第21話 無邪気な発言は時に残酷らしい。

 美術室を出てすぐに尿意を催した。


 ずっと我慢していたというわけではない。

 きっと緊張が解けたせいだろう。


「ごめん。僕、ちょっとトイレに寄っていくね」


 ネネコさんに一声掛けて、僕は最寄りのトイレに早足で向かう。


「トイレなら一緒に行くよ。ボクもおしっこしたくなっちゃった」


 ネネコさんが、ごく自然に同性の友達のように僕についてくる。


 女の子同士で一緒にトイレに行くというのは、よくある光景な気がする。

 しかし、「おしっこしたい」と異性である僕に宣言してしまうのはどうだろう。


 大きい方ではないから問題ないのかもしれないし、一緒についてきてくれるということ自体は、友達としては喜ばしいことなのかもしれない。


 だが、お嬢様としては残念な発言なので、一応警告はしておくことにした。


「そんなこと言うとお姉さまにしかられるよ。『はしたない』って」


「一緒にトイレに行くくらい、べつにいいじゃん」


 一瞬、ネネコさんも男子トイレに? ――と思ったが、そもそもこの学園の男子トイレは教職員専用のものが1か所あるだけだった。


 では生徒用のトイレは全て女子トイレなのか――といえば、そうではない。


 もともと女子生徒しかいなかった為、女子トイレであるとわざわざ表示する必要すらなかったのだ。


 つまり、この学園では全ての生徒用トイレは男女共用なのである。


 男子トイレにのみ存在する見慣れた小用の便器はどこにもないが、無くても特に困ることはない。一般の家庭にはもともとそんなものはないし、個室が満員になるほど利用者が多いわけでもない。


 僕が一番奥の個室に入ると、ネネコさんはすぐ隣の個室に入る。


 僕が便座に腰掛けて小用を足すと、少し遅れて隣の個室からチョロチョロと用を足す水音が聞こえる。


 自分のほうは音がほとんど響かないのに、隣の個室の水音だけがよく聞こえるのは、どういうわけだろうか。


 水音がやむと、続いてカラカラとトイレットペーパーを引く音も聞こえる。


 天ノ川さんだったら水を流して音を聞こえなくするのだろうか。いや、そもそも僕の隣で用を足したりはしないだろうし、それ以前に一緒にトイレに入ろうとしたりもしないだろう。


 そんなことを考えながらズボンのファスナーを上げていると、トイレにぞろぞろと人が入ってくる気配がする。


 美術部の部員の人達か、それとも見学の人達か。

 いずれにせよ美術室にいた生徒たちに違いない。


「ねえ、あれってやっぱホーケーだよね?」

「うん、あそこだけはそっくりだったよね」

「ヤバイよね。ダビデ君、マジ、ダビデ!」


 盗み聞きしているつもりはないのだが、大きな声なので会話の内容ははっきりと聞き取れた。しかしそれは、僕にとってはあまり聞きたくなかった内容だった。


 遅くなって「大きい方」だと思われるのもいやなので、僕は慌てて個室を出る。


「あっ、うわさをすれば……」


 3人組の先輩方は気まずそうにこちらを見る。


 僕は会釈して先輩方の横をすり抜けて、急いで手を洗う。

 隣の個室から出てきたネネコさんも、僕の隣で手を洗う。


 「ダビデ君お疲れ~」

 「ごきげんよ~」

 「またね~」


 逃げるようにトイレから出ると、背後から笑い声が聞こえたような気がした。


 今の先輩方の会話のお陰で、先ほどの部長さんの言葉の「本当の意味」が、ようやく僕にも理解できた。


「よかったよ! リアルな包茎ダビデだった!」


 ――「包茎」と書いて「ダビデ」と読む。

 ダビデさんには悪いが、きっとそういう事なのだろう。


 僕にはどうしようもない身体的特徴を異性から指摘されたという事実が、精神的にかなりきつい。しかも普段は他人に見せていない場所である為、今までそんなことは誰からも指摘されたりはしなかったのだ。


 僕の体の一部がダビデさんに似ているという事は、僕も一応自覚はしていたし、オトナになるとダビデさんでは無くなるという話も聞いたことがある。


 では、15歳の僕がダビデさんなのは、いけない事なのだろうか。

 これって、自然にダビデさんから卒業できるものなのだろうか。

 それとも、イエス○○クリニックで手術しないといけない病気なのだろうか。

 そもそも、普通の人って何歳くらいまでダビデさんなのだろうか。

 ところで、あのダビデさんって、何歳のときのダビデさんなのだろうか。


 今まで「まあいいか」で済ませていたものや、まったく考えたことすら無かったことが途端に気になり始めて、僕は急に不安になった。




「ただいま~」

「おかえりっ、お兄ちゃん、ネコちゃん!」


 101号室に戻ると部屋着に着替えたポロリちゃんが笑顔で出迎えてくれた。

 ネネコさんは変わらず元気だが、僕は精神的にだいぶ参っていた。


「おかえりなさい。美術部はどうでしたか?」


 天ノ川さんは僕たちが美術室に見学に行っていたことを知っているようだった。

 ここでは噂が伝わるのがとても速いのだろう。


 女の子は思った事や感じたことを、すぐに口に出してしまう生き物なのだ。

 僕はネネコさんを見てそれを学んだ。さっきトイレにいた先輩方もそうだった。


 それは、僕にとっていいことでもあるが、悪いことでもある。

 もしかしたら、すでに全校生徒に僕の情報が伝わっているのかもしれない。


 生徒数はわずか100人あまり、みな同じ寮に住んでいて、ほぼ全員が顔見知りなのだ。スマホなんか使わなくても食堂や大浴場にトイレなど、おしゃべりする機会はいくらでもあるのだから。


