第32話 宿命(一)
「ごちそうさま――」
あるかなきかの声で言って、翠玉は箸を置いた。
父母とともに食卓についたものの、卓上に並んだ料理にはほとんど口をつけていない。
大好物である生地にクルミを練り込んだ
「翠玉、どこか具合でも悪いのか?」
口髭をたっぷりと蓄えた四十がらみの中年男である。
生来の短気さから使用人に恐れられているこの男も、娘の前では別人のように優しい顔を見せる。
「べつに……」
「顔色もあまりよくないようだ。医者に診てもらったほうがいいんじゃないか」
「本当に何でもないわ。ちょっと食欲がないだけ」
翠玉がわずかに俯いたのは、目の下に浮かんだくまを隠すためだ。
昨晩はまんじりともせずに夜を過ごし、とうとう一睡も出来ないまま朝を迎えた。
それも無理からぬことだ。
予期せず馮
滅んだはずの成夏王家の姫が、身分と名を偽って荘家の農場で働いている。
そのことを知っているのは、この家で自分だけなのだ。
うかつに口を滑らせれば、何もかもが台無しになる。慎重に事を運ばねば、
あれこれと思い悩むうちに翠玉はすっかり憔悴し、もはや水さえも喉を通りそうにない。
「もしかして恋煩いじゃなくて?」
「え――」
母親の
四十間際にしては若く見える彼女は、織物工房の女主人であり、農場の実質的な経営を一手に担う女丈夫でもある。
夫と娘に先んじて食事を終えていた彼女は、茶を啜りながらなおも言葉を継いでいく。
「あなたくらいの年頃にはよくあることよ。翠玉もじきに十五歳。立派な大人の仲間入りをする
「そんなんじゃないわ。私は、べつに……」
「本当のことは親には言えないものよね。そうでしょう、あなた」
ふいに水を向けられた荘融は、憮然とした面持ちで
男親としては、愛娘がどこの誰とも知れない男に懸想しているのはけっして面白い話ではない。
まして食事も取れないほど思い詰めているとなれば、相手の男を殴りつけてやりたい気分だった。
いずれ翠玉には荘家の家格にふさわしい結婚相手を見つけてやるつもりなのだ。
それまではおとなしく親元で花嫁修業でもしていればいい。
恋に恋する年頃とはいえ、くだらない男に熱を上げた挙げ句、二人で駆け落ちでもされてはたまったものではない。これまで娘には一方ならぬ愛情を注いできた分、束縛もまた強いのだった。
「父さん、母さん――私、やっぱりちょっと熱があるみたい」
「そうだろう。部屋で休んでいなさい。医者を呼びにやらせよう」
「いいえ、手の空いている者に馬車で
心配そうに顔を見合わせた両親にむかって、翠玉は精一杯の笑顔を作る。
「大丈夫。きっと大したことはないわ。それじゃ、支度をしてくるわね」
言い終わるが早いか、翠玉はさっさと席を立っていた。
その瞬間、娘の面上をよぎった剣呑な表情を、両親はついに見ることはなかった。
***
世間では栄転ということになっている。
なるほど太守に任じられるにあたって官位は昇進したし、俸禄も大幅に加増された。
それでも、王都を遠く離れた国境の小都市に追いやられたのは、中央官界の生え抜きである趙宇文にとっては『都落ち』にほかならなかった。
二年前の革命は、十年一日のごとき官吏の世界にも大激震をもたらした。
極端な実力主義の導入はその最たるものだ。
長年勤め上げたベテランだろうと、その職務に見合うだけの能力がないと判断されれば容赦なく地位を追われる。その一方で、才能を認められれば年齢や経歴に関係なく高官に抜擢されるようにもなった。
それは末端の下僚だけでなく、太守や県令といった国家の重職においても言えることだ。
大過なく一定の任期を終えさえすれば、中央での出世が約束されていたおおらかな時代は、すでに過去のものになっている。
なんらかの功績を挙げなければ、今後の栄達はおろか、現在の地位に留まることさえ難しくなっているのだ。
任期中に太守を罷免されたとなれば、官吏としての趙宇文の人生はその時点で終わりである。ひとたび任用に耐えないと見なされた人物には、二度と再起の機会が与えられることはないはずだった。
問題は、どのようにして功績を挙げるかだった。
不幸にも郡内には軍兵を送って討伐するような盗賊もおらず、各地の村々はよく治まっている。
