第185話 姉として
×××
「――ふむ、まだタカヤが去ってからそう経っていないはずだが……これほどまでに様変わりしているとはな」
緑の苔がうっすらと覆う石段を上がりながら、弟子たちの保護者であるエヴァーはそう呟いた。
気まぐれに初めてこの場所に足を踏み入れた時から、すでにこの島はかろうじて生きているような状態だった。今にもすべてが氷漬けになってしまいそうな地で小さな炎を灯し、身を寄せあって生きていた【よそもの】たちの集落……その名をシマズ。
島に祭られていた『異物』の存在には初めから気づいていたし、問題を解決するだけの実力もあった。だが、集落の人間からそれの排除を乞われることもなかったし、エヴァーも英雄じみた行動に興味はなかったので、それ以上関わることはしなかった。
森の賢者は、いつだって自分のやりたいことしかしない。誰に指図されるでもなく、世界を放浪し、散財し、各地の有力者に借金を作っては踏み倒し、そして気が向いたときにだけ仕事をする。
そうやって、彼女はこれまで生きてきた。
これからも、そのつもりだ。
「――どうですか、賢者殿? 私の故郷の、本当の姿を見た感想は」
エヴァーが顔を上げた先、石段の先で待ち構えていたのは、一番弟子である鬼の血を引く少女。
思えば館に住み始めた当初から常に不機嫌が眉間に浮き出ていた彼女だったが、今や憑き物が落ちたかのようにさっぱりとした笑みを浮かべている。
「師匠、とはもう言ってくれないのか?」
「ええ。私はもう、あなたの『元』弟子ですから」
腰まで届く黒髪を後ろで結っているスタイルはそのままだが、それ以外はほぼ別人のように見違えていた。
いつも着ていたはずの緋色の袴は、フード付きの魔法衣に改造され、今まで身に着けていないはずのショートパンツに、丈夫な革のブーツ。腰にまかれたベルトには、いくつかの道具を入れるためのポーチがついている。
これまではシマズからの『お客様』にしか過ぎなかったアカネが、この世界の『冒険者』として変わろうとしていた。
そうさせたのは、もちろん隆也である。
「この服装、師匠が用意してくれたものにミチヒ……村の女の子が色々と手を加えてくれたのですが、おかしかったですか?」
「いや、似合ってるよ。それならあの子、タカヤもきっと喜んでくれるさ」
「なんっ……! い、今あいつのことは関係な――って、ああもう、ゲッカ、お前はちょっと黙ってろ!」
顔を真っ赤にして師匠と刀に反論するアカネ。わかりやすい反応。
これでは先が思いやられる、と、エヴァーは小さく噴き出した。
「ふふっ……その様子だと、どうやら、刀娘のほうはきちんと手懐けられたようだな。仲がいいことはなによりだ」
「え、ええ。それはもちろん。そのせいで少し体質も変わってしまいましたが……まあ、問題はありません」
アカネのベルトに差さっているゲッカは、主人が作った鞘の中で、大人しく出番を待っている。新たな所有者として認めさせるまでに随分とてこずってしまったようだが、これなら問題なく力を発揮させることができるだろう。
「まったく、本当にあいつは私がそばにいてやらないと危なっかしいんだから……と、とにかく早く王都へ向かいましょう! ゲッカの話によれば、もうそれほど時間は残されていないようですし」
仲間たちが待つ王都へと送ってもらうため、アカネは、はやる気持ちを抑えてエヴァーの腕に掴まる。ゲッカを手懐け、修行を終えたのがこの直前だったこともあって、イカルガは使っていないのだ。
「なあ、アカネ」
「はい?」
「ここの桜、とてもきれいだな」
「え? ええ……まだ満開には程遠いようですが、お祖母様の話によれば、あと一か月もすれば元に戻るそうで」
雪が解け、ぽかぽかとした春の陽気がもどった集落の下に広がるのは、わずかに薄桃色の花をつけつつある、この島にしか存在しないという、珍しい木。
エヴァーも見るのは初めてのはずだが、穏やかな顔で目を細めるその様子は、まるで、その景色を懐かしんでいるようにも見えた。
「というか、賢者殿もこの木のこと、ご存じだったんですね」
「ああ、好きだったからな」
「? あの――」
「ああ、すまん。昔も昔、大昔の話だ……忘れてくれ」
首を振り、気を取り直して転移魔法を行使すると、アカネを中心にして光の粒子がふわふわと沸き起こる。
「あれ? 賢者殿は、一緒にタカヤのもとには行かれないのですか? 心配なのでは?」
「心配なのはそうだが、ちょっと用事があってな……大丈夫、問題なければ、すぐに合流するよ」
「わかりました……では、ご武運を」
エヴァーの様子から何かを察したアカネは、そう言って王都へと飛ばされていった。
「……用事の内容なんて誰にも何も言ってないはずなんだがなあ」
本当によくできた弟子たちだ――そう独り言ちて、エヴァーは、どこからともなく吹き荒れた木の葉吹雪とともに、その姿をくらましたのだった。
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