第549話 フラジャイル
「……士郎くん……士郎くん……」
真っ白な世界の中で、士郎を呼ぶ声が聞こえる――
これは……
まどろみの中でゆったりと何かに身体を預けていた士郎は、その瞬間ハッと気がついて両眼を開けた。
「……み……く……?
「士郎くん!」
間違いなかった。目の前で自分を見下ろしていたのは、銀色の長い髪をたなびかせた、碧眼の少女……
それは、士郎がずっとその手で抱き締めたかった存在――そう、神代未来その人だった。純白の世界の中で、未来は横たわる士郎の上に覆いかぶさるように、きゅっとその頭を抱き締めていた。
いつの間にか、士郎は彼女に膝枕されていたのだ。頬に感じる未来の肌のぬくもり――
そこから伝わってくる切なくてあたたかな感情の奔流は、気がつくと士郎の両眼に雫となって溢れ出していた。
「――未来ッ!?」
士郎は、ガバと上体を起こした。
ぼんやりと滲むその視界を振り払うように、何度も瞬きをする。そして今度はしっかりと、未来の姿を真正面から捉えた。
その頬は白磁のように白く、そして僅かに薄桃色に染まっていた。
胸元は大きすぎず小さすぎず、華奢な肩口に引き締まった腰、適度に丸みを帯びた下半身、そしてスラリと伸びた脚は、まるで芸術品のようだった。
すると、彼女の細い両腕が、ためらいがちに士郎の胸元に伸びてくる。少しだけはにかんだ様子の未来は、そのままトン――と士郎に寄りかかり、その身体を預けてきた。
控え目な質量が、士郎の上体に心地よく加わっていく。
すると、そのベクトルにつられた艶やかな銀髪が、士郎の方へさらりと流れてくる。少し遅れて、甘酸っぱい匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
すぅ――……
士郎は、思わずその匂いを思いっきり吸い込んだ。未来の匂いだ……
それは微かに甘く、そしてほんの少しだけ、汗の匂いが交じり合っていた。これは……命の匂いだ……そう、生ある者の……匂い――
士郎の上体に僅かに圧し掛かるこの重みも、彼女が生きている証そのものだった。
「――未来……無事……なのか……?」
すると、未来が至近距離で穏やかに微笑んだ。その清冽な美しさに、士郎は思わずドギマギする。そうだ――いつの間にか彼女のその美しい顔は、士郎のすぐ傍にあったのだ。
「……うん。士郎くん……助けに来てくれて……ありがとう……」
――!?
ここは……どこだ……
その時、士郎はようやく周囲を見回し、そして混乱する。自分はいったい……なんでこんなところで未来と戯れているのだ……!?
いや……戯れているのではない……そう――何か大事な……
――!!
そうだ! 思い出した……!
自分は、
そして――そうだ! ウズメさまが顕れて……そして……そして……
最期の選択をしたのだ――!!
絶滅が定められた人類の、その滅びの時をいつにするのかを――……
千年かけてゆっくりと緩慢な絶滅を待つか――
あるいは、将来に禍根を残さないために、今すぐ潔く散るか――
士郎は決断し、そしてウズメさまにその意を伝えたのだ。言葉ではなく、心でだ。
なぜそうしたのかは言うまでもない。言葉だけだと、自分の真意が伝わらないと思ったからだ。だから士郎は、この一番大切な決断を、
その直後、世界は白く熔けていって――
「――士郎くん……」
未来が耳元で囁く。その声は、まるで衣擦れのように優しかった。それは、士郎がよく知る、神代未来の心地よい声だ。
そうか――!
