第69話

「自分が周りの友達とちがうとわかりはじめたのは、中学の頃だった」


 泰佑の声はすこし震えているようだった。


「みんなのように、女の子に関心を持つことができなかったんだ。だからと言って男が好きなわけではない。ただ単純に女の子に興味が持てない、いやむしろ嫌いだったんだ。なぜ自分がそうなったのかわからない。でも世の中は男と女しかいないだろ。そのうち、女性に対して性的にも精神的にも興味が持てない自分に悩み始めるようになった。高校生になってもかわらず、悩みを振り払おうと必死に野球の練習をしていたある日、自分が見つめられていることに気づいた。それも今まで感じたことのないような暖かな視線だったんだ」


 石津先輩は私が見ていたのをわかってたんだ。希久美は身体を硬直させて泰佑の言葉を待った。


「学園に居る時も、グランドで練習している時も、その視線は自分を柔らかく包み込んだ。とても心地よかったんだ。誰に見守られているんだろうと探して、ようやくその主を突き止めた。でもその主が、今まで興味が持てなかったはずの女の子であることがわかって、正直驚いたよ。そして、高校も卒業しようとしている頃、やっとその女の子と話すことができた。自分はその娘に賭けてみようと思った」


 希久美は、手紙を渡したあの日を思い出した。


「彼女と初めて会って、待ち合わせ場所でいきなり彼女を抱きしめた。彼女もびっくりしたろうな。彼女には悪いけど自分の身体の反応を確かめたかったんだ。驚いたよ。普通の男の子のように、体に力が満ちた。そしてその日、ようやく男になることができた」


 なんだと、ただ自分が男であることを確かめる為だけに、私を抱いたってことなの。怒りがまた湧いてきて、希久美は泰佑の抱擁から逃れようともがいた。しかし、泰佑はその腕を強く絞り、希久美を離さない。


「話はまだ続きがあるんだ。聞いてくれよ」


 泰佑の切実な口調に、希久美もおとなしくなった。


「やっと本当の男になったみたいで、その時は嬉しかった。これで自分も他の仲間と一緒になれた。有頂天になって、その女の子をほったらかしにして大学に行った。でもそれは間違いだったことがすぐわかった。女としての魅力や成熟度が増している女子大生に囲まれているのに、相変わらず性的にも精神的にも興味が持てない。なぜ、あの女子高生には男になれるのに、他の女の人はだめなんだ。不思議で、理由を確かめたくて、慌ててその娘を探した。でもその娘の名前と消息が忽然と消えてしまっていた。探して、探して、それでも探し出すことが出来なかった」

「それが、寝言で言っていた菊江って娘なの?」

「覚えていたのか…そうなんだ」

「泰佑さ、その娘に会って自分の事確かめる前にやることがあるんじゃないの!」


 自然と希久美の語気が荒くなる。


「そうだな、自分の事ばかり考えてしまって…。彼女も初めての日に取り残されて、そうとう傷ついたに違いない。許されることじゃないが、まず謝罪しなくちゃな。でもつい最近に偶然彼女のクラスメイトに会って、彼女が交通事故で亡くなったことを知った。これで、永遠に謎のまま、そして謝罪も出来ないまま生きるしかないわけだ…」


 えっ、あたしがいつ死んだのよ。誰よ、そんなデマ流したやつは…。


「その娘を性的関心だけでなく、精神的に関心があった、つまり好きだったのかどうかは、今考えてもよくわからない。その頃の自分があまりにも幼かったから…」


 このやろう!あたしは本気だったのよ。


「でも今ははっきりと言えるんだ。オキクと出会って、初めて女性に心が動いた。自分は青沼希久美が…本当に好きなんだと思う」


 泰佑の意外な言葉に希久美がフリーズしてしまった。黙りこくるふたり。後ろから抱きしめる泰佑、抱きしめられる希久美、お互いの息遣いが聞こえてくるようだ。やっと、希久美が口を開いた。


「いつから?」

「たぶん、会社で初めて挨拶した時からだと思う。一目見た瞬間、初めて会ったとは思えない気がした。身体中に電気が走った」


 そんな様子は見せなかったのに…。希久美は音をたてないように唾を飲み込んだ。


「今もオキクと会いたい。ずっと一緒に居たい。心が狂おしいほどオキクを求めている。なのに、相変わらず体が反応しないんだ。つまりそれは、いくらオキクを愛していても、オキクに恋人や妻や母になる女の幸せを与えてあげることができないということなのさ。それが…それが本当に悔しくて仕方がない。生きている意味がないとさえ思えるよ」


 泰佑は、希久美を軽々と抱き上げて、ベッドに寝かせ希久美の髪に触れた。


「今日は振りでも本当に嬉しかった。たった1日だったけどオキクと恋人になれた。しかも、今日は人生で初めて泣いた記念すべき日になったものね。まあ、初めて会ったその日からオキクにいじめられ続けて、いつか泣かされるんじゃないかと予想はしてたけどね。ありがとう」


 泰佑はそう言い残すと静かに部屋を出て行った。


 なに?なに?なに?なんなのこの展開?どういうこと?だからなんなの?

 ベッドに取り残された希久美の頭が混乱する。今日は夜明けからいろいろなことがあり過ぎた。ほほに涙の跡をつけたまま泰佑が去った後、希久美は嬉しくもないし、悲しくもない。なにも感じられない。もう何ひとつ考えることができない。希久美はベッドの毛布を被り、とにかく寝ることにした。

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