第100話

三.[若き魔導師]



 廟堂の門でリケミチモリを見送ったあと、自然アオイの足は離れの調合室へとむかった。忙しいことはむろん知っている。会えるとは思っていない。会って話せたとしても、何を話したいのか解らない。ただ、顔を見たいだけだった。


 どちらかと言えば今日までその人を避けていた。自然と。嫌いなのではない。むしろ逆。憧れめいた気持ちを抱いている。けれどその人の纏うあまりにも厳しい雰囲気を苦手に感じていた。だが。その人がこの世にあるのは、あと数日。


 時刻は夕暮れ、黄昏時。すでに薄暗がりの廟堂の裏庭を抜け、調合室の前に立った。窓から灯りが漏れ、時折不可思議な色合いの光が走った。風肌寒い秋の夕暮れながら、調合室の中は大変な熱気らしく、窓から漏れる空気が揺らいでいる。壁からの放射熱を肌に感じる。微かな熱。


 アオイはしばらくそこに佇んでいた。窓から中の様子を覗くことも、扉を叩くことも出来なかった。ただ立っていた。様々な思い交錯して。


 暗がりの中を誰かが歩いてきて、そこいるアオイを見て言った。

「どうなさったのですか? ご用事ですか?」

 ラナイナライだった。アオイは咄嗟には言葉が出てこなかった。

「いや……。ラナイは? 調合室に?」

「ええ。私は皆さんの夕げのお膳を下げに」

「そうか……」

「ご用でしたら私が伝えましょうか?」

「いや」アオイは言葉に詰まった。が、正直に言った。「シュス様と少し話したかっただけだ。けれど忙しいだろうから」


 するとラナイナライはにっこり微笑んだ。

「少しくらい大丈夫だと思います。調合はタパ様が主にやってますから。それにお手伝いの方も南の廟堂から来て下さってますし」南の廟堂とは、ニシヌタ老婆の廟堂。

「そうか……」

「少し待っていて下さい」

 ラナイナライはそう言い残して、調合室の中へ入っていった。


 待つほどもなく、ラナイナライが五人分の箱膳を高く重ねて持って出てきて、にっこり頷いて立ち去った。次いで扉の中から出てきたのは、その人シュスローだった。


 やはり中は大変な熱気と湿度らしく、髪を束ね、着物の袖をたすき掛けし、汗だくで全身を火照らせている。

「何か、私に用かな?」

 暗がりの中に立っていたアオイに問いかけた。


「いえ……」アオイはどう答えてよいのか分からなかった。素直に詫びた。「すみません。何も用はないのですが……、少しお話がしたくて……」それが一番正直な気持ちだった。


 大魔導師は優しい笑みを浮かべた。暗がりの中で。

「ふむ」

 若者が何を知りここへ来たのか、見当がついた。しかし寡黙な男。黙したまま相手の言葉を待った。

「あの……」

 アオイは言い淀んだ。言いたいことは山ほどあるのに、何を言おうとしても、どんな言葉も、軽く感じた。

 俺は何を言いにここに来たのだろう。俺は、俺のどんな気持ちを伝えたかったのか。俺が、それを伝えたところで、何が変わるというのか––。

 逡巡しながら、彼は思い浮かべていた。はじめてシュスとあった日に、浴堂でばったり出くわした時のことを。あの時も、聞きたいことが山ほどあったのにきっかけの会話を思い付かなかった。それがまるで昨日の事のよう。


 今日は思い付いた。きっかけの会話を。

「ハハキリは、蛇斬りという意味ではありませんか?」


 大魔導師は幾分驚いた顔をした。

「ほう……。君は何処でそれを知ったのかね?」

「いえ……」勿論記憶にない。そんな気がしただけだった。「アマノハハキリと聞いた憶えがあります」


「ふむ……」シュスは不思議そうに首を捻った。「天のハハキリとは知らぬ。聞いたことがない。しかしこれは正統なケイではない。これは私が二十二歳の時、とある筋から手に入れた物。当然、まっとうな経緯を持つ物ではない。名称も伝承。もしかしたら、大昔はそう呼ばれていたのかも知れぬな」


「そうですか……」

 アオイは感心した顔して相づちを打ったが、会話の内容よりも、会話が成立し、相手から次々言葉が出てくることが嬉しかった。そしてそのことを少し気恥ずかしく感じた。何故そう感じるのか分からず戸惑いながらも。彼は分かっていなかったが、それは父親と向き合い語り合う感覚。


「この世界には正統なケイとそうでないケイがある。正統なケイとは、魔導師の師から弟子へと継承されてきた物。光の導神より与えられ、元素魔法を宿す。しかし希にそうでない物がある。闇の導神、つまり悪魔より与えられ、悪魔の術を宿すケイや、ハハキリのような謎に包まれたケイ」

