第56話
「ほら、約束のグッチのバックよ」
ワインバーで待ち合わせナミにテレサがバッグを差し出した。
「ああ、ありがとう…」
「なんか嬉しそうじゃないわね。いらなかった?」
「ごめん、そうじゃないの。実は今日呼び出したのは、なんかみんなと飲みたくてさ」
「あら鉄の女ナミにしては珍しいわね。いいわ、残念ながらオキクは出張でいないけど、私が徹底的につきあってあげる」
グラスを差し上げて乾杯するも、いつもよりハイペースなナミの飲みっぷりにテレサも多少心配になってきた。
「ちょっとペース速すぎない。それじゃ身が持たないわよ」
「いいの、今夜は飲みたいの」
ナミの呂律も妖しくなってきた。
「あたし、なんで先生なんてよばれる仕事についちゃったんだろう」
ナミはグラスのワインをぐっと飲み干した。
「ねえ、知ってる?みんな先生って呼んでるけど、意味的には自分達と違う世界の人って意味で使ってるのよ。先生と呼ばれる人間は、正しくなければならず、ミスがあってはならず、常に冷静でなければならず。つまりおよそ人間らしいことが許されない存在なのよ」
空いたグラスにワインを注ごうとするが、手元も危なくなってきたナミは、ほとんどテーブルにこぼしてしまう。たまらずテレサがボトルを奪う。
「はいはい。私が注いであげますから…」
「あら、優しいわね…」
ナミはさらにショットを重ねる。
「先生なんて呼ばれてる女に、恋は許されないのよ!」
「おっと、今日の荒れ模様の原因はそこなの?」
「なによ、あたしだって女ですもの、男を好きになるわ。だめなの?」
「いいえ、嬉しいのよ。ナミがようやく女らしくなったから…」
「でしょ。30近くにもなって処女だけど、あたしもれっきとした女なの」
「あれ、研修医時代に研修先の医師とやったって言ってたじゃない」
「嘘よ、嘘に決まってるじゃない」
「ここでカミングアウトかよ」
「オキクには言いにくいけど、私はオキクがうらやましくてしょうがないのよ」
「なんで?」
「だって少なくとも死ぬほど好きな男とやれたんでしょ。私だって…私だって…捨てられてもいいから、一度は好きになった男とやってみたいわよ」
「ちょっと、声大きいって…」
「夢でもいいから、妻と呼ばれたいわ…。沢山の患者さんに尽くすのではなくて、たった一人の男にも尽くしたいのよ!」
「私はごめんだわ」
「なによ。ケンカ売るなら買ってやるわよ。文句ある」
「いえそんな…ところでさ、ナミを目覚ませた男って何者?」
ナミは答えようとしない。
「あら、答えないつもりね。でも黙っても無駄よ。あたしの霊感が強いのは知ってるでしょう。ちょっとあんたの守護霊に聞いてみるわ…」
「ち、ちょっと、怖いこと言わないでよ」
ナミはそう言うと、そっぽを向いてグラスを煽る。テレサは眉間に軽く握ったこぶしを添え、何かを感じようと目を閉じていたが、やがて納得したように眼を開けた。
「ヒロパパでしょ」
「な、なに言ってんのよ。やめてよ」
「あんたの守護霊がはっきりそう言ったもの。図星でしょ」
テレサの突っ込みに追い込まれたナミは、ワインの力を借りて逆切れをおこす。
「そうよ、だから何?悪い?」
テレサは、先日会った石嶋を思い出していた。ナミが惚れるのも無理がない。でも、今この席に希久美がいなくてよかった。ヒロパパの見合い相手が誰かわかったら、大混乱になっていたに違いない。
「ユカちゃんとヒロパパは私を先生って呼ぶのよ。名前で呼んでくれたことなんか一度もないわ。あっちはわたしを生身の女だとは見てないのよ」
「好きだって言って、あなたもエントリーすればいいじゃない」
「だめよ。向こうにはつきあっている女がいるみたいだから…」
もちろん、テレサはその女が希久美であると言いだすことができない。
「夢でもいいから、『おまえ』なんて甘く呼ばれてみたい…」
そう言いながらナミは、いつの間にか酔ってテーブルの上でだらしなく潰れてしまった。テレサは潰れたナミの髪を優しく撫ぜながら、高校時代はもっとクールだったはずのナミを憐れに見つめた。
「オキク。あんたには悪いけど、可愛そうなナミに夢を見させてあげて。たった一日でいいから…」
テレサは、ナミの携帯をバッグから取り出すと、ナミになりすまして石嶋にメールを打った。
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