第517話 梟首

 な……なんなんだこれは――


 かざりによって吹き飛ばされた暗黒の空間。

 その一角に、それでもしつこく存在するどんよりとした黒い塊が、李軍リージュンだった。そこから放たれるのは、間違いなく邪悪な気配。この白銀に輝く空間の中で、唯一吐き気を催す違和感――


 だが、士郎たちが驚愕したのはそこではない。李軍がこの空間に存在すること自体は、初めから分かっていたことだからだ。

 そんなことより――この凄まじい嫌悪感は今まで経験したことのない、途轍もなくおぞましいものだ。


「――アイシャッ!?」


 士郎の声は思わずひきつる。あまりの衝撃に、本当に言葉になっていたかどうかすらも分からない。


 だってそこには、彼女のがあったから――


「アイシャちゃんッ!?」

「どういうことッ!?」

「ひ……酷い……酷すぎる……」


 オメガたちも口々に声を絞り出す。それはまるで、江戸時代の刑罰の一つである「梟首きょうしゅ」――すなわち晒し首そのものだった。


 彼女の表情は、困惑したような、悲しみに打ちひしがれたような、底なしの恐怖におびえたような……そんな顔のままで固まっていた。その瞼は固く閉じられ、そして少しだけ、口が開いている。


 何よりグロテスクだったのは、彼女の頭蓋にさまざまなチューブのような、ケーブルのようなものが接続されていることだった。


 そして首そのものは、何かの装置のようなものに乗っかっている。その装置はかなり大きく、よく見ると李軍自体も、その中にほぼ完全に嵌まり込んでいた。

 いや――厳密に言うと、李軍はその装置のようなものと、完全に癒合していた。


 そうか――さっき文が李軍のことを「もはや人間じゃない」「壷のような形」と表現したのは、このことだったのか……


 叶が口を開く。


「……まさかあなたは……彼女を使ってこの異次元空間を……」

「えぇ、そうですよ」


 李軍はこともなげに言い放つ。


「……あ、アイシャちゃんは死んだんじゃ……」


 この引きつった声は、ゆずりはだ。


「――えぇ、ほぼ死んでいました。でも、皆さんがあの地下道に彼女を放置してくれたおかげで――」

「放置したんじゃないッ! 彼女はやっと……やっと安らかな眠りについたのだッ!」


 久遠が憤る。そうだ……彼女は満身創痍で……あの時も最後の力を振り絞って、自分が一度は吸い取ってしまった特戦群兵士たちの生命エネルギーを、キチンと元に戻してくれたのだ。


 ただ、そのせいで彼女の命の灯は消えかかっていた。それでもアイシャは必死で生きようとしたのだ。自分が世話になった李軍に、恐らく一言お礼が言いたかったのだろう。「リー小父さんチャチャのところに連れてってくれ」と懇願され、士郎たちは何とか彼女を連れて行こうとしたのだ。だが――


 なぜあの時、アイシャの身体から小さな無数の光の粒子が立ち昇ったのか――それは未だに分からない。だが、あの光こそが、彼女の生命エネルギーが具象化したものだということは、直感ですぐに分かった。

 だから、それがふわふわと虚空に消えていった時、士郎たちは悟ったのだ。アイシャは天に召されたのだと――


 そのあと、あの地下通路に彼女の亡骸をそのままにしたのは、やむを得ない選択だった。当然だ。士郎たちはその直後から、激しい戦闘状態に突入したのだ。

 だが、李軍の次の言葉を聞いた途端、士郎は怒髪天を衝く。


「――まぁ、彼女が死に至ったのもやむを得ません。なにせ、最後の奉公として上海からあれだけの大部隊を呼び寄せてくれたのですから」


 な……なんだと――!?

 それじゃあまさか……あの時彼女が急に変調をきたし、最後の命が燃え尽きたのは、コイツのせいだったのか――!?

 あの大規模な敵増援部隊が、上海に駐留していた異世界中国軍だというのはほぼ分かっていた。なんでそんなことができたのか、その時の士郎たちには皆目見当がつかなかったのだが、その一個師団規模以上の大戦力を転移させたのが、まさかアイシャの異能だったとは……


ということはつまり――この男は瀕死の彼女に無理な空間転移を強いて、残り僅かな生命エネルギーを食い潰したのだ――!!


 あの時、士郎たちの持つヒヒイロカネの長刀が虹色に淡く光ったのは、彼女の転移異能に反応していただけだったというのか――


「きっさまァッ!!!!」


 士郎は自分でも気づかないうちに、李軍に突貫していた。猛烈な速さで踏み込み、一気に距離を詰めると、そのまま持っていた長刀で奴に切りかかる。大上段からの、必殺の斬撃――!


