第31話


 男湯もかなり人が多かった。アオイはユタと浴槽の隅っこに入った。


 今日は朝から忙しくて、草臥れ果てていた。疲れた体をお湯に沈めた。


 その時初めてアオイは、ユタが口の中に何か入れていることに気づいた。ほっぺたの内側に何か入っていた。

「ユタ? 口に何を入れてるんだ?」


 ユタは照れくさそうに笑った。

「梅の種だよ……」

「あれからずっと入れてたのか?」吃驚して問い返した。

「だって、まだ少し味がするもの」


 アオイは腕組みしてちょっと怖い顔をしてみせた。いつもの意趣返しのつもり。


「ユタ。それはお行儀が悪いぞ」

「うん……」

「ほら。捨ててきてやるから出しな」ユタの前に手を差し出した。

「ううん。いいよ。自分で捨ててくる」ユタはそう言って、梅の種を自分の手に出そうとして、

「あれれ」と、落としてしまった。梅の種はゆらゆらとお湯の底へ沈んでいった。


「ほら。言わんこっちゃない」

 アオイは沈んでいく種を追いかけて、お湯の中を透かして見た。その時、初めて気づいた。


 アオイとユタは大きな湯船の壁際に入っていた。アオイはお湯の中を透かして見て、壁が途切れていることに初めて気づいた。


 板壁はお湯に浸かったそのすぐ下で切れていた。奥があった。梅の種はゆらゆらとお湯に流され、湯船の檜の床の上を奥へ転がっていった。


 もしもアオイに記憶があったとしても、板壁の向こうが何か、想像もつかなかったに違いない。そことここが中でつながっているなどとは、その正体が二十一世紀の日本人であるアオイに分かるはずがない。


 アオイの考えでは、この奥は風呂の沸かし口。きっと一際熱いお湯がたまっているに違いない場所。慌てて手を突っ込んだ。フワフワ漂っている種をつかまえようと。


 ユタが真っ青になって言った。


「あっ、駄目です。アオイさま。そっちは」

「えっ?」


 指先が何かつるっとしたものに触れ、板壁の向こうで女の人が「きゃっ」と言った。


 は?


 状況が分からなかった。なんで風呂の沸かし口に女の人がいるんだ⁇ 呆気にとられたのも束の間。瞬時にとある可能性に思い至り、心臓が止まった。温かいお湯に浸かっているのに、全身が冷え、


 まさか??  と、思う間もなく手首を掴まれた。


「捕まえたっ、痴漢っ!!」


 悪い事は重なるもので、リリナネの声だった。


「ご、ご、ごか……」喉がつまった。アオイは初めて知った。人間はあまりに驚くと声が出なくなることを。正直な処、驚倒寸前だった。誤解です、も、違います、も、頭の中に渦巻くばかり。


 辛うじて喉から絞り出した。「ち、違うんです―」


 声がかすれてひっくり返っていたが、相手は気づいた。


「その声? まさか痴漢はアオイセナ⁉︎」リリナネも驚いていた。手が離された。しかしその代わり。


 板壁の向こうが蜂の巣をつついたような騒ぎになった。それまでまったく何も聞こえなかったのに、いや、聞こえていてもこちら側の声や反響で不明瞭だったのに、今は明瞭に聞こえた。「え? あの剣士さまが痴漢??」「痴漢だったの!?」「なんて人!!」「変態だったなんて」口々に。


 わんわん響いていた。


「違うんです。誤解です。梅の種を拾おうとして……」


「まあ、下手な言い逃れをしてる。どうして風呂に梅の種が転がってるの? 往生際が悪い痴漢だよ」おばさんの声と「そうよ」「そうよ」と同調する女性達の声。


 ユタが一生懸命加勢してくれた。板の向こうに言った。


「本当だよ。僕が食べてたの。アオイさまはそれを拾おうとして」


 板壁の向こうがさらに騒然となった。子供をぐるにしてるの? 子供を言いくるめて嘘をつかせるなんて、まぢで許せない奴、概ねそんなことを言っていた。


「リリナネさん? リリナネさん?」アオイは必死に呼びかけたけれど、すでにそこにいないようだった。


 真っ青になった。女湯は不気味に静まり返った。ヒソヒソ、という感じで。愕然としてお湯に体を沈めたアオイに、ユタが申し訳なさそうに言った。


「ごめんなさい。僕のせいで……」


「いや。いい。気にするな。ただの誤解だから……きっと直ぐに誤解だと分かってもらえる……はず……。それより、どうしてつながっているんだ?」そことここがつながっているなんて違反だと思った。泣きたい気分だった。


「普通はつながってるよ。だって、その方が薪代がかからないから……。それに僕たちがお掃除する時困るもの……行ったり来たり出来なくて……」


 薪代くらい死ぬほど働いて何ヶ月分でも立て替えるから勘弁してくれ―。


 板壁の上を見上げた。上はつながっていなかった。天井まで壁だった。記憶はないけれど思った。


 この造りは変じゃないか。上がつながってるんじゃなかったか―、涙がこぼれそうだった。


 近所のおじさんが言った。


「あんた、痴漢だったのか……?」

「ち、違います」


 別のおじさんが言った。気さくな感じで励ましてくれたけれど。


「隠すな、隠すな。俺も男だ。気持ちは分からんでもない。でもな、あんちゃん。それは、やっちゃあなんねぇ」

「していません……」

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