第49話

 高校時代、希久美は河川敷グランドの遠くから、野球部の練習を見つめる毎日だった。監督やコーチに指導されての練習は、部員達にとってかなりつらそうに見えた。でも同じようなことを今泰佑とやってみると、案外彼らも楽しんでいたんではないかと思えるようになっってきた。

 声を掛け合いながら、ひとつのボールを受け取り、投げ合う。たった数分のキャッチボールだが、一日中おしゃべりして過ごすより、何倍も大きな相互理解と親密感をもたらした。希久美は過去の因縁を忘れ、しばらく泰佑とのキャッチボールを楽しんだ。

 一方、職場のチームメイト達は、そんなふたりを好奇の目で見守っていた。一時期はセクハラ騒動を起こすほど仲が悪かったふたり。そのふたりが朝から離れようとせず、楽しそうに体操やキャッチボールをしている。あいつら、いつのまに出来てしまったのかと、同僚たちは囁き合いあう。ひそかに泰佑を慕っていた女子契約社員などは、うっすら涙を浮かべているものさえいた。


 いよいよ試合が開始される。希久美は、試合の前半はベンチで待機となった。

 泰佑がホームベース上で、ナインにげきを飛ばす。あの懐かしいキーの高い声だった。試合は社内親善にふさわしく、競技と言うよりは、どたばたとした遊戯のレベルである。大きな白球を追って右往左往する選手たち。そんな中でも、ふと希久美は泰佑だけ目で追っている自分に気付いた。晴天のグランドの解放感が、高校時代の自分を蘇らせたのだろうか。白球が野手の間を抜けている最中でも、希久美は、捕手の面を投げ捨てて、返球の位置を指示する泰佑を見ていた。打者となった泰佑が外野に向けて大きな打球を放った時でさえ、希久美は打球ではなく、ベースを掛け回る泰佑だけを目で追っていた。ベンチで声援する希久美のこころは、すっかり女子高校生時代に戻っていたのだ。


 3点をリードする最終回。いよいよ希久美の登板機会がやってきた。

 ベンチの仲間に励まされ、マウンドに上がった希久美だが、緊張のせいかストライクがなかなか入らない。四球で出たランナーを、野手がエラーで進塁させてしまう悪循環。なんとか2死までこぎつけたものの2点を失い、なおも満塁のピンチ。さすがの希久美もこの局面の重要さは十分理解していた。

 おもむろに泰佑が立ちあがり主審にタイムを告げると、ボールを手の平で擦りながら、マウンドの希久美に近づいていった。

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