第53話 レア素材には用途が無いらしい。

「うーん、やっぱり無理か~」


 風呂から出て部屋に戻ると、ネネコさんが自分の椅子いすに座り、自分の口の中に指を突っ込んで悪戦苦闘していた。


「ネネコさん、お先に。何が無理なの?」


「今まではママに無理やり抜かれてたから」


「無理やり?」


「ボクまだ子供の歯が2本だけ残っててさ~、そのうちの1本がぐらぐらしてて気になっちゃって……ここなんだけど……ほら」


 ネネコさんは、小さな口を大きく開けて上を向き、ぐらぐらしている左上の奥歯を僕に見せてくれた。


「ああ、たしかに。これは、もうすぐ抜けそうだね」


 周りの歯は全て真っ白で虫歯も無く、歯並びも綺麗きれい。犬歯の先が鋭くとがっているのは、おそらくまだ生えてきてから日が浅く、磨耗していないからだろう。


「抜けそうな歯って、放っておくと、危ないんでしょ?」


「そうなのかな?」


 僕は放っておいたことがないので、危険かどうかはよく分からない。


「抜けた歯は食べ物と一緒に飲んじゃっても平気だけど、息を吸った時に気管に入ると危ないって、ママが言ってた」


「それは、本当に危なそうだね」


「でしょ? ミチノリ先輩、試しにちょっと引っ張ってみてよ……んあっ」


 そう言って、ネネコさんは再び口を大きく開けた。僕は恐る恐るネネコさんの口の中に指を入れる。


 ネネコさんの唇に僕の人差し指が触れ、ネネコさんの舌に僕の親指が触れる。ネネコさんはすぐに舌を僕の親指から離したが、なんだかイケナイ事をしている気分だ。


 ぐらぐらしている歯を2本の指でつまみ、そっと引く――


「あがっ!」


 ネネコさんは涙目で僕の指を拒絶する。そのとき僕の親指にネネコさんの犬歯の先が当たり、反射的に指を放してしまった。


「ごめんね、ネネコさん。痛くなかった?」


「ボクは平気だよ。ミチノリ先輩の指のほうが痛かったんじゃないの?」


「僕は驚いただけで、痛くはないよ。この体勢だと安定しないから難しいのかな」


「そっか、それもそうだね。ならベッドで横になるよ」


 ネネコさんは椅子から立ち上がると、奥の2段ベッドの下段、僕がいつも寝ているベッドの上で仰向けになる。


 ネネコさんのベッドは上段なので使いづらいし、お姉さまのベッドを無断で使うよりは、今ここにいる僕のベッドを使うほうがよいと判断したのだろう。


 もちろん、僕は全く構わない。


「ここで、もう1回やってみてよ。このほうがやりやすいでしょ?」


「僕はいいけど、ネネコさんは痛いかもしれないよ?」


「それくらい我慢できるって。一気にやってくれれば平気だよ」


 考えてみると、僕には乳歯を抜いて痛かったという記憶がない。おそらく痛みはほとんど無かったのだろう。痛かったなら、覚えているはずだ。


「……わかった。痛くしちゃったら、ごめんね」


「今度はボクが痛がっても途中でやめないでよ……んあっ」


 そう言って、ネネコさんは改めて大きく口を開けた。


 自分のベッドの上で、かわいい女の子が口を開けて寝ている状況。しかも、部屋にはネネコさんと僕のふたりきりだ。いくら親しい仲とはいえ、なんだか緊張する。


 目の前で仰向けに寝ているネネコさんの頭は右側。ベッドの向こうは壁だ。僕は右利きなので、ネネコさんの左側の位置からでは手が逆向きになってしまう。


 ネネコさんにはもう少し手前に体を動かしてもらう事にしよう。


「もう少しだけ体をこっちに寄せてもらってもいい?」


「こう?」


「そう。ちょっと失礼するね」


 ネネコさんをまたぐように左足をネネコさんの右側に伸ばす。次に左手をネネコさんの顔の向こうに置き、向かい合う体を正面に重ねる。


「……いくよ」


 誰かに見られたら完全に誤解されそうな体勢だが、僕は覚悟を決めてネネコさんの口の中に指を入れる。


 ネネコさんの唇に僕の人差し指が触れ、ネネコさんの舌に僕の親指が触れる。


 ネネコさんの舌が僕の親指から離れないのは、きっとネネコさんも覚悟を決めたという事なのだろう。


 ぐらぐらしている歯を2本の指でしっかりとつまみ、少し力を込めて引く――


「んぐっ!」


 ネネコさんは涙目で僕の指を拒絶する。


 しかし、僕は心を鬼にしてそのまま強く引っ張る。ネネコさんの目からは涙があふれ出している。僕はとてもイケナイ事をしている気分だ。


「あがっ!」


 歯は、思っていたよりは、あっさりと抜けた。僕は自分のベッドの枕元にある箱からティッシュを1枚とってネネコさんのヨダレを拭いてあげた。


「お疲れ様。ちゃんと取れたよ」

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……よかった。ありがとね」


 ネネコさんはずっと呼吸を我慢していたようで、息が荒い。僕はすぐにティッシュをもう1枚用意して、5回くらい折って小さくしたものをネネコさんに渡す。


「血が出てるから、しばらくこれを噛んでいたほうがいいよ」

「うん、そうする」


 ネネコさんは素直にティッシュを受け取って口に入れると、そのまま洗面所に行って顔を洗っている。


