第507話 エロヒム
『――私は、人類を進化の停滞から救い出すために、新たにDNAの多様性を発現させる必要があると考えました。そう――そうしなければ、もはや人類の遺伝子劣化は避けられなかったのです。その行き着く先は、絶滅だ』
遺伝子劣化――ゲノムメルトダウン。
かつてマンモスがそうであったように、僅か数千個体の小さなクラスタから繁殖することを余儀なくされた人類は、その遺伝的差異の少ない母体のせいで、今やDNAの多様性が失われ、滅びの道を辿ろうとしている――
『――それこそが、超人類……
それが……エロヒム――
「……それにしては――」
叶が口を挟む。
「――それにしては、やけに大仰な名前をつけたものだ……」
その言葉に、ほんの一瞬李軍が怯んだように思った。
『……そ……そうでしょうか? 私は実に相応しい名だと思いますがね……』
「ふむ……しかし、エロヒムとは確か、ヘブライ語で『神』を指す言葉ではなかったかね!?」
神だと――!?
だとしたら、それはやはり叶の言う通りだ。目の前に蠢くこの異形のモノたちは、到底神とは言い難い。
『あぁ! 実に博士は博学でいらっしゃる! そうです、そのとおりなのです。エロヒムは神そのもの! この先人類が何千年、何万年かけたって到達しえない段階に、既に彼らは到達しているのです。だからこそ私はこの名を付けた――いけませんか!?』
「……少佐、ヘブライ語のエロヒムって……」
「あぁ、一般的にヘブライ語で神を表す名称は、ご存知の通り“ヤハウェ”だ。だが、同時にヘブライ語聖書では、同じ『神』を表す名称として、いろいろな表現を用いている。そのひとつがこの“エロヒム”だ。ただ、神を表すこの二つの単語は、少しだけ異なる文脈で使われることが多い」
「異なる文脈……?」
「うむ。“ヤハウェ”は、主に人間のレベルにまで降りてきて、人間に語りかけたり、何かを手助けしたりする神について語る際に使われることが多い。たとえば、エデンの園を歩いてアダムとイブを探すのは“ヤハウェ”だ。これに対して“エロヒム”はもっと高次元の……そう、例えば、
『――そうなのです! まさにエロヒムとは、人類の手に届かないような至高の存在――このニュアンスの違いに気づいていただけるとは、ますます感涙の極みですな』
李軍が、まさに我が意を得たりとばかりにまくしたてた。だが、叶は決して感心して言っているのではなさそうだった。
「――だがいっぽうでエロヒムには“悪魔”とか“死者の霊”という意味も含まれていると記憶しているが……」
――!!
そうなのか……!? だとすると、この異形のモノどもは、どちらかというとそちらのイメージの方が近い気がする。
「むしろそっちのニュアンスで名付けたのだとしたら、私も特に異論はありません」
叶の、潤沢な教養に基づく皮肉が炸裂する。それは十分李軍にも伝わったようだ。彼の歯ぎしりが、スピーカを伝わってくる。
『ぐぬぬぬぬ……ま、まぁいいでしょう……ですが、彼らの能力をみれば、それがどれだけ優れたものか、叶博士にはすぐにでも分かっていただけるはずだ。たとえば彼を見てください――』
そう言うと、暗闇に蠢いている化け物どもの中から、一体の異形の生物がのっそりと立ち上がった。これも、李軍が何らかの遠隔操作をしているのか――!?
立ち上がったのは、例のスライムのような生命体だ。
といっても、それは別に餅のように100パーセントスライムのかたちをしているのではない。あくまでベースは人間の形なのだが、皮膚が水膨れのように膨張していてゲル状と化し、本来なら皮膚の下に隠れているはずの筋肉や筋がそのままスケルトンで丸見えになっているという、実におぞましい生命体だ。
先ほどから銃や刃物を一切通さず、しかも炎上させても何ともないのは、そのブヨブヨの皮膚があるせいなのだ。
『――例えば彼……これは、皮膚を変化させてあらゆる物理攻撃を無効化させた生命体です。まぁ言ってみれば、全身を衝撃吸収ジェルで包んでいるようなものです』
「……なんでこんなものを……」
『なんで? 当然ではありませんか……人間は、あまりに外部からの衝撃に弱すぎる。この地球上で、人間ほど自らの防御を放棄した存在はありませんからね……それを少し改善したまでです』
「……防御を……放棄……?」
士郎は思わず呟く。いったいどういうことだ――
『おや、中尉どの? ピンと来ていないようですね。言葉通りですよ……私たちの身体は、あまりにも脆い……進化の過程でその体毛さえ失って……今では紙切れ一枚ですらその薄い皮膚を切り裂かれ、すぐに出血してしまうではありませんか。これでは命がいくらあっても足りません』
確かにそう言われたら身も蓋もないが……
だが、それが普通ではないのか!? だって、人間とはそういうものだ。
『――皆さんは、我々人類こそが、進化の頂点だと思っていませんか!?』
――!!
