第19話 聖剣

 世界の全てが、動きを止めた。


 いや、そう見えた。


 しかし、よく見ると、ほんの僅かではあるが、全身を炎に包んだウファは動き続けている。全てのものの動きが、考えられない程に低速になっているのだ、とラインハルトは認識した。しかし、自分の動きは、といえば、通常通りであり、相対的に周囲のものよりも、圧倒的に素早く動いていることになる。自分に、もしくは世界に、一体何が起こっているのか。ラインハルトは深く考えることはしなかった。ただ、認識したのは、この状態であれば、アルスミットを救える、ということだけだった。


 ラインハルトが駆け出す。ウファの動きは、ほとんど止まったままだ。父の剣を正面に突き出す。それでもウファは動かない。いや、一歩は前に出ただろうか。そのままの姿勢で、ラインハルトは突進した。まるで動くことなく、ラインハルトの突き出しの一閃を、ウファは炎と化した身体に受けた。ぐにゃり、という、奇妙な感触が、聖剣越しに伝わる。人間を突き刺したにしては柔らかすぎる、しかし、炎そのものでもない感触だったが、確かに実体を持ったものの反動がラインハルトの手に返り、ラインハルトはさらに強く、体重を乗せて突き出した。


 ばあん、と、何かが弾けるような感覚があり、ウファの身体が大きく仰け反った。その瞬間、ラインハルトを包んでいた奇妙な感覚が解け、緩慢だった周囲のもの全てが動きを取り戻した。胸の辺りに突きの一撃を受けた炎の人型が、上半身を倒して後方へ数歩分、宙を舞った。


「……なん、だと?」


 ウファが信じられない、と言った声を出しながら身を起こす。ラインハルトにしてみれば、その身が炎に包まれていること、真剣の突きを胸に受けて倒れ、すぐさま起き上がることも信じられないのだが、ウファは自身に起きていること以上の驚きを示していた。


「キサマ……その力……」


 ウファはどうにか、といった様子でふらつきながらも立ち上がった。全身は赤く、灼熱したままだが、明らかに痛手を負っている様子だった。


「どこで……いや、それを訊いても無意味だな」


 ウファは笑った様だった。次の瞬間、ウファを包む炎が、再び大火となって燃え盛った。


「おれは負けん、キサマには、キサマにだけは、負けるわけにはいかん!」


 ウファが再び動いた。今度はラインハルト目掛けて、一直線に飛び込んでくる。全身を染め上げる炎と同じ色をした、波打つ刃を持つ剣を手に下げ、一気に肉薄した。


 その瞬間、世界が再び動きを止めた。


 ラインハルトは感じた。脈打つ音。高波のように、何かが押し寄せて来る気配。その音が、気配が、自分の手の内から流れてくることまで、今度ははっきりと感じた。


 間違いない。これだ。この剣だ。


 父に託された、家宝である剣。聖剣シルヴァルフの名を冠する剣。先のルートクルス奪還戦から始まったこの異常は、この剣によってもたらされている。


 この剣は何なのか。只の家宝ではないとしたら、一体どんな剣だというのか。そしてこの力は何なのか。この力の源は何なのか。何一つとしてわからなかった。ただ、思い浮かんだのは父のことだ。ラインハルトは、父・バラートが、この剣を自分に託した時のことを思い出していた。あの何かを詫びているような瞳。あれはバラートが、この剣の秘密を知っていたからなのだろうか。


 魔法のように、ですか?


 そう言って微笑んだのは、あの聖女だ。そう、ウファの使う炎が、ウファの全身を包む炎が、魔法と呼ばれ、かつてこの大陸に存在した、万能の力なのだとすれば、このシルヴァルフが起こす異常も、魔法の力なのかも知れない。だが、だとすれば、すでにこの大陸から消えて久しい力を振るうこの剣は一体……


