第65話
その日の昼過ぎ。
胴服を注文した染め屋からおつかいが来た。見習いの少年は言った。
「絵師のキコナカハ様が、ご相談したいことがあるので一度おいでてください、とのことです」
「そう。何だろう……?」
用事で近くに寄ったときでかまわないそうです、とも少年は言った。が、アオイは「今から行くよ」と答え、支度して出た。少年と一緒に染め屋に向かった。歩きながら少年は言った。
「図柄のことだそうです」
「へえ……」
絵師キコナカハの仕事場は、染め屋の大きな建物の裏側の母屋にあった。板の間に文机、壁一面に引き出し。引き出しの中はすべて絵が入っているらしく、開いた引き出しから線画がのぞいていた。床の上にも図案が散らばっていた。
絵師は文机に向かっていた。四十代半ば。注文したとき、「そりゃあ格好いいじゃないか」と言った痩せたおじさんだった。アオイが入ってくると顔をあげた。
「おう。すまねえな」気さくに言った。
「いえ」
毛皮の敷物をすすめられ、アオイは座った。少年がお茶を持って来た。絵師キコナカハは一枚の布見本をアオイの前に置いた。
「こういう柄は見たことあるかい?」
それはとても細かで瀟洒な蔓草の図柄だった。
「はい。これって……」確かあれだよな、言葉を探していると。
「蔓花模様だ」キコナカハは言った。
「そうですか……」アオイの頭に浮かんだ言葉は『サラサ(更紗)』だった。また記憶違いだと彼は思った。
キコナカハは説明を続けた。「兄ちゃんの注文の絵を描いてみたんだが」一枚の絵を引き出しから出して、アオイに渡した。
一見してアオイは思わず呟いた。
「すごい……」
線だけで色は着けられていないが、見事な獅子の絵。彼の注文したとおり、蛇を踏みつけている。蛇は踏みつけられて首を捩っている。彼が朧に思い描いていたものより数段迫力あった。
「背景に何を描こうか迷っちまってな……」絵師は言った。「で、この蔓花模様を組み合わせてだな……、蔓模様を引き裂いて獅子と蛇が現れている感じにしようかと」
「お任せします」
「そうか」絵師は笑った。「下書きを見てからじゃなくていいのか?」
「はい」アオイは思い出していた。夢の中の老人と女性の会話を。「お任せした方が、格好良くなると思いますから」
「そうか」絵師はさらに愉快げに笑った。そして真面目な顔に戻り言った。「俺たちは大抵注文されたとおりに絵を描く。絵描きじゃなくて職人だからな。でも、たまぁに、どうしてもこう描いてみたいって絵がある。職人だからって、絵心がないわけじゃないからな。そもそも絵心がなけりゃあ、こんな仕事に就かねえ」そう言うと、また愉快げに笑った。
アオイも笑顔を返した。打ち解けた雰囲気になったので、最前頭に浮かんだ疑問を訊いてみた。世間話のつもりで。「こういう柄って」蔓模様を指した。「サラサって言いませんか?」
キコナカハは目を丸くした。何か変なことを言ったかと、逆にアオイが戸惑うほど。
「兄ちゃん。サラサなんて言葉を誰から聞いた?」
「いや……。誰からも……」
絵師は腕組みして考え込んだ。眉根を寄せて難しい顔で。そして吃驚するような話を聞かせてくれた。
「今から二百年も前のことだ。一人の旅人がふらっと現れて、染めの世界の歴史を変えた。それがこのナカハ屋中興の祖、キスケさんだ。兄ちゃんと同じく、記憶がなかった。が、腕は凄腕だった。しかも人が思い付かないようなことを次々やってのけた。糊糸目って技法を考えついたのも彼だ。兄ちゃんが夏用に注文した胴服の色、御納戸茶って色の染め方を考えついたのも彼だ。彼が考案した染め色は数え切れないほどある。そのキスケさんが、こんな柄の綿の布をサラサって呼んでたそうだ。コエをコイと呼び、ツバクロをツバメと呼んでいたという」
「そ、その人……」アオイは心底吃驚していた。「その人は俺の住んでいた町の人……」
「かもしんねえな」
「その人は何処から来たんですか? 一生記憶が戻らなかったのですか?」
「いや。爺さんになる頃にはどうやら思い出していたみたいなんだがな。誰に聞かれてもニヤニヤ笑うばっかりで、誰にも何にも教えなかったそうだ」
「どうして……」
キコは首をひねり「さあな」と答えた。「ただ、死ぬ前に手紙を残したらしい」
「手紙?」
「その手紙ってのが、誰にも読めない字で書いてあったって言うから不思議な話じゃないか」
「それって」どういうことだと思った。まさかひょっとして―。
俺は字を忘れていたんじゃなくて、もともと知らなかったのか―。
「その手紙は……今は何処に?」
キコナカハは首をふった。「五十年くらいはこの家にあったらしいが、火事で焼けちまったんだと」
もしも残っていれば、俺はその手紙の文字を読めたかも知れない―。あきらめがつかない顔で黙り込んだアオイに、絵師は言った。
「兄ちゃんなら読めたかも知れねえな。いったい何が書いてあったんだろうな」
染め屋を出たアオイは、ずっと考えながら歩いた。腕組みをして地面を見つめ。その人は俺と同じ町に住んでいた―。何か伝えたくて手紙を残した―。同郷の者に―。
ふと気附いた。足が止まった。視界がかすんだ。目に見える物象の奥に、まったく違う何かが見えた気がした。
同じ言葉を使っているのに、文字が違うなんてあり得るか?
そんな馬鹿な話があるわけなかった。
戸惑い、答えを求めて、知らず空を見上げた。が、そこには、ただ何処までも青い空が広がっているだけだった。日差しはすでに初夏の兆しを含み眩い。
俺は、いったい何処から来た―。
ちぎれ雲が、ぽつんと一つ、はぐれ、ゆっくり流れていた。
第二章 完
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