ということは……自分は今、再び未来との
気付いた瞬間、士郎は身体をよじって未来の肩をガシリと掴み、そしてその全身をじっと見つめ回した。くまなく……そして食い入るように……
「――し……士郎くんっ!?」
未来が、恥ずかしげに頬を染めた。
よかった――
彼女の身体には、どこにも、何ひとつ……傷は見当たらなかった。そうと知らず李軍に一太刀浴びせたせいで、未来の肩口に深く刻んでしまった刀傷も、ドロイドたちが打ち込んだハープーンの刺し傷も、すべてすっかり塞がっている。もうどこからも、血は流れていない。
つまり、未来の肉体は無事再生したのだ。これはすなわち、詩雨さんが未来と同期して、その『人体再生』能力を共有することに成功したということだ。そこには当然、クリーとアイの双子姉妹が持つ、量子テレポーテーションの能力も介在しているのだろう。
そうか――
ウズメさまは、士郎の我儘を無事聞き届けてくださったのだ。
そう――これは我儘……本能……欲望……そしてエゴだ――
士郎は、人類の運命を選択する重大な局面において、あろうことか私欲を選んだのだ。
人々に千年の猶予を与えず、目の前の未来が、李軍に奪われることのほうを嫌った。もっとシンプルな言い方をすれば――
自分の女が他の男に取られることが、どうしても許せなかったのである。
その士郎の決断の結果、ウズメさまは我々に肩入れしてくださった。それまで拮抗していた李軍と我々の力比べに介入し、その圧倒的なパワーをもって詩雨さんやクリー姉妹の力をブーストし、李軍との力の連鎖を断ち切って下さったのである。そしてその結果――
人類は、一千年という途方もない時間的猶予を失い、恐らく今後数十年以内のうちに「種」としての滅びを迎えることがほぼ確定してしまった。
もちろん、宿敵である李軍の目論見を破るという大義名分は元々あったのだから、士郎のこの決断を批難する者は殆どいないだろう。
特に国防軍の兵士たちは、目の前の敵将の
だが、人類進化の真相を知ってしまった我々は――!?
叶にせよ、他のオメガたちにせよ、どんなに李軍が憎いとは言っても、その大本となった考え方や理屈そのものについては、今までの話で十分理解したことだろう。
だから李軍のことについても、そのやり方はともかく、出発点は間違っていなかったのである。でもそれを、士郎は真っ向から否定してしまった。すなわち――
人類には『不老不死』もいらなければ『人体再生』も必要ない。
どのみち滅ぶべき運命ならば、従容としてそれに従えばよい――という考え方。
それはもちろん、それらの異能を持つ未来や詩雨の存在そのものを否定することにも繋がりかねないし、それまで日本国の安寧のために勇敢に戦って死んでいった、多くの将兵たちの死すら無駄にしかねない考え方だ。
そして多くの人々が望む、穏やかな暮らしは、今後目に見える形で失われていく――
この一年以上におよぶ戦いの中でハッキリしたことは、人間が滅びに向かっている――という冷徹な現実だ。
だが、多くの人々は未だその真実を知らない。
私たちの国、日本では『大暴動』以来、およそ20年に亘って戦争が続いていた。
いつ果てるともしれない戦乱。社会は疲弊し、多くの若者は戦地に旅立ち、そして無数の人々が死んでいった。
日本が侵略され、全土が戦禍に巻き込まれたのも、結局はその終わりのない『20年戦争』が発端と言ってもいいだろう。だが、多くの人々は、この戦争に打ち克って侵略軍を追い出せば、また元の平和な生活が戻ってくると漠然と信じていた。
だから必死で、人々は抗ったのである。もちろん、多くの無名兵士たちが、愛する人を守るため、愛する家族を守るため、その盾となって斃れていった。
だが真実は残酷だった――
たとえこの戦乱を生き延びたとしても、人類はやがてその生命力を失い、絶滅してしまう。
オメガが生まれたのは、その兆候だったのだ。
この戦乱を経験したことの本当の意味とは、その真実を知り、未来を作り変えるために舵を切ることだったのだ。
そしてその分岐点こそが、まさに今回の決断だった。
世界の真実を知ってしまった士郎たちは、本当ならこの戦争が終結したその後のことをこそ、考えなければいけなかったのだ。人類の絶滅を防ぐために……人々の
なのに――
士郎はその大義に逆らって、神代未来を失いたくないという、極めて個人的で独善的な欲望を優先してしまったのである。
最低だ――
俺はなんて馬鹿な選択をしてしまったんだ――
このことを
少なくとも、せっかく李軍が普遍化したこの二つの能力『不老不死』と『人体再生』は、たとえそれが劣化コピーに過ぎないとしても、それはそれで人類の中で共有すべき、貴重な知識だった。
だってこの知識さえあれば、少なくとも人類絶滅に関して、ある程度の時間稼ぎは出来たはずだからだ。その間に、何らかの別の生存戦略が思いついたかもしれない。たとえば『人体再生』を応用した、想像を絶する延命技術。たとえば『不老不死』を応用した恒星間航行技術――
人類がこの地球という星を飛び出すだけの技術と生体を普遍化することができれば、もしかしたらそれが、絶滅回避の根本的な解決法になったかもしれないというのに。
だからこそ――士郎はやはり、この知識を後世に共有できるようにするための選択をすべきだった。そのためなら、結果的に
「――なぜそんなに辛そうな顔をしているの……?」
未来が隣で語りかける。彼女の微笑みは、間違った決断をした士郎を気遣ってくれたものだろうか……
彼女はどこまでも優しいから、愚かな男だと思っていてもそれをおくびにも出さず、慰めてくれているのだろうか……
「……未来……俺は――」
「士郎くんならきっと……この選択をしてくれると思ってたよ」
「え――!?」
それは、思いがけない言葉だった。
だって……俺は過ちを犯したのではないのか!? 判断を誤ったのではないのか――!?
