで冷徹に言い放つ。

 青年もたんなる脅しではないことを理解したようだった。悔しげに眉根を寄せ、唇を噛んでいる。


「お、おまえ……」

なら、壊されたら困るでしょう?」

「まだガキのくせに、なんて性悪女だ――」

「失礼ね。私はもうじき十五歳。立派な大人よ」


 夏凛は首飾りを指にひっかけ、これ見よがしに青年の目の前に示してみせる。


「さあ、どうするの? 道案内をしてくれるのかしてくれないのか、ここで決めてちょうだい」

「ちくしょう……おまえ、覚えてろよ!!」


 捨て台詞に反して、青年は夏凛の前に跪いていた。

 その挙措が七国において主従の誓いを表すことは、どちらも承知している。

 たとえいびつなものであったとしても、ともかく契約は成立したのだ。


***


「ふうん――れい、ね」


 夏凛は湯餅うどんを口に運びながら、ぽつりと呟いた。

 質屋を後にした二人は近くにあった食堂に入り、遅い昼食を取っている。

 青年――怜は空になった器を置くと、夏凛のほうに目を向ける。


「なんだよ、その顔は? なにか変なこと言ったか?」

「べつに。……ただ、見た目の割に案外普通の名前なんだなって思っただけ」

「言っとくが、この髪とは母親譲りだ。親父はどこにでもいる沙州さしゅう人だった」

「あなたみたいな見た目の人、沙蘭国にはよくいるの?」

「いや……何十年かに一度、西の砂漠を越えて外国とつくにの旅人が流れてくる。ほとんどの連中は来た道を引き返そうとするが、なかにはそのまま住み着く奴もいる。俺の母親おふくろもそうだった」

「お母さんは元気?」

「……死んだよ。とっくの昔にな」


 一瞬青年の顔をよぎった寂しげな表情に、夏凛は胸の痛みを覚えた。

 あの首飾りは、おそらく怜の亡母にまつわるものなのだ。

 誰かの大事なものを盾にとって従わせることには罪悪感も覚えるが、しかし、背に腹は代えられない。

 夏凛ひとりでは、このさき華昌国を無事に抜けられるとは思えなかった。水先案内人がいれば、沙蘭国までの旅程はずっと確実なものになる。


「……沙蘭国に帰るの、そんなに嫌?」

「俺は末っ子なんだが、親父や兄貴たちと折り合いが悪くてね。十七歳のときに家をおん出て、それから住処は旅の空よ。もっとも、最近はどこもキナ臭くて、おちおち名所巡りも出来なくなっちまったが――」

には、行ったことはある?」

「あるが……それがどうした」


 夏凛は何も言わず、ただ首を横に振っただけだ。

 成夏国――。

 もうこの世のどこにもなくなってしまった、たったひとつの生まれ故郷。

 懐かしいその名を口にしただけで、愛しい者たちと過ごした日々が鮮明によみがえってくる。

 おもわず涙がこぼれそうになるのを誤魔化すように、夏凛は器を傾けて一気につゆを飲み干そうとする。

 ひどく塩辛い。それが田舎風の味付けのせいなのかどうか、夏凛には分からなかった。


「さて――質問に答えたところで、俺からもひとついいか」

「……なに?」

「あんたの名前だ。一緒に旅をするのに、お互いの名前も知らないんじゃ不便だろ」


 相手に名前を尋ねたときから予想していたとはいえ、こうして実際に名を問われると、夏凛は戸惑いを隠せなかった。

 この場を無事に切り抜けるためには、努めて無表情を保たねばならない。わずかでも取り乱す素振りを見せたなら、相手に疑念を抱かせることになる。


「……りん

「それだけか?」

「あなただって、姓もあざなも隠しているでしょ」

「まあ、そうだが……」

「べつに責めてる訳じゃないわ。どうせ沙蘭国までの短い付き合いなんだし、あんまり深入りしないほうがお互いのためじゃなくて?」


 表情こそ取り澄ましているが、夏凛の胸は不安に押しひしがれそうになっている。

 適当な偽名ではなく、あえて本名を教えたのは、そうすることで逆に疑念を抱かせないようにとの考えがあってのことだ。

 目の前の風変わりな青年が、まさか自分の正体を知っているとも思えない。

 それでも、万が一ということもある。

 もし怜が華昌国の役人に密告したなら、夏凛はたちまちに捕縛されてしまうだろう。いまや華昌国はボウ帝国の同盟国も同然であり、そうでなくとも旧成夏王家への憎悪は根強いのだ。

 身分を隠して旅をする者にとって、同行者はしばしば身を滅ぼす原因になる。

 怜を旅の道連れに選んだのは、夏凛にとってもひとつの賭けだった。


「分かったよ、ご主人様」

「凛でいいわ。私もあなたのことは怜と呼ばせてもらうから」

「これからせいぜいよろしく頼むぜ――凛」


 ぶっきらぼうな怜の言葉に、夏凛は奇妙な胸の高鳴りを感じていた。

 考えてみれば、肉親でもない男に名前を呼び捨てにされるのは、正真正銘これがはじめてだった。

 李旺が最後まで呼んでくれなかった自分の名前を、ついさっき会ったばかりの男が気安く……。

 ひとたび意識しはじめると、頬のあたりがやけに熱くなってくる。

 動揺を悟られまいと俯く夏凛をよそに、怜はさっさと席を立っていた。


「さあて、と――腹ごしらえも済んだところで、さっそく旅支度に取り掛かるとするか」

「旅支度って、あなた、荷物は質に入れられたままでしょ」

「そうだ。店の親爺おやじにふっかけられるのを承知で買い戻すのも馬鹿馬鹿しいからな。新しく揃えたほうが早いし、安上がりだ」

「お金はどうするつもり?」

「もちろん雇い主が出すに決まってるだろ。国境くにざかいへの近道はキツいんだ。着の身着のままじゃ、とても沙蘭国まで案内するどころじゃないぜ」


 当たり前のように言ってのけた怜に、夏凛は深いため息で応じた。

 逆らう心配のない案内人を得たつもりが、とんでもない拾いものをしてしまったのかもしれない。

 お世辞にも人生経験が豊富とは言えない夏凛だが、青年が飄々とした佇まいの裏になにか底知れないものを隠していることは分かる。

 くれぐれも油断は禁物だ――自分自身に強く言い聞かせながら、夏凛も席を立とうとする。

 食堂の外でけたたましい物音が鳴り響いたのはそのときだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る