 だが――士郎はなぜだか空振りしてそのまま向こう側に突き抜けてしまった。

 直後、憤った他のオメガたちも、次々と突っ込んでくる。


「――うおォァァァッ!!」「ハぁァァァァッ!!!」


 だが――

 彼女たちもやはり、李軍にかすりもせずに突き抜ける。


「――どうなってるッ!?」


 困惑して振り返った士郎たちは、何事もなかったかのように泰然とそこに存在する李軍とそのグロテスクな機械を見上げるしかない。


「――これは実体化していないか……あるいは別の次元に存在しているものがここに投影されているだけなのか……」


 叶が呟く。そういうことか……この空間では、あらゆる物理現象が意味をなさない。


「――おやおや……どうか落ち着いてください。彼女は別に無理強いされたわけではない。だってそれが自分の役割だと、彼女はもとより知っていたからです」

「ふざけるなッ! そんなわけないだろう!?」


 士郎は、アイシャとの最後の遣り取りを思い出す。

 何度も何度も「ごめんなさい」と謝り、怯えていた彼女。

 士郎が、彼女の生命エネルギーが心許ないことを知って、自分の『オド』を吸い取ってくれと言っても、かたくなに固辞していた彼女。

 自分だって瀕死の重傷だったにも関わらず、倒れた特戦群兵士のことを気遣って、心配げにいたわっていた彼女――


 彼女はとっくに、李軍の支配から逃れていたのだ――!


 あの大規模な中国軍の空間転移も、アイシャ自身の意思で行われたものとは到底思えない。今目の前にある彼女の頭部こそが、動かぬ証拠だ。大方あのあと地下道にいって、彼女の遺体を探し出し、運んだのだろう。そしてその首だけを切断し……

 クソっ――李軍はアイシャのことを、人間扱いすらしていなかったのだ。

 叶が口を開く。


「――それで……これはいったい何のつもりです。まさか彼女のご遺体を、転移の触媒にでも使っているつもりではないでしょうな!?」


 そんなことができるのか――!? だが、李軍は言下に否定する。


「まさか!? いくら私でも、そんなことはできませんよ。この空間を構築しているのは、彼女自身ですよ。なにせ彼女はまだ、生きていますからね」

「なにッ!?」


 だが、次の瞬間士郎は気づいた。それってまさか――


「オマエッ! まさかアイシャちゃんにあの寄生虫を……」


 未来みくが悲痛な声で叫ぶ。それを聞いた瞬間、士郎は猛烈な吐き気を催した。だが、李軍はお構いなしだ。


「えぇ、えぇ! おかげで彼女の脳の血流は未だに維持されていますよ。何せ『三屍サンシィ』が心臓の代わりに頭の中で動いていますからね」

「それによって彼女の異能発動を担保し、この異次元空間を維持しているわけか……」


 叶が冷静に応じるが、士郎にはもはや限界だった。

 すると、叶が小声で囁く。


「――中尉、冷静になりなさい。私が奴の注意を引くから、その隙にあの機械を何とか破壊するんだ。あれはおそらく何らかの生命維持装置か、あるいはアイシャちゃんと自分とを繋ぐインターフェースデバイスだ」

「……インターフェース?」

「あぁ、奴は恐らく、君たちのように自由に同期シンクロナイズが行えないんだと思う。三屍によって辛うじて維持しているアイシャちゃんの脳活動に、何らかの意思を介在させるには、あれほどの大規模な意思伝達デバイスが必要なんだ」


 そうか――それであんなにゴテゴテとチューブを繋いでいるのか……彼女の脳内の電気信号を制御するための、物理的な……


 士郎は、あらためて叶に感謝する。ただ実際のところ、叶にそう言われたからといって、同じ空間に存在していないかもしれない相手を物理的に破壊するなど、どうすればいいのか分からない。

 だが、それをどうにかするのが俺の役目だ。考えろ! 考えるんだ――!!


 早速叶が李軍の気を引き始めた。


「――なるほど……よく思いつきましたなぁ。さすがは李博士だ」

「おぉ! なんと、叶博士にそう言っていただけるとは光栄の至りです。どうです? もはやここまで来たらあなたと私は立派な研究仲間です。この際、人類の救済とともに、新たな人類の可能性について、一緒に極めていきませんか!? 私たちならきっと、結果を出すことができますよ!?」


 李軍はいつの間にか興奮していた。これがどうしようもない、科学者のさがとでもいうのだろうか!?

 だが、うちの叶先生は、貴様みたいに人でなしじゃないんだ。見くびるな――


「……まぁ、興味がないわけではありませんがね。ですが、そのためにはこの状況がペテンでないことを確かめなければならない」

「おぉ! おっしゃる通りですな! どうぞ、何なりとご質問ください……」


 二人の会話が続く。今のうちだ……何か――何か方策はないか!?


