第75話 くしゃみと戦端


「――くしゅんっ!」


 瘴気渦巻く淀んだ魔界の空に、隆也の盛大なくしゃみが響き渡った。


 ムムルゥ、レティ、フェイリア、そして、四人から遠く離れた位置にいたレッドデーモン達の動きが、彼の失態を合図に石のように固まる。


 しまった、と隆也が思った時にはもう遅かった。


 いくらスカーフをぐるぐる巻きにしていたところで、粒子の細かい瘴気は、どうやったって網目の隙間から入り込んでくる。


 浅く呼吸をしている間は、隆也でも耐えることができた。だが、つい気が緩んで瘴気のことを一瞬、完全に忘却してしまった彼は、つい癖で、いつものように安堵の溜息をつこうとしていたのだ。


 そのせいで、少し多めに中に入り込んだ瘴気に、鼻の粘膜が刺激されてしまったのである。


 なんという古典的なやらかしだろうか。


 そしてさらに、ここで状況は悪い方へと転がっていく。


「! 闇隠ダークハイドの魔法が解けて……!?」


 悪魔たちからその存在を隠すべく掛けられていた黒色の煙幕が、彼のくしゃみをきっかけにして、あっという間に霧散していく。

 

 おそらく、こちら側から何らかの行動アクションを取った時に、解除される性質を持っているのだろう。よくある隠密系の魔法だ。


「っ……タカヤ様、私の後ろにぴったりくっついて」


 言いつつ、ムムルゥは大げさに翼を広げて、隆也の姿を覆い隠そうとする。


 しかし、それがさらにデーモン達、とりわけ、リーダー格の悪魔騎士には、不自然なように映ってしまったようだ。


 すぐさま方向転換したデーモン達が、隊長を先頭にしてこちら側へ近づいてくる。


「……ムムルゥ様、今ノハ?」


「え? ああ、今のは私のくしゃみッスよ。ちょっと人間界で悪い菌でももらったッスかね。こりゃさっさと領地に戻って体を——」


 と、ムムルゥがあくまでしらを切り通そうととぼけようとしたところで、彼女の眼前に、黒い剣の切っ先が突きつけられていた。


「……いったい、これはなんの真似っスかね?」


「我々をコケニスルノモ、イイ加減ニシテモラオウ。魅魔煌将、イマのは、アナタデモ、ソコノ手下デモナイ」


「ひっ……!」


 ムムルゥの翼の隙間から様子を見つめていた隆也のほうに、びたり、と、悪魔のどす黒く濁る眼球の視線が定められた。


「答エテモラオウ、魅魔煌将ムムルゥ。今、翼ノ後ロに隠シタノハ、ナンダ?」


「……」


 ムムルゥは沈黙したまま答えない。答えられるはずもない。


 彼女の後ろにいるのは魔族ではない。隆也という、れっきとした人間だ。


 大昔から現在までの間、ずっと敵同士として戦ってきたはずのヒトと魔族が、仲良く肩を並べて魔界の空を飛んでいる。


 そんなこと、本来ならば、あってはならないことなのだ。


「答エラレナイ、カ……」


 言って、悪魔騎士が剣の切っ先を上に掲げると、周囲にいた取り巻き達が、一斉にムムルゥの、いや、正確に言えば、レティの背後にいる隆也へと飛びかかろうとしていた。


「……ナラバ、実力行使ニデルマデ!!」


 カカレ、という声を合図に、手下の悪魔たちが意味不明な叫び声を上げて、隆也の元に殺到した。


 大木かと見紛うような太いレッドデーモン達の腕と剣のように鋭い爪が、ムムルゥと隆也の二人を襲おうとした瞬間、


「――まったく、仕方がないな。これだから新人のお守りというやつは」


 そんな声とともに、一陣の風が隆也のすぐ後ろを通り抜けたのだった。


「%&%#_?――」


「いいことを教えてやろう野蛮なる悪魔ども。戦における、我らエルフの里に伝わる格言の一つだ」


 隆也が振り向いた先にいたのは、いつの間にかレティの闇隠ダークハイドを自ら解除して弓を構えているフェイリアだった。


「ナニ、エルフ、ダト——!?」


「――『敵が我らの風を肌に感じたその時、すでにその戦いは終わっている』のだと」


 フェイリアがそう宣言した瞬間、上空から、無数ともいえるほどの矢の雨が、デーモンの集団を目がけて容赦なく降り注いだのである。


 気づくと、すでに彼女が持っていたはずの矢筒はすでに空っぽの状態だった。


副社長フェイリアさん――!」


「タカヤ、お前はムムルゥと一緒にこの場を離脱しろ」


「え? でも、それじゃあ……」


「ご心配なく、タカヤ様。この場を片付け次第、すぐに我らも後を追いますので——闇雷ダークボルト!」


 入れ替わるようにしてムムルゥの前に出たレティが、フェイリアの矢によって大きな傷を受けている敵集団へ向けて、追い打ちとばかりに特大の黒い雷を放った。


「タカヤ様の存在、なんとか隠し通しておきたかったところですが……バレてしまっては仕方がありませんね」


「貴様ラ……マサカ、ココデ我ラトルツモリか!?」


「戦う? ふふ、まったくこれだから脳味噌の小さなデーモン種は」


 大きく息を吸い込んで瘴気を得たレティの角が、その麗しい容姿と反比例するように、禍々しく肥大していく。


「これは虐殺ですよ。一方的なね」


 バレたのでもう我慢する必要がなくなったのか、レティが喜々とした顔で自身の力を解放している。


 その姿だけ見ると、ムムルゥとレティ、どちらが『魅魔煌将』なのかわからない。


「さてお嬢様……ということで、改めて戦闘許可をいただけますでしょうか?」


「まったくしょうがないッスね。ただ、わかってるッスね? 『証拠を消すなら』……」


「……『徹底的に』ですよね? ご心配なく。このような雑魚、跡形もなく、消して差し上げます」


 隆也としても手荒なことになるのは出来れば避けたい。だが、ここは魔界だ。魔界には魔界のやり方がある。


 隆也やフェイリアの存在が他の種族にバレた。状況が変わった。


「……レティ、気を付けて。後で必ず合流しよう」


「――もちろんです、タカヤ様。愛するご主人様を残して舞台から去るなど、メイドとして一番やってはいけないことでございますから」


 ならば、ここはレティの考えを尊重したほうがいいだろう。


 ただ、くしゃみさえしなければもっと穏便に事が運んでいたはずなので、その点についてだけはデーモン達に申し訳ないと思う隆也なのだった。

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