第58話 正しい読み方はドーテーらしい。

「甘井さん、私は今日も部活がありますので、お先に失礼いたします」


 5時間目の授業が終わって先生がいなくなると、すぐに隣の席の天ノ川さんは部活に行ってしまった。


 僕もすぐに寮に帰ればよかったのだが、天ノ川さんと入れ替わるように僕の周りには他のクラスメイト達が集まってくる。


「ねえねえ、ダビデ君って、1年生の蟻塚ありづかさんと付き合っているの?」


 興味津々な顔で最初に質問してきたのは、花戸結芽はなどゆめさんだ。


 育児実習のときに最前列で「私はユメ、私はユメ」とミヤビちゃんに何度も自分の名前を教え込んでいたし、みんなからは「ユメちゃん」と呼ばれているので、僕も下の名前まで覚えてしまった。クラスの中心的な存在で、教室での席もほぼ真ん中だ。


「いえ、そういう訳ではないです。寮で一緒の部屋なので、いつも仲良くしてもらってはいますけど」


 質問者の花戸さんに対し、できるだけ丁寧に返す。僕がこうやって聞かれるくらいだから、ネネコさんにも注目が集まっているのだろう。僕の回答次第ではネネコさんに迷惑が掛かってしまうので、そうならないように気を付けないといけない。


「でも笛を借りたんでしょ? それって間接キスじゃない?」


 からかうように追撃してくるのは栗林くりばやしさんだ。

 みんなからは「クリちゃん」と呼ばれて親しまれている。


「えっ? ああ……たしかにそうですね」

「でしょ? でしょ?」


 ネネコさんにアルトリコーダーを「洗わないで使わせてもらう」と宣言し、それを実行したのだから間接キスには違いない。もちろん返す時は洗っておいたが、事実は素直に認めよう。


 ただ、ネネコさんは普段から「ひとくちもらうね」と言って、まるで弟から奪うような感覚で僕の食べかけや飲みかけに口をつけるので、僕のほうも今ではあまり気にならなくなってしまっている。……というか、気にはなるが、あまり気にしないようにしている。


「でも、女の子同士なら普通の事ですよね? 僕が男だから言われるだけで」


 こんな感じで、クラスメイトからダビデ君と呼ばれる事や、いろいろと質問されることに対してはだいぶ慣れてきたが、女の子に取り囲まれるという、今の状況は僕にとってはまだまだハードルが高い。


「甘井さん、昨晩は蟻塚さんとふたりきりでお食事をされていましたよね?」


 僕の後ろの席に座る、普段は無口な遠江とおとうみさんからもこんな質問をされた。


「でも甘井さん、昨日までお昼はいつもミユキさんと一緒じゃなかった?」


 僕が遠江さんの質問に答える前に、栗林さんが口を挟む。

 その通りです。今日は例外です。僕の事をよく見てくれていらっしゃる。


「じゃあ、ダビデ君の本命って誰なの?」


 花戸さんが周りに聞こえる声でつぶやく。独り言なのか質問なのかよく分からないが、この人は単にこういった話が好きなだけという感じだ。


「それは、今年の1年生で一番小さくて一番かわいい、鬼灯ほおずきポロリちゃんに決まっているじゃないですか。――ねえ、甘井さん」


 花戸さんの生ツイートに即リプしたのは、料理部の百川捏ももかわつくねさんだ。


 百川さんからはそう見えるのか。もしかして朝食準備のときにポロリちゃんと手を繋いで歩いていたのを見られたのだろうか。


「えーと、ですね、それは……」


 クラスメイトの1人1人は上品で話しやすい人ばかりなので、1対1なら普通に会話もできるのだが、複数の人に同時に話しかけられると、誰の質問から答えればいいのか優先順位が分からない。