 あっさりと抜けた手ごたえからすると、泣くほどの痛みは無かったはずだ。


 今まで、お母さんに無理やり抜かれていたそうだから、そのときの記憶のせいで、きっと怖かったのだろう。


 かわいい女の子が泣いている姿というものは、いつ見ても胸を締め付けられるような気分になる。ポロリちゃんのときも柔肌やわはださんのときもそうだった。


 男の僕が泣いても醜いだけなので、なんだか不公平だ。


「はい。記念の品」


 ネネコさんが戻って来たので、抜いた歯を渡す。


「ありがと。まだちょっとだけ痛いけど、思ったほどは痛くなかったよ。ミチノリ先輩は上手だね」


 すでに抜けそうな乳歯を抜くのに上手も下手もないと思うのだが、ネネコさんに褒められるのは悪くない気分だ。


「お役に立ててよかったよ。まさか泣かれるとは思ってなかったから驚いたけど」


「涙がちょっと出ちゃっただけじゃん。それじゃ、これ、お礼ね」


「え? これをくれるの?」


 ネネコさんは、今渡したばかりの歯を僕に返却してきた。


「記念にあげる。いらなかったら捨てていいよ」


 ネネコさんの歯か……。


 ここがファンタジーの世界で、僕が錬金術師なら「レア素材」として有効活用できたかもしれないが、残念ながら普通の高校生である僕には使い道が思い浮かばない。


 つめあかならせんじて飲むといい事があるらしいが、歯はどうだろう……。


 しかし、ここで「要らない」と言って捨ててしまうと、ネネコさんの機嫌が悪くなりそうな気がする。ここは素直に受け取るしかなさそうだ。


「ありがとう。大切にしまっておくよ」

「反対側も、もうすぐ抜けるから、そのときもよろしくね」


 ネネコさんは嬉しそうに笑ってくれた。これで正解だったようだ。

 僕はネネコさんの歯をティッシュで包み、自分の机の引き出しの奥に仕舞った。


「ただいま帰りました」


 まもなく天ノ川さんが部屋に戻って来た。


「お姉さま、おかえりなさい」

「ごめんなさいね。今日は急に呼ばれてしまって」


 天ノ川さんはネネコさんに頭を下げた後、僕に向き直る。


「甘井さんが欠席で科学部のみなさんはがっかりしていましたけど、お陰でネネコさんがひとりぼっちにならなくて済みました。ありがとうございます」


「いえ、僕はネネコさんと一緒の方が、ずっと気が楽ですから」

「ボクはべつにひとりでもよかったけどね。他の部屋にも友達くらいいるし」


 ネネコさんは少し顔を赤くして、僕から顔を背けた。


「ふふふ、ネネコさんはずいぶんと機嫌がいいようですね。何かあったのですか?」

「…………」


 この態度で「機嫌がいい」と見抜けるとは、さすがお姉さまといったところか。

 ネネコさんが黙っているので、僕も余計な事は言わないでおこう。


「いえ、僕からは特に何も。風呂には、お先に入らせてもらいましたから、どうぞ」


「あら、ナイショですか? では、お風呂に入らせていただきます。ネネコさん、続きはお風呂で聴かせてもらいますよ」


 風呂嫌いなネネコさんがまだ風呂に入っていないことも、当然見抜かれていたようで、ネネコさんはお姉さまに連れられて脱衣所に入っていった。




「ただいまぁ」


 続いてポロリちゃんが帰ってきた。


「おかえり。お仕事お疲れ様、みそ汁おいしかったよ」


「えへへ、おそまつさまでした。今日はお兄ちゃんとネコちゃん、ふたりきりだったでしょう? 何かいいことあった?」


「ポロリちゃんと天ノ川さんがいなくて、2人で寂しかったけどね」


「……ポロリは嬉しいけど、そんな事、ネコちゃんには言っちゃだめだよ」


 ポロリちゃんは嬉しいと言いつつ、あまり嬉しそうな顔には見えない。むしろ僕を憐れむような表情で、ダメ出しのアドバイスをくれた。


「えっ? それはどうして?」


「あのね、お兄ちゃんとポロリが2人だけでお食事したとしてね。そのあとポロリが『ミユキ先輩とネコちゃんがいなくて寂しかった』って言ったら、お兄ちゃんはどう思う?」


「ああ、たしかにそうだよね。やっぱり僕1人だけじゃだめか……って思うかな」


「でしょう?」


「そうか。さっきの僕はネネコさんをがっかりさせる発言をしたことになるのか」


「うんっ」


「ポロリちゃんはすごいね。それなら、訂正しておくよ。ネネコさんと一緒で、楽しかったよ」


「えへへ。ポロリも今からお風呂に入るから、ネコちゃんには、そう伝えておくね」


 ポロリちゃんは嬉しそうな顔をして、すぐにパジャマと下着を用意すると、脱衣所へ入っていった。


 僕は自分の席に座り、机の引き出しに入れたネネコさんの歯を眺めながら、このレア素材をどう扱ったらいいのかを考える。


 ――何も思い浮かばないが、記念の品には違いない。


 ネネコさんはすぐに風呂から出てきて、いつも通りに僕の右隣りに座る。


 僕はネネコさんに見つからないように、そっと引き出しを閉めたのだった。

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