第4章 学園生活 初夏

5月の出来事

第69話 先輩が髪を切ってくれるらしい。

 ゴールデンウィークが明けたばかりで、まだ梅雨つゆ入りには少し早いのだが、今日は朝から雨だ。


 ここへ来てからもう1か月、最近はだいぶ蒸し暑くなってきた。いままで気にならなかった前髪も、視界を遮るようになって鬱陶うっとうしい。


 しばらく髪を切っていなかったので、そろそろ床屋へ行く頃合いなのだが、残念なことに最寄りの駅の近くに理髪店も美容院も見当たらなかった。この寮ではみんなどうしているのだろう。


 分からない事は素直に知っていそうな人に聞くこと。


 これが、ここでの効率的な検索方法だ。スマホに頼ることも出来ないので、ある程度のコミュニケーション能力は自然と身に着く。


 まずは普段通りに、朝食後の座談会で天ノ川さんに聞いてみることにした。


「ここの人たちって、どこで髪を切ってもらっているんですか?」


「……そうですね、私はずっと伸ばしていますから、ときどき自分で枝毛を切るくらいですけど、去年まではお姉さまに前髪を切ってもらっていましたね」


 天ノ川さんは左斜め前のいつもの席で、レモン牛乳を飲み込んでから僕の質問に答えてくれる。ちなみに、ネネコさんは僕の左隣で気持ちよさそうに居眠り中だ。


「お姉さまに切ってもらっていたということは、もしかして妹の髪を切ってあげるのが、ここでの決まりだったりするんですか?」


 会話中に僕がポロリちゃんの顔をチラリと見ると、ポロリちゃんと目が合った。


「いえ、そんなことはありませんよ。それだと不器用な姉を持つ妹がかわいそうなことになってしまいますから」


「ああ、たしかにそうですね」


 不器用な兄を持つポロリちゃんも、かわいそうなことにならずに済んだようだ。


 それに、僕はネネコさんが天ノ川さんに髪を切ってもらっているところを見たことがないし、そんな話をネネコさんから聞いたことも無かった。


 ならば次は地元の事情を聴いてみよう。


「ポロリちゃんは、今までどこで髪を切ってもらっていたの?」


「えーとね、ポロリは自転車でお隣の駅の近くにある美容院さんまで行って、そこで切ってもらうの」


「お隣の駅の近くか。あの水色のかわいい自転車に乗って行くんだ」


「うんっ、先週切ってもらったばっかりだから、しばらくはお兄ちゃんに切ってもらわなくても平気だよ」


「いや、僕が切って失敗したらまずいでしょ。せっかくかわいい髪型にしてるんだから、次もいつものところで切ってもらったほうがいいと思うよ」


「えへへ、これは毎朝ポロリが自分で結んでいるの。美容院では髪を切ってもらっているだけだから、ほどいてから行くんだよ」


「毎朝ポロリちゃんが鏡を見ながら結び直しているのは知ってるけど、僕はてっきり美容院で『ツインテールにしてください』って言うのかと思ってたよ」


「そんなこと言わないよぉ。……だから、次からはここでお兄ちゃんに切ってもらう事にするね」


「え? 僕は髪なんて切ったこと無いから、やめておいたほうがいいと思うよ」


 ポロリちゃんは、僕がどれほど不器用なのか知らないのだろう。


「ううん、ポロリは、お兄ちゃんのほうがいいの。お兄ちゃんにポロリの髪を切ってもらってね、ハテナちゃんみたく、かわいい三つ編みにしてほしいの」


「ハテナさんは毎朝、脇谷わきたにさんに髪を編んでもらっているみたいだね。先週うちの部屋に泊まりに来た時に教えてもらったよ」


「ハテナちゃん、『お兄さんに髪を編んでもらえた』って、とっても喜んでたよ」


「いや、僕は編み方が分からなかったから、天ノ川さんに教わりながら編んであげただけなんだけど……」


「ふふふ……、甘井さん、私もお姉さまに自分の髪を切ってもらうのが楽しみでしたし、上手か下手かなんて全く気にしていませんでしたよ。どんな風に切ってもらうかよりも、誰に切ってもらうかのほうが、場合によっては重要だと思います」


「そうですか。――それなら一応編み方は天ノ川さんに教わったから、もう少し髪が伸びたら僕がポロリちゃんの髪を編んであげようか。切ってもらったばかりみたいだし、今の長さだと、三つ編みにするには少し短いと思うから」


「うんっ、それまで楽しみにしてるね」


 ポロリちゃんは今の髪型で文句なしにかわいいけど、きっと三つ編みも似合うだろう。僕も楽しみだ。もちろん髪を切ってあげる事に関しては全く自信が無いのだが。


「ここでは自分で切るか、誰かに切ってもらうか、しかないですから、最初は慣れないかもしれませんけど、甘井さんもきっと上手にできるようになると思います」


「僕は最初から上手な人にお願いしたほうがいいような気がしますけど」


「そうですね。上級生でしたら上手な人は何人もいますから、自分の髪を自分で切るよりは、先輩にお願いしたほうがいいと思います。自分の髪を切るのは本職の人でも難しいそうですから」


「天ノ川さんの知っている人で、髪を切るのが好きで、僕がお願いしたら切ってくれそうな人を、どなたか紹介してもらえませんか?」


「ふふふ……、この寮に知らない人は1人もいませんし、甘井さんからのお願いを断る人なんて、きっと誰もいないと思いますよ」


「そうなんですか?」


「仕上がりに関しての責任は持てませんけど」


「それはちょっと怖いですね。自分で切るよりは、ましなんでしょうけど。天ノ川さんのお薦めはどなたですか?」


「甘井さんが髪を切ってもらうのでしたら、お薦めは5年生の上佐うわさハナ先輩です」


 上佐ハナ先輩か。どんな先輩だろう。5年生とは一緒に体育や音楽の授業を受けているが、あまり会話をする機会もなく、まだ顔と名前が一致しない先輩も多い。


「先輩にいきなりお願いしてしまって、迷惑になりませんか?」


「それは無いと思います。後輩にお願いされて嬉しいと思わないような先輩は、おそらくこの寮にはいません。甘井さんは、畑中はたなかさんや鬼灯ほおずきさんに髪を編んで欲しいと言われて迷惑だと感じましたか?」


「いえ、僕は自信が無かっただけで……、お願いされたことは嬉しかったです」


「ふふふ……、ですから、何も問題ありませんよ。私からもハナ先輩にお願いしておきますから」


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 これで散髪の問題は解決したようだ。

 天ノ川さんには、いつもお世話になってばかりだ。


「よかったね、お兄ちゃん。オトコヤさんが見つかって」

「男屋さん?」

「うんっ、床屋さんにね、『お』をつけるとお床屋さんなの」

「それは……、僕はちょっとイヤだなあ」

「えへへ」


 これは、きっと先月一緒にバスに乗った時の会話の続きだ。

 ポロリちゃんは、いつも僕に波長を合わせてくれる。


「ネーちゃん、朝だぞ」


 そして、僕は隣で眠っているネネコさんを起こしてあげる。


「あれ? ボク寝ちゃってた?」

「ネコちゃん、おはよ」

「ふふふ……、ネネコさん、そろそろ部屋に戻りますよ」


 ネネコさんは、相変わらずマイペースだった。

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