第243話 隆也の異変


 ※


 ぼんやりとした意識の中、とある少女の背中が浮かんでいる。


 腰まで伸びる、つやの良い綺麗な黒髪。


 水上詩折。


 元の世界に居たとき、隆也は彼女の背中しか見ることはなかった。授業中は前を向いていたし、休み時間になれば、つねに彼女の周りには男女問わず人がいて、横顔すら拝むことはできなかった。


 正面を向いていた彼女は、いったいどんな顔をしていたのだろうか。隆也のことを傷つけているときと同じように、無邪気な笑顔を浮かべるクラスメイトたちと、どんなふうに向き合っていたのだろうか。


『――――、』


 頬杖をついて、ぼんやりとその背中を眺めていると、ふと、詩折がこちらのほうを振り向いた。


 隆也のほうを見つめる詩折は笑っていた。手を差し伸べ、何かを言っている。


「ありが、とう?」


 唇の動きから、詩折は隆也にそう告げているようだ。だが、いったい何に対してのありがとうなのかわからない。


 詩折には助けられてばかりで、一つのお礼も何も返すことができていないのに。


 詩折の手をとろうと隆也が目いっぱい腕を伸ばすが、そうしようとすればするほど、どんどん彼女の後姿は遠くなっていく。


「水上さん――」


『ありがとう、名上君。、もらうわね――』


「これ――?」


 言っていることの意味がわからないまま、真っ暗だった隆也の世界に光が取り戻されていき――



 ※



「っ、今のは――」


 そうして、隆也は意識を取り戻した。そこでようやく、直前まで見ていた光景が夢だったことを認識する。


 同時に、隆也が気を失う直前に見ていた光景が脳裏をよぎった。


 一人の少女を押しつぶすにはあまりにもひどい超重量の氷塊が、隆也の目の前で情け容赦なく降り注ぐ様が。


「ご主人さま、大丈夫?」


「ミケ……ああ、どこも怪我はないと思う」


「そう、よかった」


 隆也が目を覚ましたのに気づいたミケが、真っ先に駆け寄ってくる。隆也に異常がないことを確認し、尻尾をゆらゆらと揺らしている。安堵しているようだ。


「その……みんなは?」


「メイリールたちは助けたよ。あっちのほうにいる。……でも、」


「……そっか」


 目を伏せたミケの表情が物語っているように、やはり、そこに詩折は含まれていないようだ。類まれな才能に恵まれた詩折がそう簡単にやられるとは思いたくないが……もし生きていたとしても、無事ではないだろう。


 何もできなかった無力感と罪悪感が、隆也の心にずしりとのしかかる。


「ところで、ここはいったい……洞窟、とはまた違うみたいだけど……大木の中とか?」


「うん」


 土の匂いに交じってわずかに漂う木の香りで、隆也はそう判断する。大人数で入ってもなお広々とした空洞だが、賢者の森には、数千年以上の樹齢を持つ巨大樹もいくつか存在しているので、実はそう珍しい話ではないが。


「私の住処だ。雪原に放り出すわけにもいかないのでな。……正気に戻ったか、人の子よ」


「! あなたは、」


 薄暗闇から姿を現した白狼の名を、隆也は口にする。


「レオニス――ということは、」


「ああ。そこにいる娘の父親だ。正真正銘のな」


「じゃあ、あの場にファルメと一緒にいたのは、やっぱり偽物……?」


「そういうことだ。妻はその子を産んだと同時に天に召されたし、アレは私がまだ群れの長だった、若いころの姿だ。すべてはあの魔法使いが作り出した幻影だろうが、いったいどこから引っ張り出してきたものか」


 こちらこそ本当のレオニスで間違いないのだろう。よく見ると、輝くような銀の毛並みは、幻影が持っていたような威厳がすっかり抜け落ち、残っている白い体毛も、心なしかくすんでいる。

 

 だが、そのかわりに、青みがかかった瞳の奥に宿る光は随分と穏やかで優しい。


 それは、ミケがまったく警戒していない様子からもわかる。


「今日はやけに山の声がうるさいと見回ってみれば……まったく、森の賢者はいったい何をしているのやら」


「賢者……もしかして、師匠のことを知っているんですか?」


「相手は私のことなど知らないだろうがな。我ら神狼族の領域たる頂上付近に『墓』をつくる代わりに、何か問題があれば対処すると契約していたはずだが」


「墓……」


 レオニスから聞きたい情報が山ほど飛び出してくるが、今はとにかく一時も早くこの場から脱することが重要である。


 安否不明の詩折を助けるにせよ、ムムルゥやアカネなど、とにかく魔法の使える仲間の助けが必要なのだ。そのためには、一刻も早く連絡の取れる場所に戻らなければならない。


「レオニスさん、ここまで助けてもらって申し訳ないんですが、俺たちを大氷高の麓まで届けてもらえませんか? 森にさえ戻ってしまえば、後はなんとかできると思うので」


「本来なら雪原に放り投げて終わりだが……娘を助けてもらった礼だ。面倒をみてやろう」


「ミケのほうはいいんですか? その、一緒に連れて行っても……」


「守り切れなかった私に親を気取る資格などない。娘が望む形であれば、私に異存はないよ」


「……だってさ、ミケ」


「うん。……ありがとう、お父さん」


 そう言って、ミケは神狼の姿となってレオニスの元へ駆け寄る。


 我が子のこれからを案じるようにして、ミケの全身をやさしく舐めるレオニスの姿は、まさしく優しい父親のそれだった。


「タカヤ……えっと、その狼さんは危なくないやつでいいとよね?」


 と、ここで根っこの陰からメイリールたち三人がひょっこりと顔を出した。どうやら三人ともこちらの様子を覗いていただけのようで、意識は無事だったようだ。


「怪我の方は良いんですか?」


「うん。洞窟から出る時にちょっと落石で頭ぶつけたくらいで、怪我は大したもんじゃ……って、あれれ?」


 なんでもないという仕草を見せようとしたところで、メイリールの額付近から、つっと一筋の血が垂れる。ダイクによる応急処置は済んでいるようだが、思ったより傷は深いのかもしれない。


「もう、メイリールさんったら……すぐ傷薬の調合をしますから、そこに座って……」


 残っていた手持ちの素材を材料に、隆也が簡単な調合をしようと能力を行使した瞬間――。


「……?」


「どうしたの、ご主人さま?」


「いや……なんでもない、なんでもないはずなんだけど」


 目を閉じて、隆也はもう一度精神を集中させた。


 調合、生成。すでに、普段なら息をするように行使できるはずの隆也の生産・加工スキルのはず。


 しかし、だからこそ、隆也は自身に起きた異常をいち早く察知した。



「まさか……能力が、使えなくなっている……?」

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