第8話 己との戦い

「……容態は、いまは落ち着いておられます。眠っておられるので、お声がけは……」

「わかった」


 ラインハルトは神聖騎士団の従軍医に短く答えると、その部屋へ足を踏み入れた。


 膝高の寝台が一つ。仰ぎ見るような高さにある窓から差し込む光の下にそれがあり、他には何もない、石壁と石床に囲まれた部屋だった。それでも、この部屋が、ここへ来るまでにラインハルトが見た、同じ目的の他の部屋と比べれば、格段に配慮され、手が行き届いていることは疑いようがない。

 ここへ来るまでに見たものは、ラインハルトにウファが口にした言葉を思い出させた。それはウファが、自らの『家』と呼んだ場所について話した言葉だ。


……生まれついての貴族であるお前らから見れば、あそこは人の住む場所ではないだろう。毎日、塵のように奴隷は死ぬし、死なずに済んだ奴も、そのときの傷が元で、翌朝起きると死んでいる。傷と血と、死が充満した場所。確かにあそこはそういう場所だった。


 ダキニ城の一画に設けられた仮設の医務室は、まさにウファの言葉、その通りの場所に成り果てていた。さして広くはない空間に、腕を、足を、四肢を失う傷を負い、巻かれた包帯を真っ赤に染めているもの、頭や目から、同じように流れる血を止められずにいるもの、そうした重症患者から、比較的軽症のものまでが、一緒くたに押し込められた部屋は換気が行き届かず、血と人の臭いが充満していた。反射的に鼻を被いたくなる程の異臭を、騎士の、兵士の呻き声、激痛に身をよじり、叫ぶ声が掻き回す。ラインハルトはその只中を歩き、奥にある士官用にあつらえられた個室の前に立ったのだった。途中、自らのも患者たちの血で衣服を汚しながら、忙しなく立ち働く従軍医数人とすれ違ったが、それだけだった。


 個室の寝台の上には、長身の男性が横たわっている。彼の象徴だった長い銀髪は艶なく乱れ、右半分に至っては耳が見えるほどの長さで切られていた。露になった耳元から頬、顎、首筋にかけては白い包帯を巻かれているが、うちから染み出す体液とも血ともつかない液体のせいで、その殆んどが黄色く汚れてしまっていた。

 ウファの放った炎……シホの言葉通りだとすれば、魔法によるものだが、その炎は、先の戦いの中で、横たわる男の右側に炸裂した。炎と熱風、巻き上げられた灼熱した土砂を浴び、その衝撃で軽々と吹き飛ばされた男の右半身は、全身鎧に被われていなかった場所を中心に、致命的と言えるほどの火傷を負っていた。全身鎧の下も無傷ではなく、浅いものから深いものまで、やはり火傷を負っていた。命を保っていることも奇跡的だ、と医師は話したが、同時に、回復も奇跡的だ、とも話した。絶対安静が必要で、決して楽観は出来ないが、と前置きした上で、生きることは出来るだろう、と言った。但し「火傷を負う前と同じ様に」とは、言わなかった。


「アルスミット……」


 ラインハルトは眠る男の名を呼んだ。熱に浮かされ、言葉にならない声を、時折浅い息と共に洩らすアルスミットが、ラインハルトの言葉に応えることはなかった。


「わたしは、シホ様と共に進軍することにした。ウファを止める為だ」


 アルスミットは応えることが出来ないとわかりながらも、ラインハルトは告げた。


「そして……父に託されたこの剣と、お前を傷つけたウファの剣。この戦いが、ただただオード王国の暴発による戦いなのか、それとも蠢く何かの影響があるのか、それも見定めたいと思った」


 アルスミットが大きく息を吸い、吐いた。聞こえているのか、と思ったが、やはり応じることはなかった。


 私怨、ではないのか。


 ふいに、あの僧兵が口にした言葉が、ラインハルトの脳裏を過った。あの場では、ないとは言えない、程度に答えた。それ以上に、自分の行いと向き合わなければならないと思っている、と。その答えに偽りはない。それも確かに正直な気持ちである。だが、こうして負傷したアルスミットに向き合えば、あの僧兵が疑った通りだと言わざるを得ない。私怨でないはずがない。アルスミットは幼い頃から側にいた。兄弟のないラインハルトにとっては従者であり、兄であり、時に父であり、友でもあった存在だ。血よりも濃い繋がりを抱くには、十分すぎる時間を過ごして来た。そのアルスミットが、こうして横たわっている。この先、生涯に渡って残るような傷を受けて、苦しんでいる。私怨を抱かないはずがない。ラインハルトの手が知らぬうちに拳を握り、それが強く、強く握り締められていた。掌に爪が食い込む痛みがあり、ラインハルトはそれに気付いたが、力を緩めることはしなかった。痛みと共にあることを選んだ。


 強い負の感情を持ったまま、魔剣と戦うことは危険だと、シホが言った言葉を思い出した。魔剣を知っている彼女が言うのだ。本当の事なのだろう。だから、この感情は抑え込まなければならない。頭ではラインハルトもわかっていた。わかっているからこそ、感情は大きく揺れた。目に見える映像が滲み始める。息が苦しい。続く言葉を紡ぐことが出来ない。


「こ……し……」


 聞き間違いを疑ったのは一瞬。次の瞬間には、ラインハルトはアルスミットの横たわる寝台に駆け寄っていた。すがり付くようにアルスミットの顔に顔を近付けると、アルスミットの左目が僅かに、だが、確かに、うっすらと開かれているのがわかった。


「アルスミット!」

「こう……し……お気をつけ下さい……あの男に……そして、ご自身に」


 信じられないほどはっきりとした言葉で、アルスミットは言い、左の口角が確かに上がった。しかし、それだけだった。ラインハルトが何かを応える前に、アルスミットの左目は閉ざされ、再び開くことはなかった。浅い息が続いていた。また朦朧とした意識をさ迷っているのだろう。


 アルスミットを呼んだ声が大きかったのだろう。ラインハルトを案内した従軍医が部屋に飛び込んできた。声を発することはなく、身ぶりと表情だけでラインハルトに退出を促した様は、アルスミットの状態がいかに重篤なものかを語っていた。


 ラインハルトは従軍医に一礼すると、アルスミットの医務室を出た。血と、猛烈な人いきれが近くなる。一般兵と騎士たちの苦しむ声が近くなったが、ラインハルトはもう、立ち込めた異臭を不快に感じることはなかった。

 アルスミットは言った。自分自身に気を付けろ、と。それは強い私怨を抱く心根を、朦朧とした意識の中でアルスミットが感じ取ったからなのかも知れない。他の誰にも不可能だとしても、アルスミットなら、それが出来るように思えた。ましてそれが、ラインハルトのことであれば。

 ラインハルトは真っ直ぐ前を向いた。ここから先は、魔剣との戦い。未知なる力との戦い。だが、それは、もしかしたら、己との戦いに他ならないのかも知れない。自分が夢を追い、ただ生きてきたことで生まれた、ウファという罪との戦い。深い私怨に自らの身を焼かれることなく、立ち続ける戦い。これほど難しく、恐ろしい戦いは、ないのかもしれない。ラインハルトはそう感じながら歩いた。胸を張り、一歩一歩を、力強く。


 薄暗がりの医務室の向こうに、出口の明かりが見えていた。

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