第10話
ローカルエレベーターで4階に降りると、社食専用のフロアがある。
社食は、 和食・洋食・中華・カフェテリア・蕎麦の5つのお店に分かれていて、社員は好きな店を選び、好きな料理をIDカードのICチップで購入することができる。気分の晴れない時は、希久美は比較的落ち着いて食事のとれる和食の「旬」に行くことにしている。
窓際の席に着いて、浜離宮恩賜庭園の緑を眺めると、少し気持ちが落ち着いた。箸を口に運びながら希久美は考えた。このままの精神状態では、仕事もお見合いも、いつか手痛い失敗をする。石津先輩への怒りを何らかの形で決着させなければ…。
しかしどうやって?何かに没頭して忘れる?いや10年も引きずっていることを、当人を目の前に忘れられるわけがない。許す?とんでもない、それでは今までの自分があまりにも惨めだ。あの悪党を殺す?コンクリの中に生き埋めにするなど想像するだけで魅力的なプランだが、実現性が乏しい。殴って、蹴って、病院送りにする?それではあまりにも一過性だ。痴漢に仕立てて、社会的に抹殺する?しかし…おのれだけが知る潔白性をよりどころに、どこかで平安に生きているあいつを想像するだけで我慢ならない。
そうだ、死ぬまで自らの『おこない』を悔いる人生。石津先輩に今後の人生をそんな風に送らせることができたら、きっとこの気持ちを決着させることができるにちがいない。絶対に、怒りの決着は復讐しかないのだ。そんな思いを巡らせていた希久美に、男が突然声を掛けてきた。
「そこの席空いているか?」
ひとりで4人掛けのテーブルを占有していた希久美に話しかけたのは、石津先輩だった。
希久美は何も答えないまま、定食の盆を持って立つ泰佑を見やった。体型にあったスーツは、余計に肩幅の広さと締まったウエストを強調する。あらためて彼を見ると、かつて捕手用のプロテクターを装着していた体躯は、高校時代に比べその逞しさを増しており、彼が大学でも野球を続けていたことが容易に想像できた。顔は相変わらずあの頃のイケメン顔だな。
そう思うと急に、初めてのデートの日、会った瞬間に抱きしめられた彼の身体の感触が蘇ってきた。まずい!希久美は席を立ってこの場から離れようとしたが、石津先輩が彼女の行く手に立ちふさがり言った。
「待てよ。食事もまだ終わってないだろ。声を掛けて悪かった。自分が他の席へ行くから」
希久美は、対峙する石津先輩の瞳をじっと見た。
希久美の心からまた得体の知れない感情が溢れだす。まだ早いのよ。復讐の計画は出来ていない。今あなたと絡むと何をしでかすかわからない自分が怖いの。だから、お願いだから今はそっとしておいて…。石津先輩をじっと見ていた希久美の瞳から大粒の涙が溢れだした。
「なっ、なにも、泣くことはないだろう…」
希久美が石津先輩を押しのけた拍子に、彼が持った定食のお盆が傾き、食べ物と食器が大きな音を立てて床に散らばる。今度も周りの社員の注意を引くには十分な音だった。
涙を流しながら走り去る希久美。呆然と立ちすくむ石津先輩。この事件は、前のニュースの続編として全社員に伝わった。内容は『そのあと石津はセクハラの謝罪をしにいったが、泣くほど傷ついた希久美がそれを拒否した。』であった。
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