李軍のその言葉は、妙に士郎の頭に響いた。
人類が……進化の頂点……!? それはそうだろう。だって、我々人類はこの地球という天体の中で最も繁栄し、最も成功した生物なのだから――
知性もズバ抜けて高いし、高度な文明も築き上げた。今やこの地球上で、人類以上に高度な生命体は存在しないのだ。
だが、李軍の考えは違ったようだ。
『――実におこがましい。それは実におこがましい、傲慢な考えです』
いったいどういうことだ――!?
士郎は、慌てて叶を見つめる。すると、叶は予想外に気落ちしているように見えた。え……少佐! 李軍を論破してくれないんですか? いつものように、自信満々で彼をやりこめてくださいよ――!?
ところが、叶の次の言葉は、予想外のものだった。
「……確かに……李先生の言葉は正しい……」
え……!?
「……人類は、決して進化の頂点ではない。それは認めよう……」
「ど……どういうことです!?」
「――我々は確かに、この地球上で唯一の知的生命体として、地球生態系の頂点に立っていると言っていい。だが、それは決して、我々という生命体が、この地球上の生命の中で一番優れていることと同義ではない……」
その時、スピーカの向こうで李軍が勝ち誇っているような気がした。
『――えぇ、その通りです。議論の前提に関して、同じ見解に立てているようで何よりです』
「少佐っ!? どういうことなんですかっ? 分かるように――」
「生物というのは、どこに軸足を置くかでその評価が変わってくるのだよ。今はたまたま、人類は現在の地球上で繁栄しているだけであって、これが別の場所にいったり別の時代になったら、まったく役に立たないかもしれない。つまり――100年後も同じように我々が繁栄しているとは限らないのだよ……」
『まさにその通りです――』
李軍が言葉を引き継いだ。
『――人類は、実に不完全な存在だ。それは、進化の系統樹を見ても明らかだ』
「進化の系統樹? だってあれは、最後の一番その先に、人類が位置しているじゃないか!?」
士郎は堪らず反論する。
進化の系統樹とは、進化論の説明でよく使われる、樹木のような図のことだ。始まりの根っこのところに微生物が描かれていて、それが徐々に植物や魚類や両生類の順に幹が太くなっていき、やがて枝分かれして爬虫類や哺乳類、鳥類みたいに細い枝が広がっていく。
もちろん哺乳類の枝もまた、更に細かく枝分かれしていてさまざまな動物が描かれ、その最終的な先端には、人間が描かれている。それはすなわち、人間が進化の最終形態であることを示していた。
だが――
『あの系統樹は、あたかも人間が進化の究極形であるかのように誤解される描き方をしているだけです。実際は、人間よりも遥かに優れた生物の方が多い。たとえば――』
李軍はここで一旦一呼吸置いた。もしも奴が目の前にいたら、士郎たちを見回していることだろう。
『――たとえば、人間は陸生動物だ。ですが、じゃあ人間は最も陸生に適していると思いますか?』
そ……それはそうだろう。今や人間は、地球上のありとあらゆる土地で暮らしている。それこそ暑い土地から寒冷地まで、低地や湿地から、酸素の薄い高山地帯にまで……
これほど多様な環境に適応した生物は、他にいないはずだ。
「……それはもちろんそう――」
『違いますよ!?』
李軍が途中で言葉を遮った。
「な……」
『違います。人間よりも陸生に適した生物は、他にいる。しかも大量に……』
「ど……どういうことだ……?」
『それはたとえばトカゲやニワトリ……つまり爬虫類や鳥類です』
は――!?
