第43話
「あいつ、すぐ帰って来るって言ったのに何やってんの」
打合せの為に泰佑の帰りを待っていた希久美の忍耐もそろそろ切れかけてきた。よし、これが最後の電話だ。もしでなければ帰ってしまおう。希久美は泰佑の携帯に電話をかけた。しばらくの呼び出し音の後、回線がつながる音。
「泰佑、あんた何やってるのよ。いつまで待たせるつもり。いい加減にしてよ」
強い口調で攻め込む希久美に、帰ってきた返事はあまりにも弱々しい声だった。
「オキク…。助けてくれ…。気持ちが悪くて、動けない…」
泰佑が告げた新宿西口の中央公園へ希久美がタクシーで駆けつけると、果たして彼は吐いた汚物にまみれて、公園のベンチに倒れていた。
「どうしたの?あたしが待っているのに飲んだの?」
「脅迫されて…。しかし1杯だけ」
「それだけで、なんでこうなるの?」
「また一服盛られた…」
「またって…あんた、いったい何人の女から憎まれているの?」
当然の報いだわよ、この悪党。希久美はこころの中ではそう吐き捨てたが、とりあえず瀕死の泰佑を抱き起こす。
「うっ…」
「きゃー、やめて!」
自分に向かって吐かれては大変と、希久美は起こした泰佑をまた投げ捨てた。泰佑は、またうつ伏せて植栽の下でゲーゲー吐き始める。
「この際だから、全部出しちゃいなさいよ」
非情にも希久美は、起き上がろうとする泰佑の背中を足で押さえつける。
「いくらなんでも、ひどいんじゃ…うっぷ」
希久美は腕組みをしながら、泰佑の背中を足で押さえ続けた。いい加減吐きつくした頃、ようやく足をどけて泰佑を抱き起こす。
「いやだ、なんて匂いなの!」
泰佑の汚物にまみれた上着をなんとか脱がせると、公園のごみ箱から拝借してきたコンビニのビニール袋に丸めこみ、片腕を背負って立ちあがらせる。
「重たいわね…。うちどこ?」
「南阿佐ヶ谷…」
「仕方ないわね。手間のかかるやつだよ、お前は」
希久美はそのまま泰佑とタクシーに乗り込むと、彼の家へ向かった。
泰佑は、小さくうなされていて苦しそうだ。仕方がないので、希久美は後部座席で泰佑の頭を抱きながら、膝枕で寝かせた。途中、泰佑の放つ異臭にドライバーが露骨に嫌な顔をするので、髪が乱れて嫌だったが、窓を開けた。
外からの風が泰佑の前髪とまつ毛を揺らす。考えてみれば、苦しそうであっても、泰佑の寝顔を見るのは初めてのことだ。しっかりと線の通った眉毛と鼻筋。少し伸びたひげでざらつく頬とあご。あらためてじっくり見ると、男の顔って不思議だな。繊細な線と無骨な線が交差して、柔らかい面とざらついた面が重なって、決して綺麗だとは言えないのに、美しいと感じるのはなぜだろう。
じっと見つめる希久美の顔に、風に乱された希久美の長い髪がかかる。泰佑がうっすらと目を開けた。
「お前誰だ?」
希久美は、同僚の自分すら認識できない泰佑に呆れて返事をしなかった。
「菊江か?」
え、バレタ?希久美はぎょっとした。
突然昔の名前を呼ばれて、慌てて自分の顔を両手で覆った。しばらくじっとしていたが、泰佑の次の言葉が聞こえてこない。指の隙間から泰佑を覗くと、彼は相変わらずうなされながら眠っていた。うわごとか。しかし、なんで泰佑の口から昔の自分の名前が出て来るのだろう。
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