<――士郎くん……みんな……>


 その時、囁くように頭の中に呼び掛けてきたのは、未来みくだ。みんなの意識が、また濃密に絡み合う。オメガたちとのシンクロナイズは続いていた。それはつまり、全員の意識が混然一体となって、まるで一人の人間の思考のように全員に共有されているという世界だ。


<……あ、あぁ……なんだ?>

<私たちと同じように、あのアイシャちゃんとも同期できないかな……>

<どういうこと?>

<――あっ! そうか!>


 士郎は気づいた。要するに、彼女がどういうかたちで生存しているにせよ、その脳活動があるということは、今でも彼女と同期できる可能性があるということだ。なにせ士郎は一度、彼女と同期に成功しているのだ。

 それに、シンクロナイズというのは、空間や距離という物理障壁が意味を持たない。仮に今アイシャが別の次元にいようが、その存在をこちらが強く意識する限り、彼女を見つけ出すこと自体はそう難しくはなさそうだった。

 そうして意識を共有してしまえば、このふざけた空間を消滅させることだってできるかもしれない。

 あるいは、空間自体は破れないにせよ、少なくとも自分たちと同一次元に彼女たちを引きずりだすこともできるかもしれない。

 そうなれば、同じ空間である以上、李軍に物理攻撃を当てることだって不可能じゃない――


<なるほどね! やってみる価値はあるかも!?>

<うむ!>

<異論はないのです!>


 同期しているから、士郎の思考は一瞬の時間差もなく同時に彼女たちと共有される。シンクロナイズという感覚共有は、こういう時、実に便利なのだ。


<――でも逆に、あの『三屍』に全員が乗っ取られる危険性も――>


 亜紀乃の躊躇いも、瞬時に全員に共有された。

 確かにその通りだ――

 あの『三屍』は、一人の人間の意思を完全に乗っ取るほどの凄まじい精神支配力を持つ。下手したらこちらに逆流して――


<――じゃあ最初は私に任せて!>


 その時のくるみの意思も、また即座に全員に共有される。そうか……それもやってみる価値がありそうだ――


 6人のオメガと、そして士郎が輪になり、手を繋ぐ。次の瞬間――


 っツゥ――――ン……


 音が……消える――


<――アイシャ……アイシャ……? 聞こえるか……!?>


 オメガたちと士郎の共有意識が、必死でアイシャを探し始める。だが――

 そこにあるのは“虚無”だった。


 何もない、無間地獄――


 それは暗闇だった。あらゆる生物の気配が消え去った、虚空――

 突然、身体の奥底から、途轍もない恐怖心が湧き上がってくる。オメガの誰かが、そう感じているに違いなかった。その恐怖すら、今の士郎たちは共有してしまうのだ。


 だが、次の瞬間!

 突如として誰かの強い意思が虚空に割り込んできた。これは……!?


 くるみッ――!?


 そう――くるみだった。先ほどの予告通り、くるみが『三屍』の精神支配に対抗すべく、その<アムネシア>の能力を発動させたのだ。


<――みんなッ! 怯まないで!! このこそが『三屍』の精神支配なのッ!>


 そうなのか!? くるみの異能は、対象の脳内伝達物質を破壊し、その脳神経活動を阻害するものだ。ある意味、誰よりも人間の脳活動を理解しているとも言える。その彼女が期せずして『三屍』に支配された人間の脳に干渉したのだ。だとすれば、彼女の言うことに間違いはないのだろう。

 それにしても……


 『三屍』に支配された者の精神が“虚無”だなんて――


 だが、そのくるみの果敢な対応が、李軍に変化をもたらした。

 彼の気を引いていた叶が、思わず「おや」と声を上げる。


「――どうしました少佐ッ!?」

「いや……なんか急に……」


 ふと見ると、叶に向き合っていた李軍の顔が、なんだか少しおかしくなっていた。まるで脳障害を負った人のように、その表情が俄かに凍り付いたのである。


「もしかしてこれ……『三屍』の精神支配が彼に逆流してる!?」


 叶の指摘に、仕掛けた張本人のくるみが驚いた。


「――あ、そっか! もしかして、アイシャちゃんの脳をいじったことで、寄生虫が逃げ出した!?」


 そういうことか――!

 アイシャの脳内伝達が阻害されていることに気付いた『三屍』が、自己保身のために慌てて彼女の脳内から撤退――というか逃げ出したのだ。普通なら近くにいる別の人間に物理的に飛びかかって、その口からまた新しい宿主に潜り込むのだが――その様子は散々『幽世かくりよ』の戦場で目撃している――今回は例の機械を通じて李軍と繋がっていたから、そのまま触手を伸ばすように、そちらに逃げ込んだのだ。


 李軍の目が、まるで薬物中毒患者のようにトローンとしてくる――

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