第16話 憤怒の起源

「後ろだ、アルスミット!」


 それは、やはり現実に起こるよりも僅かに早く、ラインハルトの脳裏を過った。炎の壁の一部が膨れ上がり、その中から炎共々現れたのは、炎そのものと化したかのように灼熱したウファの姿だった。


 ラインハルトの一声に反応した為、アルスミット以下五人の騎士たちには、現実にその現象が起こった時、十分対応する余裕があった。しかしそれは、通常の敵を相手にしている時の『余裕』であって、炎を操っているかのような、超常の能力を振るうウファを相手にして呼べる『余裕』ではなかった。


 アルスミット以外の騎士たちに、灼熱し、炎を纏った真っ赤な人形が突進した。騎士たちは人形に触れられただけで全身を炎に包まれ、断末魔の叫びを上げた。一瞬にして五人の人間が生きたまま焼かれる光景に、息を呑む暇すらなかった。溶岩のような、輪郭すら曖昧なウファだった人形は、止まることなく、一直線にアルスミットと、さらにその後ろにいるラインハルト自身に迫った。


 アルスミットが軽快な歩調で数歩前進した。突進して来るウファに対して、自殺行為にも見えたが、これはアルスミットが彼我の距離と速度を一瞬の内に計り、自分が有利になる間合いを選択した結果だ、とラインハルトにはわかった。どんなときも涼やかに、動揺を微塵も感じさせないアルスミットの剣は、この超常現象を前にしても揺れなかった。突進するウファは、アルスミットに間合いを詰められ、避ける間も無く、アルスミットの身体に触れる前に、アルスミットの剣に頭部とおぼしき場所を貫かれた。まるで水面に小石を投げ込んだように、ウファの頭部が波紋を打った。


「……いやあ、危ない危ない」


 既に十分現実離れしていたが、いま目にしている光景は、まさに現実とは思えないものだった。ウファの頭部から胸までが波紋のように砕け、そこから跳ねた水滴のように、辛うじて胸から下と繋がった部分が丸く膨らむと、ウファの顔がそこに浮かび上がった。人間の下半身に、赤く色をつけた泥細工のような不定形の何かが乗り、そこから伸びた一部に人間の顔がある。不気味や奇っ怪という言葉を通り越し、そもそも生き物であるかすら疑わしい姿。否応もなく動揺した感情が伝わったのだろうか。ウファの顔が嘲笑を浮かべた。


「よう、ラインハルト。貴様の罪は、思い出せたか?」


 にやり、と笑ったウファだった何かに、ラインハルトは違和感を覚えた。ルートクルスの城で相対したウファは、もっと怒気を孕んでいた。得たいの知れない猛烈な怒りに身を焦がし、常に苛立っているような印象だ。だが、いま、目の前にいる『ウファ』に、そうした様子はない。苛立ちから解放され、穏やかですらあるようにラインハルトは感じた。この変わり様はいったいなんだ?


「奴隷剣闘士、ウファ・ヴァンベルグ」


 そう言ったのは、『ウファ』の胸から上を砕いた剣を引いたアルスミットだった。彼の背にはすでに動揺はなく、落ち着いた様子で言葉を紡ぐ。


「三年前までレネクルス領内の、ある都市に存在した、巨大地下闘技場。違法とはされていなかった為、様々な土地から連れてこられた奴隷が、粗末な武具と、身一つで命の奪い合いを迫られた、地獄のような場所だ。お前はその地下闘技場で『銀髪鬼』と呼ばれた最強の剣闘士だ」

「ほお、お前の部下は優秀だな、ラインハルト。よくおれの名前だけで、そこまで調べたもんだ」


『ウファ』の身体が蠕動する。次の瞬間、弾けるように広がっていた上半身が、一瞬にして元の、ウファ・ヴァンベルグの姿に戻った。全身は真っ赤に灼熱しておらず、箒を逆さにしたように立ち上がる赤みがかった金色の髪と、黒鉄の胸当て鎧に浮き立つ病的に白い肌の色は、ルートクルスで初めて見たウファの姿そのままだった。


「『銀髪鬼』」

「昔のことだ。おれがこれを手にする前の、な」


 ラインハルトの言葉に応えて、ウファが自身の右手に握られた剣を示す。波を打つように加工された特徴的な刃が、炎の揺らめきのように見えた。


「だが、三年前、領内において行われた奴隷解放政策を受けて、地下闘技場は解体され、運営していた貴族、商人たちは、奴隷であったお前たちを解き放った。……ラインハルト様の提言の元に」


 奴隷解放。それは、幼い頃からの、ラインハルトの悲願であった。

 少年の頃から、貴族と平民、更にはその下層に奴隷という民が存在することに、ラインハルトは純粋な疑問を持っていた。誰もが同じ人でありながら、身分を示す呼称によって選り分けられる。特に奴隷階級のものに対しては、このレネクルス領にあってさえ、人ならざるものの扱いを受けていた。そのことを知ったラインハルト少年は、自分の身の回りの人々から、奴隷について学んび、この国の中で、自分の領内で起きている奴隷たちの真実を調べ上げた。その上で、人は人として生きるべきだ、という考えを持ち、育て、カレリア本国での士官学校卒業後、レネクルスに戻ったのを契機に、奴隷解放政策を現実にする為、父に、領内の貴族たちに働きかけてきた。