税を重くすれば一時的に収入は増加するが、その代償に郡の治安と経済が悪化するであろうことは、
堤防や橋梁の建設といった公共事業を推進しようにも、その必要性が薄ければ、かえって国費の無駄遣いと謗られる。それだけならまだいいが、太守が公金を横領したなどと噂されれば、文字通りの意味で首が飛びかねない。革命以来、
立身出世を遂げるどころか、下手に立ち回れば生命さえ失いかねない――懊悩のあまり、趙宇文はほとんど身動きが取れなくなっている。
そのあいだにも、時間は無情に過ぎ去っていく。
赴任してからの半年というもの、仕事といえば書類に印判を押すことだけだ。
彼が印判を押さねば郡の行政は停滞するのだが、それだけでは十分な働きがあったとは認められないはずだった。
太守の任期は長くても三年あまり。最初の一年でさしたる功績を残せなかった者が、残る二年で大功を樹てられるとも思えない。
足踏みをしている自分を尻目に、かつての同僚たちは順調に出世街道を歩んでいることだろう。
このままでは、地方での功績を引っさげ、華々しく中央官界に復帰するという目論見も水泡に帰すことになる。
「なんとかせねば……」
趙宇文は嘆息し、親指の爪に歯を立てる。
少年時代、官吏登用試験のストレスから始まった爪噛み癖は、三十の半ばを過ぎたいまも治っていない。それどころか、益城に赴任してからさらに悪化している感さえあった。
いくら爪を噛んだところで、妙案が浮かぶはずもない。
吉報がもたらされることを天に祈ろうにも、それすら期待出来そうにない。
この数日中にあったことといえば、薄気味悪い盲人が
(どちらを向いてもろくでもないことばかりだ……)
ただの盲目の物乞いであれば即座に門前払いにしていたところだが、あの朱英将軍の紹介状を所持しているとなれば話は別だ。
趙宇文としても無下に追い返す訳にはいかず、やむをえず空いていた一室を与えている。いつまで益城に逗留するつもりかは知らないが、一刻も早く出ていってくれることを願うばかりだった。
一時は盲人が双剣を携えていたことと、ごろつきどもが斬り殺されていたこととの関係を疑いもしたが、たんなる思い過ごしであろう。杖に頼らねばまっすぐ歩くことさえままならない人間が、まさか武器を手にした十人からの無法者を皆殺しに出来るはずもない。
ごろつきどもは、凄惨な内輪揉めの末に一人残らず全滅した――そう結論付けるのが自然であり、それ以上の詮索は無用と思われた。
「太守閣下――」
部屋の外から呼びかけられ、趙宇文ははたと我に返る。
声の主は、日頃から秘書官としてさまざまな雑事を任せている下級官吏であった。
「……何の用だ?」
「若い娘が一人、閣下に面会を求めております」
「いまは取り込み中だ。だいたい、面会の約束もなしに
趙宇文は苛立ちを隠そうともしない。
責め立てるようなその言葉に、秘書官は口ごもる。
「それが……」
「それが、なんだ? はっきり申さぬか」
「自分は夏凛王女の居場所を知っている――と申しております」
驚きのあまり、趙宇文は椅子から転げ落ちそうになった。
「か、夏凛王女だと……」
成夏王家は二年前の変事で断絶した――表向きは、そういうことになっている。
だが、王の末娘である夏凛がまだ生きているらしいことは、昴帝国の高官のあいだでは公然の秘密だった。
それでも、夏凛が成夏王家の血を引く最後の大物であることには違いない。
事実、いまも朱鉄の命によって秘密裏に捜索は続けられているのである。
王女を生け捕りにすることが出来れば、太守である趙宇文にとってはこの上ない大手柄だ。
なんとなれば、生け捕りに拘る必要もない。
そもそも、表向きにはすでに死んだことになっている人間なのである。どのみち王都に連行されたあとで処刑される運命なのだ。
いずれにせよ、二年ものあいだ国家が取り逃がしてきた王女を発見したとなれば、朱鉄におおきな貸しを作ることになる。上手く利用すれば中央官界に戻るどころか、大臣の地位に就くことも夢ではない。
(これこそ天佑だ――)
欣喜雀躍の心地とは、まさにこのことであろう。
秘書官に案内されるまま、趙宇文は娘が待つ広間へと急ぐ。
