第12話 紫陽花
昨日から降っていた雨が、明け方に上がった。
起き抜けてスマートフォンを手に取ると、景都から、
(雨がやんだから、撮影行けますよね)
っていうメールが来ている。
同じ内容で文章が違うのが五通も溜まっていた。
(大丈夫、迎えに行くよ)
ってメールを打つと、彼女から、
(よかった。お弁当作りますね)
っていうメールが返ってくる。
彼女がキッチンでぱたぱたと元気に動き回ってるのが想像出来て、思わず頬が緩んだ。
俺は顔を洗って、すぐに支度をする。
「おはようございます」
マンションに迎えに行くと、景都は涼しげな水色のワンピース姿で、大きなバスケットを抱えていた。
もちろん、その首にはF3を提げている。
「おはよう」
出掛ける前に、一度、借りている機材部屋部屋に寄った。
「この前、広角レンズを使ったから、今日は望遠レンズを使ってみよう」
「はい、師匠」
防湿庫の中から、180㎜ F2.8と三脚を持ち出す。
「お姉さんにご挨拶したほうがいいよね」
「お姉ちゃんは、徹夜してぐっすり寝てると思うので、起こさないほうがいいです」
景都が声を潜めて言った。
なるほど。
起こさないよう、杏奈さんの部屋の前を、忍び足で抜けて玄関を出る。
「今日は、どこに行くんですか?」
「そうだね。見頃だから
空が薄曇りなこともあって、花を撮るにはぴったりの天気だ。
「紫陽花ですか。その撮影が終わったら、師匠を不動産屋さんに案内しますね」
「うん、お願いします」
彼女が紹介してくれるという不動産屋に、条件に合う物件があればいいのだけれど。
以前、同じように紫陽花を撮影したことがある寺まで車を走らせた。
この時期、紫陽花でマスコミに取り上げられる有名なお寺さんではなくて、そういうのとは無縁の、山奥の静かなところだから、落ち着いて写真が撮れると思う。
目的地までは、一時間と少しかかった。
山裾の駐車場に車を停めて、参道まで歩く。
「わぁ、すごい!」
目の前の景色に、景都が目をぱっちりと開いて声を上げた。
山の斜面に沿って中腹まで続く参道を見上げると、両脇に植えられた紫陽花が満開を迎えている。
青や紫の紫陽花が、鮮やかな緑の葉の上に、星のように無数に浮かんでいた。
雨のあとで、花や葉っぱの上に露が乗って、それがキラキラと輝いている。
しかも、俺達以外では二組の老夫婦がいるだけで、辺りは静かだった。
落ち着いて撮影が出来そうだ。
「それじゃあ、レンズを着けてみよう。もう、やり方は分かるよね」
俺は景都にレンズを渡した。
「練習したので出来ます」
彼女は以前教えた通りにレンズを交換する。
もう、その手付きも慣れたものだ。
「おっきいレンズですね」
今までの50㎜より三倍以上の長さで経も太いから、F3がごつくて戦闘的に見える。
「これは望遠レンズだから、遠くの物を大きく写すレンズだってことは、分かるよね」
「はい」
「その他にも、望遠レンズで撮ると、背景を大きくぼかすことが出来るし、圧縮効果で標準レンズで撮るのとは違う写真が撮れるんだよ」
「圧縮効果、ですか?」
景都が首を傾げた。
「まあ、試してみよう」
俺は参道の端に三脚を立てて、参道脇の紫陽花にレンズを向けた。
「ファインダーを覗いてみて」
構図を決めて、景都に見せる。
「わぁ、花がぎっしり」
「そう、圧縮効果っていうのは、遠くにあってホントなら小さく写るものが大きく写って、遠近感がなくなることなんだよ。奥行きが圧縮されて、賑やかになるよね。これで人混みを撮ると大群衆に見えたり、車列を撮ると大渋滞に見えたりね。サイズ感が分からなくなって、面白い写真が撮れるよ」
説明を聞きながら、景都がいろんな方向にレンズを向ける。
「師匠、師匠がたくさんの紫陽花に囲まれてます」
景都が興奮した声で言った。
いや、紫陽花に囲まれたおじさんとか、それは悪夢でしかないから。
「じゃあ、そのレンズで撮ってみて」
「はい師匠!」
難しいことを言わずに自由に撮ってもらって、後で写真を見ながらアドバイスすればいいだろう。
そう思って、彼女に任せた。
景都は夢中で写真を撮る。
新しいレンズと画角に戸惑っているけれど、目が生き生きしていた。
ワンピースの裾を
彼女はすぐにフィルム一本撮り終えて、新しいフィルムに交換した。
「元気なお嬢さんですねぇ」
紫陽花を見に来ていた老夫婦が、景都に目を細める。
「ええまあ」
なんとなく、父親のふりをしておいた。
昼時になって、俺達は参道の階段を頂上まで登る。
こぢんまりとしたお堂にお参りをして、
眼下に街が見下ろせるベンチを見付けて、その上の露を払う。
バスケットを挟んで二人で座った。
「今日のお昼は、サンドイッチです。私が作る卵サンドとパストラミサンドは、すごく美味しいんですよ」
景都がバスケットの中身を広げる。
確かに、卵サンドは中身がふわふわで、パストラミサンドのほうは、スパイスが利いていて旨かった。
添えてあるピクルスも、景都が自分で漬けたのだという。
「師匠、ほっぺた大丈夫ですか?」
食べながら景都が訊いた。
彼女は、姉が俺を殴ったことを、まだ気にしている。
「うん、次の日には、もう、なんともなかったよ」
多少の嘘はついておいた。
「お姉ちゃんはああいう人なので、悪気とかはないんです」
「うん、分かってる」
「父と母がいないから、お姉ちゃんなりに、私のこと守ろうとしてくれてるんです」
景都が眼下の街を見下ろして言う。
雨上がりの街は、休日ということもあって、どこかのんびりとしていた。
「景都ちゃん、立ち入ったことを訊いていいかな? ご両親がいないっていうのは……」
今までの話から、父親の海外出張に母親が付いていって二人だけになった、ってことでもなさそうだ。
「はい、父と母は、交通事故で亡くなりました。他に兄妹はいなくて、家族は、私と姉の二人だけです」
景都がそう言って目を伏せた。
「そうなんだ。辛いこと訊いて、ごめんね」
「いえ」
しばらく、二人とも無言でサンドイッチを食べる。
「それで、景都ちゃん、不動産屋のことなんだけど……」
俺は、話を変える意味でも訊いた。
「はい、不動産屋さんなら、もう、ここにいますよ」
景都が笑顔に戻る。
「えっ?」
「
「んっ?」
「景都不動産が、安くて広い、とっておきの物件を紹介します。師匠は、私達のマンションで暮らせばいいのです」
得意顔で言う景都。
「5LDKの角部屋で広いバルコニーがあるし、写真機材の倉庫もあって、料理が得意なJK付きですよ。あと、ぐうたらな小説家も」
前者はともかく、後者が特典なのか微妙だ。
「師匠は、私達の部屋に住んでください!」
景都が強く言った。
きっと、この景都不動産って、許認可なんて受けてない、無登録の悪徳業者に違いない。
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