 それに、集団になるとどうしても早口になったり声が大きくなったりするので、囲まれると怖いのだ。


「すみません、今日は課題がありますので、これで失礼します」


 耐えられなくなった僕は皆に頭を下げて、逃げるように教室を出た。


 しつこく追ってくるような、空気の読めない人が誰もいないのはありがたい。


 今日はどこの部からも誘われていなかったので、僕は寮の自室にこもって、自分の机で与えられた裁縫の課題に取り組むことにした。


 先日体操服に名札を付けたときに薄々気付いてはいたが、今日の裁縫の授業でクラスの中で僕だけが、話にならないほど手先が不器用であることが判明したのだ。


 それを見兼ねた子守先生が、基礎練習として簡単な課題を与えてくれた。古いタオルを重ね折りして縫う、雑巾を作る作業である。もちろんミシンではなく手縫いだ。


 僕は時々指に針を突き刺しながらも、黙々と一人で作業を続けている。

 不器用なので時間は掛かってしまうが、急かされない限り辛い作業ではない。

 案外僕に向いているのかもしれない。


 天ノ川さんとポロリちゃんはいつものように部活に参加している。

 ネネコさんが入部した陸上部は水曜日と土曜日がお休みだ。


 今日は水曜日なので、ネネコさんは僕が針仕事をしている最中に不機嫌そうな顔で戻ってきた。そして軽く挨拶だけ交わすと、いつの間にか部屋着に着替えて、そのままベッドでふて寝してしまった。


 ネネコさんが不機嫌なのは、おそらく僕のせいだろう。


 ポロリちゃんから、僕たちが男女の関係であると誤解されたことに関しては解決済みだが、昨日、僕がネネコさんからリコーダーを借りたことが1日で全校に知れ渡ってしまったようで、それが原因だと思われる。


 柔肌やわはださんやジャイコさんがリークしたとは思いたくないが、隣の席に座っていた柔肌さんから、「その笛に書いてある名前って、先輩がいつも一緒にいる1年生の子の名前ですよね?」と言われたときには僕も驚いた。


 たしかに美術部の見学にはネネコさんと2人で一緒に行ったし、陸上部のときもそうだった。朝食時も夕食時も必ず僕の隣にはネネコさんが座っているし、校内では一緒にトイレに入ることも度々ある。


 昨日の夕食に至ってはネネコさんと2人きりだったし、今だって、この部屋にいるのは僕とネネコさんの2人だけだ。


「いつも一緒にいる」と思われていても、これでは否定のしようがない。


 僕が、否定も言い訳もしなかったので、きっとネネコさんは「いつもダビデ先輩と一緒にいる子」だと思われて、興味本位でいろいろと聞かれたのではないだろうか。


 みんなに悪気がない事が分かっていても、うわさされたり質問攻めにあったりするのは面倒な事だ。僕自身に関しては自業自得だが、ネネコさんまで巻き込んでしまった事に関しては申し訳なく思う。


「ただいまぁ」


 課題の雑巾を1枚縫い終わったところで、ポロリちゃんが部屋に戻って来た。


「おかえり。あれ、今日は部活じゃなかったの?」

「うんっ、今日は朝ご飯とお昼ご飯のお手伝いをしたから、夕方はお休みなの」


 部活動なのか食事当番なのかよく分からない部だが、料理部とはそういうものらしい。部の活動は、ほとんどが寮の食事の準備なので、人数が少ないと困るが、多すぎてもお互いが邪魔になってしまうようだ。