「謎に包まれた……?」

「うむ。ハハキリをこの世界にもたらした神霊が何者か、全く伝えられていない。普通のケイではない。原理神にかかわる術を宿せるケイ。そのような物を、光の導神や、ましてや悪魔がもたらせるはずがない」

「じゃあ、もしかしたら」

 魔導師はアオイの思い違いに首をふった。優しく正した。

「いや。ノアは宇宙をさまよう獰猛な光。その光を身の裡に常に感じているから、私には分かる。この光には明確な理性や意志はない。ただ、衝動的で、例えるなら鎖を引き千切り飛び立とうとする獰猛な龍鳥。人の爲にケイをもたらすような意志は持たない」

「じゃあ、ハハキリは誰が?」

 シュスは微かに笑みを含み、首をかしげた。

「分からぬ。一説にノアの使いの霊がもたらしたとも言われている。が、ではその神霊は何処のどの霊かとなると、これもまた皆目見当もつかない。説明できる者は誰一人いない」


 大魔導師は苦笑いを浮かべて夜空を見上げた。アオイも同じように空を見上げた。すでにとっぷりと日は暮れて、秋の夜空は澄んでいて、月がことさら美しかった。虫の音美しく辺りを包んでいた。


 今なら、照れもなく、また気負いもなく、飾りない素直な気持ちを言えると思った。そう思ったが。

「俺は信じてます。シュス様は、普通の人ではないと」

 やはり言葉の最後で声が震え、肩が震えた。うつむき、拳を握りしめた。


 大魔導師シュスローは、若者の背中を、ポンと優しく叩いた。微かに微笑み、そして遠く闇の奥を見つめた。遠い昔の話を聞かせた。

「昔、一人の若い魔導師がいた。優しい男だった。優しすぎたのかも知れぬ。私とは同門で、共に学んだ。名をイズハという。私と同い年だったが、私よりも遥かに優れた資質があった。私がいくら頑張っても追いつけなかったほどだ。二十歳になったとき、修行の旅に出たいと願い出、師もそれをお許しになった。誰もが彼を信頼し、間違いなど犯すはずがないと思っていた。そして出立し、それきりになった……」

「まさか、その人が……」

「その旅の途中で何があったのか、誰も知らぬ。折しも、東方の旧王朝との戦のさなかだった。そこでいくつもの非道を目の当たりにしたのかも知れぬ。あるいはまさしく戦いに巻き込まれ、旅先で出逢った大切な人を失ったのかも知れない。どんな悲劇にみまわれたか知らぬが、その男は決意した。この世界を終焉させる。終末の焔を灯す術を修めると。その手段のために、全ての悪魔と結託することや、数知れぬ人の命を奪うことの是非など、その善し悪しの判断はつかなかったのだろう。むろん、焔が灯れば、この宇宙そのものが消えてしまうのだから、もはや善し悪しなど関係なかったのだ」


「そうなのですか……」

 アオイには、驚くような話の連続だった。悪龍がシュスの同門であったこと、その誕生の背景に必ずしもその男ばかりを責められない、同情すべき事情が在ると推測されること。そしてそれらを差し置いても。なにより。

「終末の焔って一体どんな……」

 世界を焼き尽くす焔、その話は聞いた憶えがある。朧ながら。故に、朧にその光景を想像していた。世界が炎に包まれていく様を。しかしその術はこの宇宙自体を終焉させるという。そんな事が可能なのか。それはどのようにして起こるのか。


「終末の焔は」シュスは魔導師ではないアオイにも理解できるように易しく説明した。「簡単に言えば、逆の『素因』。つまり、この宇宙誕生のきっかけとなった『何か』がある。仮にそれを素因と呼ぶ。その逆のモノを出現させる法」


 なるほど、と納得いくようで、皆目分からない、そんな話だった。


「その焔は、焔のように見えるだけで実際は焔ではないという。何にでも燃え移り、全てを灰に変えながら燃え広がり、七日でこの星を覆い尽くし、この星を巨大な火球に変える。その火球は止まるところを知らずさらに膨れ続け、ある一定の時点で急激に膨張をはじめ、宇宙は調和を保ちきれず、崩壊する。誕生前の無に帰す。時の流れは終わる」


 黙り込んだアオイに、シュスは言った。


「故に、そんな術は決して唱えさせてはならぬ。我らがこの宇宙に在る理由。綿々と人の営みが続いている理由。私達が何故ここに在るのか、それには必ず理由があるはず。それを無碍に消し去ることはさせない。アオイ殿」


 シュスは改まった口調で、アオイの方に向き直った。

「私は、この定めの礎となることに、何の迷いもない。あとを頼む」


 ぐっと吹き零れそうになった涙。自分に寄せられた信頼、託された希望。過分な、としか言いようのないもの。俺はそれに見合うほどの男じゃない、大魔導師にこれほど信頼されて、それにかなう働きができるのか、そんな自分を必死に隠した。目の前の人に見せられない。うつむいて

「はい。必ず……」

 必ず、それ以上言葉に出来なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る