 そこまで思考が廻った時だった。止まっていた世界が、それまでとは異なる動きを見せた。


 迫るウファが、分裂した。


 文字通り、ウファの姿が、五つに分かれた。五人のウファはそれぞれ別の動きをして、あるものはそのまま一直線にラインハルトとの距離を詰め、またあるものは一直線に向かってくると見せかけて、右に、左に移動し、さらにその先で、その場から退くものや、そこから踏み込んで来るものに分かれ、人数は次々に増えていった。なんだ、と思う間もなかった。その内の幾人かのウファがラインハルトに波刃剣を振るい、あるいは突き出し、ラインハルトは自らの身体でそれを受けた。斬られ、突き刺される激痛が襲い掛かり、異物が体内に入り込む不気味な感触と、失血による脱力感がラインハルトの感覚の全てを支配した。一刀一刀が致死に届く刃に晒され、ラインハルトは数度、確実に死んだ。


「うわああああ!」


 堪らず叫び声を上げた。断末魔の叫び。そのはずだったが、脱力感に反して、なぜか身体は滑らかに動いた。苦痛に目を閉じたまま、夢中で振るったシルヴァルフが、何かを捉えた。再び、ばあん、という音があり、ラインハルトの腕に、柔らかくも、固くもない、奇妙な感覚が返った。


 うぶぉ、という、空気が抜けたような悲鳴が聞こえ、ラインハルトは目を開いた。そこには、数歩先にウファが、仰向けで倒れている光景があった。


「くそ、くっそっ!」


 ウファは怨嗟の声を漏らしながら、どうにか起き上がろうとしていたが、ラインハルトが放った一撃は、重いものだったようで、なかなかそれが叶わない。膝に力が入っておらず、どうにか膝立ちになっても、また地面に倒れるを繰り返していた。


「公子……」


 真横から掠れた声が聞こえた。ラインハルトは驚きながら、声のした方に視線をやる。そこにはアルスミットが倒れていて、どうにか動く様子の首だけを動かして、こちらを見ていた。いまにも消えてしまいそうな声はか細く、アルスミットの受けた損傷と、早急な治療の必要を感じさせたが、アルスミットの瞳だけは、強く、こちらに光を放っていた。


「いまです。『銀髪鬼』に、とどめを……」


 ラインハルトは視線をウファに戻した。未だに立ち上がれないウファの背中を見、ラインハルトは聖剣を握る手に不必要な力が籠るのを感じた。


 ここで怨恨を断たなければ、身の危険は取り除かれることはない。アルスミットのように、自分の周囲にいる人々にも、危害が加わることもあるだろう。だが……


 そこまで考えた時だった。ラインハルトは突然、自分の脚から力が抜けるのを抑えることが出来なかった。右膝から崩れ、地面に片膝を付くと、先ほど襲い掛かった全身の痛みが一斉に押し寄せた。どれもが命に届くほどの痛みだが、ラインハルトは自分の身体のどこにも傷がないこと、出血もしていないことを確認した。それでも痛みはラインハルトに確かな感覚として、それ以上、歩くことはおろか、立ち上がることすら許さなかった。抵抗しようのない脱力感があり、一気に吹き出した脂汗と、異常なまでの嘔吐感が、ラインハルトの身体を前面に折った。シルヴァルフから手を離し、両手を地面に付いて、ラインハルトは動けなくなった。


「ラインハルト様!」


 凛とした女性の声が聞こえた。あれは、あの聖女だろうか。声は確かに聞こえたが、そちらを向く力もなかった。


「イオリア、エオリア、怨讐の魔剣を! ルディはアルスミット様を!」


 怨讐の魔剣。


 聖女の声はそう言った。ウファのことだろうか。ウファの持つ波刃剣のことだろうか。魔剣。魔法。魔の、力。ラインハルトの頭の中で、幾つかの言葉が浮かんでは消えたが、それらが意味をもって結び付くことはなかった。いまのラインハルトに、そうした思考の力は、残っていなかった。


「ラインハルト様」


 甘いような香りが、すぐ近くに舞い降りた。聖女シホ・リリシアが、這いつくばったラインハルトのすぐ傍に寄り添い、顔を除き込む様にしている。彼女の陽光のように明るい髪が見えたが、それは一瞬だった。聖女はすぐに視線を変え、ラインハルトの顔から、ラインハルトの手元を見ていた。そして、何かを呟いた。幾つかの言葉があったようだったが、朦朧とした意識の中、ラインハルトに聞き取れたのは、ごく僅かだった。


「……この剣は、やはり……」


 それ以上の言葉は、意味をもって聞くことが出来なかった。ラインハルトの意識は、ゆっくりと閉ざされていった。

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