「娘、夏凛の居場所を知っているというのは
趙宇文に問われ、翠玉はうやうやしく頭を下げる。
「はい、太守閣下。誓って偽りは申しませぬ」
「そちは何者だ? なぜそのことを知っている?」
「私は
「確証はあるのか?」
「二人が話しているのをたしかに聞きました」
趙宇文は翠玉の顔を覗き込む。
わずかに後じさったのは、少女の顔に漲った凄絶な鬼気のためだ。
可憐な顔を覆い尽くすのは、凶悪なまでの邪気であった。
これほど凄まじい気迫を前にしては、うかうかと疑念を口にすることなど出来ない。
「あの娘には以前から怪しいところがございました。すぐに捕らえて下さいまし」
「しかし、まずは詳しく調べてみなければ……」
「もし勘付かれれば、そのまま取り逃がすことになりますよ」
翠玉に上目遣いに睨めつけられ、趙宇文はほとんど腰を抜かしそうになった。
仮にも太守ともあろう者が、娘ほど年の離れた少女に圧倒されている。
滑稽といえばあまりに滑稽な光景だった。
「ひとつだけお願いがございます」
「なんだ……?」
「王女はどうなろうと構いませんが、その兄――
「なにゆえそのようなことを望む?」
「あの男を愛しているからでございます」
臆面もなく言ってのけたのは、恋をしている女の強さであろう。
しばらくぽかんと口を開けていた趙宇文だが、やがてごほんと咳払いをすると、
「よかろう。そちの願いが叶えられるよう、出来るかぎり善処する」
太守らしく威厳に満ちた声で言った。
「ありがとうございます、太守閣下」
「ところで、そちの父母はこのことを知っておるのか?」
「両親はまだ何も知りません。病と偽って家を抜け出し、私の独断でご報告に参上しました」
趙宇文は翠玉の並外れた行動力に舌を巻く思いであった。
男を思い慕う気持ちが、十五かそこらの娘にここまで大胆な行動を取らせるものか。
と、杖を手にした盲人がふらりと広間に入ってきたのはそのときだった。
誰もその接近に気づかなかったのは、影みたいに気配を消していたためだ。
「き、貴様は……」
「夏凛がこのあたりに潜んでいるそうだな」
言って、張玄は唇を歪ませる。
翠玉に劣らず凶猛な笑みだった。両目を真一文字に横切る無残な傷痕の分、凄みではいくらか張玄に分があるかもしれない。
「俺も同行させろ。夏凛のそばにはきっとあの男がいる」
「あの男とは、馮克とかいう……」
「李旺だ」
趙宇文の言葉をかき消すように、張玄は語気強く言い放つ。
「奴が護衛についているかぎり、並の兵士が百人がかりでも夏凛を捕らえることは出来ん。奴とまともに戦えるのは俺だけだ」
「しかし、そちは
「あのごろつきどもを殺したのは俺だ」
それきり二の句を継げなくなった趙宇文をよそに、張玄は翠玉に近づいていく。
「そこの娘。手足が一、二本欠けても――両目が潰れても、あいつを愛せるか?」
「もちろんです。たとえどんな身体になっても、私はあの方と一生添い遂げる覚悟です」
「安心しろ、俺も奴を殺すつもりはない。ただ、二度と剣を取れない身体にするだけだ。かつて奴がこの俺にそうしたようにな」
張玄は呵々と大笑する。
さまざまな感情が綯い交ぜになった、それは奇妙な笑い声だった。
この二年間、あてどなく各地をさまよい歩き、ようやく宿敵と巡り会えた喜び。
あの日から棚上げになっていた決着をつけることが出来る興奮と高揚。
そして、みずからの手で生きていく目的に終止符を打たねばならない哀しみ。
すべてが渾然一体となって、張玄の胸の
「太守殿、何をしている? ぐずぐずしていると、奴と夏凛に逃げられるぞ」
「言われずとも分かっている――」
趙宇文はむっとしたように眉根を寄せる。
もっとも、どんな表情を浮かべたところで、張玄には関係ないことだ。
「今夜のうちに軍兵を沢鹿に向かわせる。そちも力を貸してもらうぞ」
張玄は軽く右手を振る。
了解した、と言っているつもりなのだろう。
郡内の兵士に緊急招集がかかったのは、それから一時間と経たないうちだった。
おだやかな時間が流れていた国境の
危機が迫りつつあることを、夏凛と李旺はまだ知らない。
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