第五話 事は全てエレガントに運べ
教えるにしてもこっちも準備が必要なので、その日はそこで失礼させてもらうことにした。
教材や機材の手配はみこみこさんがしてくれると言うことなので、今は肩を並べて極薄半透明モニター搭載のノートパソコンの前で片っ端からリストアップしているところである。何だかみこみこさんが忙しなく手を動かすたびに物凄く良い香りが漂ってきて妙に落ち着かない。
当たる肩も柔らかいし、ほわん、と温かいのがまたいいなあ。
何でこの人モテないんだろうか。
「……おい。聞いているのか、多田野宅郎二十八歳?」
「き、聞いてますよ……。っていうかですね、いい加減名前の一部で歳を呼ぶのやめません? やめてくれないなら俺の方も今後はそれで行きますよ? 御子神美琴三十三歳独身さん?」
「ど! 独身は余計だろ! ……分かった分かった! ちゃんと呼ぶ! それでいいな?」
ぷくー!と膨れる顔も意外と可愛い。
あ、
俺が思いつくままに口頭で挙げていったラインナップを一つずつ慣れた滑らかな手つきで入力し終えてしまうと、改めて頭から一通り吟味したみこみこさんがスクリーンを見つめたまま片眉を吊り上げるのが分かった。
「ふむ……大抵のアニメは、最悪、国会図書館に行けばアーカイブが残っているし、デジタルデータの入手は可能だろう。問題は、リストアップされた漫画の教材の方なんだが……」
「さすがに紙は無理っすか」
「おいおい……三〇〇年経過しているんだぞ?
「ま、それは仕方ないっすね。無理かもなーって思ってましたし。ところでですけど――」
俺の方も、もう少し今のこの時代の状況を把握しておく必要があるだろう。それに、一番肝心な話をしていない。凛音お嬢様の前では少し
「どうしてみこみこさんとあの凛音お嬢様の間で、『オタク・カルチャー』に関する知識の差がそこまで生まれてしまうんですか? ごく普通の一般市民は、どうやって『オタク・カルチャー』に触れ、それを吸収するんです?」
「ほう。良い質問だな、宅郎。では、ちょっと講義をしてやるとしようか」
女性慣れしていない俺は、いきなりの名前呼びにちょっとどきりとしてしまったが、研究員の中でも皆を統率する立場にあるみこみこさんの方は慣れたものだ。気にしていないらしい。
それからみこみこさんは横着をして、俺の背中越しに壁面に埋め込まれた液晶パネルを操作し、二人分の熱い珈琲を取り出そうとしたのだが、
な、何か、ふよん!って当たった……ぞ。
これ、いわゆるおっぱいじゃねえの!?
「ええと、ミルクと砂糖はいるかね? ……な、何だ、その顔は? 何処かにかかったか?」
「ダイジョブデス。ブラックダイスキ」
……無自覚かつ無防備すぎる。
この人もこの人で、研究一筋で男付き合いは皆無、って感じだなあ。
「ほれ。まあ、飲みながら良いから聞きたまえ。……そもそもの話、『オタク・カルチャー』を国有財産として正式に保護したのが一〇〇年前の話で、国民の必須教養として義務づけたのはつい最近、たかだか二〇年前の話だ。問題の『宅検』も同じ時期に生まれている」
「なら、十分時間はあった筈じゃないっすか。凛音お嬢様はまだ十七歳ですよね?」
十七年間も生きてきて、あの状態はちょっと酷いんじゃないかと思うのだ。
それを半分非難がましいとでも受け取ったのか、みこみこさんは軽く首を
「そう
「と言うと?」
「もう何となく察しているとは思うが、ここ鞠小路家は、かつての華族のような特権階級に似た存在で、政財界にまで影響を及ぼす地位と権力を持っている。そして、鞠小路家を含めた四大華族と称される名門・名家の中で、最後の最後まで『オタク・カルチャー』を否定し続けてきたのがこの鞠小路家なのだよ」
つまり、『オタク・カルチャー』が国有財産化される前の鞠小路家は『オタク・カルチャー』否定派であり、それ以前もそれ以降も受け継ぐべき伝統を持っていなかった、ということか。ならば、あの凛音お嬢様の無知ぶりも頷けよう。
「――完全に出遅れたのだな、鞠小路家は。そして、いまさらの付け焼刃で何代にもわたって知識を得ようとしたのだが、元々が否定派だ。いまだ根強い嫌悪感もある。そこに来ての『宅検』義務教育化が今日という訳なのだな。我々も長きに渡って尽力してきたが、やはり
「そこで、生きた知識を有する俺の出番、という訳なんですね? でも俺は、教師どころか家庭教師もやった経験ないっすよ? ホントに俺で何とかなるんですかね?」
と俺が泣き言めいた気弱な台詞を口にしたところで、みこみこさんは意外な行動に出た。
「君はできるだけの力を持っているだろう? なら、できることをやれよ」
「え……!? そ、それ、SEEDのムウ・ラ・フラガの名台詞っすよね。驚いたな、どうして知ってるんですか? ……でも、響く科白っすね、今の俺には」
「ふふふ。だろう? お望みならばこうも言ってやれるぞ――あなたならできるわ、と」
「勝手すぎます。僕にはそんな器用なことできません……って、今度はファーストっすか」
ガンダム・シリーズ名台詞二連投でさすがに驚きを隠せない俺である。
『宅検』ほぼ満点は伊達じゃないな。
と同時に、こんなディープな話題を女の人としていること自体が夢のようで、自然と顔がにやけてしまった。いかんいかん。
それはさておき。
これで皆が総力を挙げて凛音お嬢様をコッテコテのオタクに仕上げようとする経緯と意気込みは分かってきた。ならば、こちらも覚悟を決めるために、最後に生臭い話をしておかなければならないだろう。
「あと一つ、肝心なことを聞かせてください」
何だ?とみこみこさんは無言で続きを促した。
「無事ミッション達成の暁には、俺はどんな報酬を得られるんでしょうか? さすがに、元の世界の元の時間に戻してくれるとは言っても、たったそれだけで頑張れるほど俺は出来た人間じゃないですよ。欲も見栄も、憧れや夢だってあるんです」
「大抵の要望には応えられると言っておこう。無論、鞠小路家に害のない範囲でだがな? ただし、貨幣の類は持ち帰っても使えないぞ。すでに仮想通貨が一般的な世界だからな。まあ、貴金属の類なら換金可能だろうが――」
「……俺はオタクですよ?」
「知ってるさ。知っているとも」
即座に現金を提示されて少しむっとしてしまう。
俺が期待しているのはそういうことじゃない。
「ならば……三〇〇年間分のアニメや漫画のアーカイブを手配しようか? あ、い、いや、これは失言だった。どうか忘れて欲しい。オタクという生き物は――」
「「ネタバレが一番大嫌い」」
期せずしてハモってしまった。
どちらともなく、くすくす、と笑い合う。
「ならば、これはどうだ? この世界に残り、最もビジネスの才能を持つ男として再スタートするというのは? 君が持つ知識ならば、政界入りだってそう難しくはない。魅力的だろ?」
鞠小路家の後ろ盾もあるのだから、それはあながち冗談とも言えないのだろう。
だが、やっぱりしっくりとこない。
「それについては、ちょっと自分なりに考えさせてもらってもいいですかね?」
「ああ、構わんとも。その時間は十分にあるだろうからな。また聞かせてくれたまえ」
さて、準備は整った。
いよいよ明日からミッション開始である。
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