第五十一話 ……ねえ、これって?


【マリこと早坂はやさか海里かいりの視点は、まだ続いている】



妙子たえこ、どうした?」


 と、みつるさんは訊く。

 それから妙子という女の人は、小さな子供……五歳くらいかな? を連れていた。


 僅かだけど異様な、時の空間。

 停止するの、音も、風景さえ。


「その子、誰?」


 と、やや低めの声……で訊く、満さんに。

 低めとはいっても、もともとそうかもで、何か、……何だか。



「ああ、紹介するよ。僕のファンの早坂海里ちゃんだよ」


「は、早坂海里です」


 と、急な紹介モード? 察しているけど、

 その先は聞きたくないとの、そんな思い。


「それで、こちらが僕の嫁さんの妙子と、娘の涼子りょうこ


北川きたがわ妙子です。主人がいつもお世話になってます。涼子ちゃん、ご挨拶は?」


「きたがわりょうこ」


「涼子ちゃんか、いい名前だね」


 同じ目線に位置、わたしはしゃがむ。……しゃがんでいた。


「名前といえばね、このお店の名前、海里ちゃんから取ったんだ。『海里』と書いて『マリン』と読むだろ、この子のイメージなんだ。気に入ってくれたかい?」


 と、わたしに問う、急に。

 奥様……妙子さんにではなく、わたしに振った?


「それから海里ちゃんこと……

 マリちゃんは、瑞希みずきの教え子なんだ」


「そうなの。瑞希の……」


 と、妙子さんは、何か意味ありげ。瑞希先生との関係は?

 ここは深読みかな? と思う次の瞬間、


「ねえパパ、遊園地行こうよ」


 と、クイクイと涼子ちゃんは、満さんの小指を引っ張る。


「そうだな、行こうか。

 マリちゃんもどう? まだまだお話したいこと……」


 それ以上はもう耳に入らず、わたしは、


「ごめんね、帰るね。用事があるの思い出しちゃったから」


 と言ったの。何だか、……何だか込み上げてきたの。


「あっ、僕の方こそごめんね、マリちゃん越してきたばっかりだし、色々あるよね。じゃあ、お家まで。団地(公営住宅)まで送ってあげるよ」


「ううん、いいの。歩いて帰る。

 気を付けて帰るから、大丈夫だから。……じゃあ、バイバイ」


 と、わたしは出る。

 わたしと同じ名前の喫茶店を。



 もう顔は見ないで、そのままお外へ。日差しが眩しくて目に染みるね。


 ……グスッ。


 涙が溢れて、零れてきて……


 止まらない。すると、するとね、いつの間にか、目の前に海斗かいとがいた。


 自転車を押していた。

 向日葵のような黄色の自転車を押して。


「帰ろっ、お姉ちゃん」


 と、いつもと変わらない表情の海斗。


 涙を拭く、それでも顔は涙で濡れているけれど、そのことについては、海斗は何も触れず聞かなかった。二人乗り。わたしは後ろに乗り、海斗に掴まる。しっかりと……


 今は只々それだけ。溢れる涙はそのままに、


 零れる涙もそのままに、未だ午前の風の中、風任せに自転車は走るの。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る