 ――そう思うと僕はさらに不安になった。


「ミチノリ先輩と一緒にお絵描きしてきました」


 ネネコさんは、僕が苦悩している間に、お姉さまの質問に笑顔で答えていた。


「はい、どうぞ」

「ありがとう。いただきます」


 ポロリちゃんがお茶をれてくれたので、4人でリビングの小さなテーブルを囲んで、くつろぎながら一服する。湯呑ゆのみは先輩方のお下がりが残っていたらしい。


「ミユキお姉さま、それで、ちょっと教えてほしいことがあるんですけど……」


「もちろんいいですよ。何か分からないことでもありましたか?」


 天ノ川さんはクッションの上で正座をして背筋を真っすぐに伸ばし、優雅にお茶を飲みながらネネコさんの話を聴いている。


「ホーケーってなんですか?」

「ぶーっ! ごほっ! ごほっ!」


 ネネコさんの質問で、天ノ川さんが盛大にお茶を吹いた。

 ポロリちゃんは驚いて、こぼれたお茶をく。


「ごめんなさい。私としたことが……ありがとう鬼灯ほおずきさん。

 え~と、ホーケーですか? う~ん、私もまだ詳しく教わっていないからよく分からないのですけれど、おそらく4年生の育児実習で教わる事なのではないかと。難しいお話ですから、ネネコさんも今はまだ分からなくていいと思います」


「そっか~、美術部の先輩たちがトイレでそんなこと言ってたから、ちょっと気になっちゃって……」


「ねえねえ、ネコちゃん! その画用紙なあに?」


 ポロリちゃんがネネコさんの持ち帰った「お絵描き用紙」を手に取る。


「わあ~っ! ぞうさんの絵? 上手だね!」

「ぶーっ! ごほっ! ごほっ!」


 今度は僕が吹いた。

 ポロリちゃんは驚いて、こぼれたお茶を拭いてくれた。


「ありがとう。ちょっとむせちゃって」


 ネネコさんがポロリちゃんに渡した画用紙には、僕の局部のみが描かれていた。

 それだけ見るとたしかに、ぞうさんの横顔に見えなくもないかもしれない。

 どういうわけか、ライオンのようなたてがみまで描かれてはいたが。


「ミチノリ先輩が、モデルさんになってくれたんだ!」

「お兄ちゃんモデルさんなの? すごーい!」


「うん。だから、このぞうさんは、ミチノリ先輩のち〇ち〇だよ!」

「ぶーっ! ごほっ! ごほっ! ちょっと、ネネコさん‼」


 天ノ川さんがさらに盛大にお茶を吹いた。

 ポロリちゃんは驚いて、こぼれたお茶を拭く。

 そして、お茶を拭きながらネネコさんに向かって答える。



「えっ? ポロリが知っているおち〇ち〇は、ぞうさんじゃなくて、かめさんみたいだったよ!」



 ポロリちゃんのあどけない一言が、僕の心臓にグサリと深く突き刺さった。

 

 ――「包茎」と書いて「ぞうさん」と読む。

 ぞうさんには悪いが、きっとそういう事なのだろう。


「だいじ? お兄ちゃん、お顔が青いみたいだけど……」


「だいじ?」とは地元の言葉で「大丈夫?」という意味だ。

 それはポロリちゃんに教わった。


 しかし僕は、全然「だいじ」じゃなかった。


 ここで花婿修業をすれば、将来不安のない場所で幸せに暮らす事ができるようになるかもしれない。……そんな風に甘く考えていた自分は、どうやら間違っていたようだ。


 3日間楽しかった。

 だが、わずか3日で人生終了だ。


「よかったよ! リアルな包茎ダビデだった!」


「ねえ、あれってやっぱホーケーだよね?」

「うん、あそこだけはそっくりだったよね」

「ヤバイよね。ダビデ君、マジ、包茎ダビデ!」


「うん。だから、この包茎ぞうさんは、ミチノリ先輩のち〇ち〇だよ!」


「えっ? ポロリが知っているおち〇ち〇は、包茎ぞうさんじゃなくて、かめさんみたいだったよ!」


 今日の出来事が、僕の頭の中で次々とよみがえった。

 走馬灯なんて見たことないけど、きっとこれが「走馬灯のように」ってヤツだ。


 ――僕は眩暈めまいがしてその場で倒れた。


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