 その成果が結実したのが、三年前である。レネクルス領内からは奴隷を使うことが一切禁止され、奴隷たちは皆、自由な生活を手にした。商いを始めたものもあったと聞く。旅支度をして、生まれた土地へ笑顔で帰って行ったものの話も聞いた。地下闘技場の話も、ラインハルトの耳に入っていて、剣闘士として鍛えられたものの中には、レネクルス領の兵士として取り上げられたものもあったと聞いた。明日の命すら知れない劣悪な環境から解き放たれた奴隷たちは、皆、新しい自由を謳歌している。ラインハルトはそう聞いていた。


「そういうことだ。ラインハルト・パーシバル。貴様の罪はそこにある」

「……どういうことだ……?」

「『銀髪鬼』ウファ・ヴァンベルグは、地下闘技場解体時に抵抗した奴隷剣闘士のひとりです」


 ラインハルトの頭の中を、ある記憶が駆け抜けた。地下闘技場を解体し、囚われていた奴隷を解き放つ為、ラインハルトはその現場に立ち会った、その日の記憶だ。そこで思わぬ抵抗があり、小競り合いに至った。暴れたのは一部の奴隷剣闘士で、事態はレネクルス騎士団によって直ぐに終息された。その時、ラインハルトはウファと会っている。騎士たちの人垣越しであったが、抵抗した奴隷剣闘士たちが捉えられ、一時的に拘束されていくその場で、ウファはラインハルトに向かって、言葉としてはほとんど聞き取れないような怒声をぶつけていた。箒を逆さにしたような銀色の髪、激しい怒りに燃える瞳。髪色や肌艶の色は変わっているが、間違いない。あれは、この、ウファだった。


「その後、奴は拘束を逃れ、追跡した騎士団の一個小隊を、たったひとりで壊滅させ、多くの死傷者を出しました。いまも指名手配されている男です」


 ウファの代わりのように応えるアルスミットは、手にした騎士剣を片手持ちで構え直し、軽く足をその場で踏み鳴らした。舞うような剣を振るうアルスミット特有の、攻めに転じる仕草である。


「なぜ、そんなことを……」


 明日すら知れない命の奪い合い。傷付いても治療さえされない劣悪な環境。そんな環境から解き放たれる時を迎えたその場で、ウファはその自由の使者である騎士団に抵抗し、その後、殺害までして逃走した。なぜ、そんなことをしたのか、ラインハルトには理解出来なかった。出来なかったし、その報告自体、いま初めて聞いたものだった。


「……やはりお前らにはわからんよ。生まれついての貴族であるお前らから見れば、あそこは人の住む場所ではないだろう。毎日、ごみのように奴隷は死ぬし、死なずに済んだ奴も、そのときの傷が元で、翌朝起きると死んでいる。傷と血と、死が充満した場所。確かにあそこはそういう場所だった」

「ならば、なぜ……」


 ラインハルトが問い返したのと、アルスミットが踏み込んだのは同時だった。僅かに横へ滑るように相手の意表を突く動きを入れたアルスミットの足取りに、ウファが一瞬遅れて剣を合わす。触れ合った得物同士が、硬質な音と共に、瞬く火花を散らした。


「あんたなら少しはおれの考えが分かるんじゃあないか、『銀の騎士』。あのお坊っちゃんよりはいろいろ見聞きしてるだろ?」

「……分からんな」


 アルスミットの足取りが変わる。優雅、というより、激しく踏み鳴らすような印象が強くなり、その分、一刀の鋭さが増した。薄ら笑いを浮かべていたウファから、笑みが消える。


「新しい世界に対応出来なかったものがいた。ただ、それだけのことだ」

「それだよっ! その考え方だよっ!」


 アルスミットとウファが肉薄し、剣と剣が鍔迫り合いの格好となった。その瞬間、それまで遠退いていたウファの、あの尋常とは思えない怒りが、再び姿を現した。


「お前ら貴族の考え方だよっ! それがっ! 決して同じ場所からものを見ることはない、それがっ! その考えがっ! おれたちから家を奪ったんだっ!」


 家。


 ラインハルトは聞いた言葉を理解出来ず、言外に反芻した時、それとは全く関係ない映像が、脳裏を過ぎて消えた。


「アルスミット、下がれ!」


 ラインハルトが見たのは、周囲を取り囲む炎の壁の数ヶ所が、ウファが飛び出して来たときと同じように形を変え、真横に燃え広がり、鍔迫り合いをするアルスミットとウファをもろとも飲み込む光景だった。ウファは再び全身を炎そのもののように灼熱させただけだったが、アルスミットは一瞬の内に黒い人形の炭に変わる。ラインハルトの声に、その危険を察知したアルスミットが文字通り飛ぶように退くが、火線の動きの方が僅かに速かった。炎の壁から伸びた数本の火線の内のひとつが、アルスミットの間近に炸裂した。炎は地面と接触した瞬間に、爆発的に膨れ上がり、アルスミットは高温を含んだ風と衝撃を浴びて、高々と宙を舞った。受け身も取ることが出来ず、ラインハルトが叫び声を上げる前に、アルスミットの身体は地面に叩き付けられた。


「貴様らの存在そのものが罪であることを知るがいい。その命で!」


 再び炎の化身となったウファが、倒れ、身動きひとつしないアルスミットに迫る。触れられただけで燃え尽きた騎士たちの姿を思い出し、ラインハルトは咄嗟に踏み出した。


 アルスミットを、殺させはしない。


 ラインハルトが強く、そう願った時だった。何かが脈打つ音が、ラインハルトの耳元で聞こえた。高波のように、何かが押し寄せて来る気配があり、ラインハルトはその気配を認識した。


 その刹那。


 世界が、変化した。

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