「それで、その袋は?」


 ポロリちゃんは、大きな手提げの紙袋を両手で抱えていた。


「パジャマをおうちから持って来てもらったの」


 早速袋から取り出して中身を見せてくれた。どうやら2種類あるようだ。

 コウクチ先生に頼んで家から持って来てもらったのだろう。


「ああ、昨日言っていた着ぐるみのパジャマね」


「うんっ、ネコちゃんの分もあるの。お兄ちゃんの分はミユキ先輩が後で持って来てくれるって」


「そうなんだ。ネネコさんなら、ベッドで寝てるよ」


「ネコちゃん怒ってなかった?」


「なんか機嫌がよくないみたいだったけど、やっぱり昨日僕がネネコさんから笛を借りたのがマズかったのかな?」


「そんなことないよぉ。お兄ちゃんは悪くなくて、ネコちゃんが読み間違えただけなの」


「読み間違えた?」


「うん。今日の5時間目の国語の時間に、ネコちゃんが新妻先生に『蟻塚さん、教科書を読んで下さい』って言われてね」


「先生に当てられたんだ」


 僕も出席番号が1番だから、よく最初に当てられる。心の準備の時間すら与えられないのが、出席番号1番の宿命なのだ。きっと、ネネコさんもそうだったのだろう。


「そう。それでね、ネコちゃんが立ち上がって教科書を読んだら間違ってて、みんなに笑われちゃったの」


「それはネネコさんがかわいそうだよ。間違いは誰にでもあるんだから」


 休み時間の会話なら間違えても笑い話で済むが、授業中に笑われるのはきつい。


「それでね、ネコちゃんが怒ってたの。『ミチノリ先輩のせいだ』って……」

 

「えっ? ネネコさんが読み間違えたのは僕のせいなの?」


 ネネコさんが教科書を読み間違えて、それが僕のせいであるとネネコさんは思っているのか。いったいどういう状況なのだろうか。


 僕のことを授業中にずっと考えてくれていて……なんて甘酸っぱいことはさすがにあり得ないだろう。だとすると……。


「ネコちゃん、大きな声で『ミチノリ』って読んじゃったの」

「僕の名前? ……あー、なるほど」


 中学1年の国語の教科書に載っている最初の作品のタイトルだ。僕のときも同じ教科書だった。


 僕が「ドーテー」と呼ばれるようになったきっかけでもあり、おそらく僕の名前の由来でもある高村光太郎の「道程」だ。


 もちろん「ドーテー」と読むのだが、それをネネコさんは授業中に「ミチノリ」と読んでしまったらしい。


「……ミチノリ先輩のせいで大笑いされちゃったよ」


 ネネコさんがいつの間にかベッドから下りて来て僕の右隣の席に座る。機嫌が悪いというよりは恥ずかしそうな顔をしているように見える。ポロリちゃんが一緒にいるからだろうか。


「ネネコさん、ごめんね。僕のせいで……」


 僕は、1週間前ここで初めて自己紹介をしたときのことを思い出し、ネネコさんに頭を下げた。あの時ネネコさんは僕の名前を「ドーテー」だと思い込んでいて「ミチノリ」と読むことに驚いていたのだ。


「だめだよ、ネコちゃん。お兄ちゃんのせいにしたら」

「そんなの、わかってるよ……」


「うーん、でも僕がここに居なかったらネネコさんも読み間違えたりはしなかったはずだし、読み間違えたとしても笑われたりはしなかったでしょう? 僕のせいでっていうのは間違っていないと思う」


 そもそも僕の名前をドーテーと読めたのだから、僕と出会っていなければミチノリとは読めなかったはずだ。


「読み間違えたのはべつにいいんだけど、『そんなにダビデ先輩の事が好きなの?』とか、からかってくるヤツがいてさ~」


「ネコちゃんは、お兄ちゃんのこと嫌いなの?」


「そんなわけないじゃん。ミチノリ先輩はここに来て最初のダチだし……」


「なら素直に『うん』って言えばいいのに」


「そんなこと言ったら余計からかわれるじゃん!」


「お兄ちゃんはどう? ネコちゃんのこと好き?」


「もちろん。ネネコさんは、初めて友達になってくれた大切な人だからね」


「えへへ。よかったね、ネコちゃん。それじゃ、一緒にこれに着替えよ!」


「しょうがないな~」


 2人は今からここで着ぐるみに着替えるようだ。

 ならば、僕は脱衣所へ退避するとしよう。


「それなら、僕は今のうちに洗濯物を取り込んでおくよ」

「ありがとう、お兄ちゃん」


 洗濯物を取り込むのもだいぶ慣れてきた。


 靴下はこの段階で左右を組み合わせて折り重ねる。アイロンがけの必要がない下着類は軽く畳んで所有者ごとに仕分けする。3人とも制服以外は全く違う服で、サイズも異なる為、誰の服かを見分けるのは簡単だ。


 アイロンがけが必要と思われる服は、もう少し干しておくことにして、そのほかの洗濯物は全て取り込み、仕分けまで終わった。


 あとは2人の着替えが終わるのを待つだけだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る