俺は……本当なら人類が享受できたはずの、残りの一千年間を……自分勝手に切り捨てたんだぞ……
「――士郎くんは、私が李軍と一緒になっても良かったの……?」
未来が悪戯っぽく微笑む。そんなのイヤに決まってるじゃないか――だけど……
「――じゃあそれでいいんだよ……だって私もそんなの嫌」
士郎は何も言っていなかったのだが、きっと顔に出ていたのだろう。未来はますます嬉しそうに、士郎の肩にその頭を乗せてきた。
「……ねぇ……士郎くん……もしも私と、これから何千年も、何万年も一緒に生きていけるとしたら、士郎くんはどう思う!?」
「えっ……?」
「うふふ……ねぇ、どう?」
未来は楽しげに微笑みながら、士郎を見上げる。
「……どうって……まぁ……そんなこと想像すらできないけど、それはそれで嬉しい……かも……」
「ホントに!?」
「あぁ……ホント……」
「退屈しない?」
「しないよ……」
「飽きない?」
「飽きないよ……たぶん」
「そう――ならよかった。じゃあ逆に、私の命が尽きるとなったら、士郎くんはどうする?」
「え……なにそれ……だって未来は、死なないだろ……」
「例えばだよ……たとえば……!」
「そ……そんな縁起でもない……そういうのは……あんまり例え話にするのはちょっと……」
「じゃあ……やっぱり士郎くんは、私にずっと生きててほしい?」
その言葉を聞いた瞬間、なぜか士郎の心臓はトクン――と小さく疼いた。だってそれは、とても難しい質問だからだ。
終わりのない生というのが、どれほど過酷で残酷なものであるかを、士郎は知ってしまったからだ。士郎はかつて、次元の狭間で出逢った彼女のことを思い出す。一万年を生き続けた……別の世界線の、
士郎は、未来の質問にキッパリと返事が出来ない。
「――ど、どう……かな……未来が死ぬなんて考えられないし……だからといってずっと生き続けるのも……それはそれで大変じゃないかな……て、思うから……」
そんな士郎の煮え切らない態度に、未来がフッと一瞬、悲しげな表情を見せたのは、気のせいだったのだろうか――
「――そっか……そうだよね。こんなこと、普段から考えている人なんて……いるわけないよね……」
「未来……」
「いいの! ゴメンね……変なこと聞いて……」
その瞬間、すぐ隣にいたはずの未来が、唐突にその姿を霞ませていく。刹那――
それまで感じていた未来の体重が、ふっとその重みを失った。
え――!?
未来――!?
士郎は、慌てて身体をガバと起こし、あらためて周囲を見回す。だが、本当に唐突に、何の前触れもなく、未来はその姿を一瞬にして掻き消してしまった。
「――お、おい!? 未来ッ!? どこだッ――未来ッ!!」
――ゥゥゥゥゥウウヴンッ……!!!!
突如として、士郎は意識を取り戻した。
その士郎の目の前に横たわっていたのは……
「――み……未来ッ!! 未来ッ!!!」
辺りは、薄暗かった。ここは、さっきの地下街……李軍と対決していた、あの空間だった。
「――フ、フゴゴゴ……グゴッ……グゴゴ……」
気味の悪い声を発していたのは、李軍だった。ドロイドたちに身体中を覆われ、首だけ露出していた李軍のその顔は、眼球といい鼻腔といい口腔といい、ありとあらゆる穴から、涙なのか鼻水なのか涎なのか、あるいは出血なのか……なんだか分からない体液が、ベチョベチョと零れ落ち、滴っていた。
な……なんなんだコレは――!?
どうなってる――
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