そんなわけないだろう!? だって……
『陸生に適した生物というのは、何を基準に決めるのですか?』
「何を基準にって……」
李軍は、士郎に次々と質問を浴びせかける。まるで、講義中に学生によく当てる教授のゼミに出ているような気分だ。しかも、そのたびに晒し者にされる、嫌な感じ――
『それは、どれだけ水なしで生きられるか、という尺度です』
「あ……」
確かに、言われてみればその通りだ。いくら陸上で暮らせると言っても、人間は水なしでは生きられない。そう言う意味では、完全に陸生というわけにはいかないのも事実だった。人間の集落が発展し、のちに文明が築かれていったのは、常に大河のほとりか、海沿いだ。
それは、水運があることによる農耕や流通の発達という意味以前に、そもそも人間は水分を摂取しなければ、僅か数日で死に至る、という話なのだ。
『――なぜ人間は、水なしでは生きられないか……それは、主に老廃物の排出という、極めて生物学的な問題です』
「……老廃物って……おしっことか?」
久しぶりに、
今繰り広げられている議論は、目の前の化け物が有用か否かという話だけではない。究極的には、宿敵李軍のその考えに共感できるか否か――すなわち、彼の動機を許せるか、許せないか――という話にも繋がりかねない問題なのだ。
すると叶は、オメガたちのその気持ちを察してくれたようだった。
「――いいでしょう。そこは私から端的に説明します。そう、ゆずちゃんの言う通り、人間にとって水分を取る最大の理由は、おしっこを出すためだ」
「え……えと……実を言うと私は、できればあまりおしっこをしたくないのだ。その……少々近いので……」
久遠がなぜだか唐突にカミングアウトする。その顔は真っ赤だが、理由は明らかだった。彼女は不可視化するためにしょっちゅう服を脱いで全裸で行動することが多いから、いつも身体が冷えるのだろう。
士郎は、地味に気の毒だなと思った。
「――ふむ……だけど久遠ちゃん、おしっこをしないと、人間の身体には老廃物が溜まって、やがて毒素が身体全体に回り命の危険に晒されるんだ。できればおしっこは我慢しないで出した方がいい」
「そ……そうなのか……? ど、毒素って……」
「窒素だよ……具体的にはアンモニアだ」
「アンモニア……」
「あぁ、私たち人間は有機物を食べて、それを分解してエネルギーを得る。それと同時に、その有機物が身体を作る材料にもなるんだ。まぁこれは、人間に限らず殆どすべての生物の仕組みだ」
それはそうだ。人間、飯を食わないと動けなくなる。要するに、活動するためにはエネルギーがいる、ということだ。それは人間に限らない。すべての生物の基本だ。
「――ところが、そうした有機物を体内に摂取すると、必ずその残りかす――老廃物が出る。要するに燃えカスだ。残念ながら生物は、摂取したエネルギーを100パーセント無駄なく使えないんだ。これは分かるよね?」
「……えぇ、まぁ……」
「さて、問題はここからだ――」
叶は、一同を見回した。
「――先ほども言ったが、その燃えカス……具体的には、タンパク質分解後の老廃物の大半は、毒性のあるアンモニアだ。生物は例外なく、このアンモニアを排出しなければ生きていけない」
「そのために、人間はおしっこをするわけですね……」
くるみが、少しだけはにかみながら呟いた。年若い女性には少々気恥ずかしい話だが、今は生物学の勉強みたいなものだ。
「――その通り。ただ、人間はアンモニアを直接排出しているわけではない。なぜだか分かるかい?」
「えっと……でもおしっこは大抵アンモニア臭が……」
「本当のアンモニア臭は、あんなもんじゃない……とてつもなく臭いんだよ。そして極めて毒性が強い。人間はおしっこを膀胱に溜めるように出来ているけれど、たとえ数時間とはいえ、これほど毒性の強いアンモニアを直に体内に保存しておくことは不可能なんだ。だから人間が排出するのは、本来のアンモニアを数十倍に薄めた『尿素』と呼ばれるものだ」
「尿素……」
「あぁ、そして人間の尿の成分の大半は、水だ」
「あ――だから水を飲まなきゃいけないんですね?」
「うむ――」
叶の説明は続く――
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