第5話 わたしが、封じます

「リディアさん」


 シホが前を歩く黒い背中を呼び止めたのは、ラインハルトとの会談を終え、部屋を辞して暫く後、城塞の長い石廊下を歩いてからのことだった。

 硬質な音を響かせていた黒い長靴が歩みを止めて、振り返る。絹のような長い黒髪が流れた。


 ラインハルトとの会談は、望んだうちで最も良い形で終えることが出来た、とシホは考えていた。自分と『聖女近衛騎士隊』がこれから戦うことになるのは、常識の外にある力である。対抗する手段を持たない、ラインハルトの騎士たちを同道させることは、死にに行け、と命じていることに等しい。それでもラインハルトに騎士団を動かすように依頼しなければならなかったのは、ラインハルトの手に、位階『領主』の百魔剣、プレシアンがあるからであった。いまはその力を断片的にしか解放していない様子だが、いつ脅威となるかはわからない。そして脅威となったとき、戦力を分散させず、自分と騎士隊の全力を持って対応するためには、彼とプレシアンを自分たちに同行させることが、最も確実な方法だったのだ。

 ラインハルト自身が、『聖女近衛騎士隊』に一時的に同道する、という名目で、同行を了承してくれたことは、最も良い結果と言えた。その上でシホにはもうひとつ、確認しておかなければならないことがあった。


「その……」

「変わったな、お前も、クラウスも」


 彼自身が、大陸北方の小諸国争乱での活躍を契機に、生ける伝説とまで呼ばれている傭兵であり、また、同じ百魔剣のひと振りでありながら、『他の百の魔剣、全てを制すること』のみを目的として鋳造され、百の数からも外され、旧統一王国の王の手元に置かれた、百一本目の魔剣『統制者』の持ち主でもある、『紅い死神』の異名の傭兵、リディア・クレイは、涼しさを通り越して、氷のように冷たい佇まいで、シホと向き合った。視線はシホと、その背後に立つクラウスに向けられている。


「えっと、え、ええ、そうですね。変わりましたか? いや、変わったはずですね。それを望みましたから」


 まさかリディアから話し始めるとは思わなかった。シホは突然のことに慌て、何を慌てる必要がある、と気持ちを繕い、落ち着き払って言葉を返した。そう出来たはずだ。


 リディアとは二年前、位階『領主』を追いかけた、シホが初めて魔剣との戦いに臨んだ事件の時、共に戦った間柄だった。あの時は利害の一致から、シホが共闘を申し出たのだった。

 先代の天空神教最高司祭、シホと同じく聖女と呼ばれた女性から、シホはその女性と同じ力があることを見いださせ、教会へと入った。そして彼女が人知れず続けてきた百魔剣との暗闘を、そのまま引き継ぐこととなったのだが、百魔剣と戦うことの意味は、本当のところは理解していなかった、と言っていいといまならば思う。自分にはその力があり、これが務めなのだ、運命なのだ、とその程度の理解しかなかった当時のシホに、百魔剣と戦うことの意味を教えてくれたのが、彼、リディア・クレイだった。百魔剣の力の強大さ。大切なものを奪われる恐ろしさ。悲しみ、そして怒り。自らの身すら呪うほどの復讐の念。それがリディア以外の、他の誰からも、安易に否定してよいものではない、という現実の存在。あらゆる感情を自ら体験し、その手に『統制者』を握ったことに意味を見いだし、全ての百魔剣を封じるという、途方もない戦いに、ひとり身を投じたリディアの生き様が、自分は百魔剣と、どのように向き合い、戦っていくべきなのか、何のために、誰のために戦うのか、そうした『色』のひとつひとつを自分に付けていった、と思っていた。リディアがいなければ、強くなろうとは思わなかった。もっと早く、膝を屈し、立ち上がることもなかった。リディアが、この人が、孤独であることを思うほど、シホは強くなろうとした。それが先の事件から今日までの二年間、続いてきた。


「……クラウスとは剣を交えた。その時にも言ったことだが」


 動揺は言葉に出なかったようだ。シホは安堵しつつ、拍動の強くなった胸の音と、リディアの淡々とした声を聞いた。少し痩せただろうか。元々線は細かったが、より精悍に、声は二年前よりも硬くなったように聞こえた。


「百魔剣を持つこと、使いこなすこと、戦いに、相手に勝るようになること、つまり、強くなるということが、どういうことか、わかるはずだと思ったのだがな」


 リディアなら、そう言うだろう。シホは明らかな苛立ちを孕んだリディアの言葉を、驚きなく聞いた。わかっていた。いまの自分を見て、リディアはなんと言うだろうか。それはこの二年間、何度も何度も想像したことだった。


「クラウスは、なんと答えましたか」


 自分のすぐ背後には、そのクラウスが立っている。彼がリディアに何と言ったかも、シホには十分想像出来たが、それでもシホはその答えをリディアに求めた。


「守るためだ、と。お前を」

「その答えは、わたしも同じです。わたしもクラウスを守るためにこの剣を握り続け、自分の力を使いこなす決意をしました」


 シホは、真っ直ぐリディアを見た。長い黒髪の奥に光る、同じ色の瞳が、僅かに戸惑う気配を見せた。


「わたしが守りたいのは、クラウスも、わたしを慕ってくれる聖女近衛騎士隊の皆も、そして、あなたもです、リディアさん」

「……フィッフスから聞いた」


 フィッフスとは、リディアの育ての親である。旧王国時代の研究者でもあり、畏怖と蔑みを込めて『魔女』などと呼ばれもする女性だが、二年前の事件では、シホに助力してくれた。事件が無事終息した時に、シホはフィッフスに頼み事をしていたのだった。育ての親であるあなたの下に、リディアが訪れることがあれば、伝えてください、と。わたしは、わたしたちは強くなります。だから、あなた一人で戦うことはない、と。

 シホは自分で頼んだ言葉を思い出して、それがちゃんとリディアに伝わっていたことを思って、顔が熱くなるのを感じた。頬は紅潮していないだろうか。動揺は、抑えられているはずだ。


「……感謝する」

「えっ」


 声が出てしまった。抑えられているはずの動揺が、表に出てしまった。リディアが感謝を口にした。そんな言葉は予想していなかった。何と応じていいかわからないが、とにかく悩み、漸く絞り出したような、精一杯の感謝の言葉。そんな言葉を聞けるとは、思ってもみなかった。あらゆる想像を越えたリディアの言葉が、一瞬シホの思考を止めた。


「だが、忘れるな。俺の目的は、全ての百魔剣を封じること。……お前がそのルミエルを握る限り、いずれは……」

「その時は!」


 思い掛けず声が大きくなったのは、表面化したあらゆる動揺を払拭するためであり、決してリディアの言葉を遮ることが目的ではなかった。だが、期せずしてそうなってしまった。驚いた表情を浮かべたリディアの視線が、シホに刺さる。シホはそれを無視した。


 たぶん、リディアはこう言おうとしたのだ。いずれはお前も斬る。これは、予想していた言葉だった。シホは咳払いをし、立ち姿を正して、もう一度、リディアを見た。


「その時は、わたしが『統制者』を封じます」

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