第24章 聖痕

第453話 執念

 チューラン・ドルゴレン・スフバートル。


 元北京親衛隊少校(日本軍の少佐にあたる)にして、『華龍ファロン』本拠地であった黒竜江省の省都ハルビン防衛の責任者だった男――

 

 その全身は重度の火傷を負った影響で、当時の面影はまったくない。特にその顔貌は酷く変形しており、顔面の半分以上を占めるケロイド状の皮膚は、彼があの激戦の後まともな治療を受けられなかったことを物語っている。

 日本軍の猛攻によりハルビンが陥落して既に8か月あまりが経過していた。だが、チューラン自身はつい最近、ようやく軍務に復帰したばかりだ。戦傷のせいでまともに身体を動かせなかったのもさることながら、何と言っても心の傷を引きずっていたのが原因だ。ここ数か月間はずっと情緒不安定が続き、現場復帰がなかなか認められなかったのだ。

 医者からは、一種の戦場恐怖症だと診断された。今風にいうとPTSDである。戦場に於いて、あまりにもショッキングな情景を見たり体験したりしてしまったせいで、心に深い傷を負ってしまったのだという。


 確かにあの時のハルビンは酷い有様だった。


 若き親衛隊少校として、当時の北京派随一の精鋭部隊を引き連れ、辺境の思い上がった軍閥風情を懲らしめたうえで、この街に新たな規律ある軍政を敷く――

 当時のチューランにとっては、自分の有能さを軍の中で示すまたとないチャンスであった。しかも、党中枢にもアピールできる絶好の機会。共産党が支配するこの“国”において、功成り名遂げるには、党の覚えめでたくなければならないのだ。

 現にあの時は、北京中央政府公安部長にして国務委員だったヂャオ文清ウェンチン先生からも、よろしく頼むと直接声を掛けられたくらいなのだ。

 チューランにとっては、今後の人生を決定づけるまさにターニングポイントだった。だから全力で、自らに与えられた任務を完遂させなければならなかったのだ。だが――


 日本軍がやってきた。


 奴らはハルビン攻略の意図を直前まで秘匿するため、わざわざ北方の黒河市に上陸作戦を仕掛けてきた。宇宙軍まで動員した、大規模陽動作戦である。

 そして我々がそちらに目を奪われている隙に、あろうことかハルビンに強襲を仕掛けてきたのだ。そう――北京派随一の武闘派と恐れられた『華龍』本拠地の、このハルビンにだ。


 幸い、直前になって半島に日本軍の別動隊を発見したことから、侵攻の兆候をつかむことができ、最低限の迎撃態勢を慌てて整えた。だが、それでも奴らは力押しでハルビンに攻め入ってきたのである。


 その後の展開は衆目の知る通りだ。

 日本軍は街に立て籠もる我が親衛隊兵力に苛烈な攻撃を仕掛けてきたばかりか、あろうことかあの張秀英と結託して、基地内部の反乱分子を煽動した挙句、張の私兵にまで成り下がった華龍の直属部隊を篭絡して一緒に我々を攻め立ててきたのだ。

 挙句、異能を持った特務兵に破滅的な大破壊カタストロフィを引き起こさせ、ついにハルビンの街は陥落したのである。

 なんという卑劣。なんという傲慢――


 お陰で自分はこの有様だ。

 突如巻き起こった大破壊のせいで親衛隊は壊滅し、自らもこうして重傷を負った。まったく、あの大混乱の中で、日本軍に発見逮捕されなかったのは不幸中の幸いだった。

 もっとも、仮に発見されたとしても、あの時の自分はほとんど死体と変わらない状態だっただろうから、そのまま放置されていたのかもしれないが――


 いずれにしてもそれから何とか北京に落ち延び、失意の中で辛うじて生き永らえたのだ。醜い怪物のようになり果てながら……そして――


 チューランは復讐の鬼と化した。


 自らのキャリアを根こそぎ奪われただけでなく、多くの兵が死に追いやられた。そしてまた、自分自身もこんな身体にされてしまったのだ。

 当然軍には、既に自分の居場所はなくなっていた。エリート街道まっしぐらだった自分が、気が付いたらゴミのように打ち捨てられていたのだ。

 それもこれも、すべて日本軍のせいだ――


 だから、突如として謎の中国軍が上海に出現し、次いで日本本土を奇襲したと聞いた時、あらゆる犠牲を厭わず戦場に馳せ参じたのだ。自分もその戦線に加わって、なんとか日本軍に一矢報いたかったからだ。


 現地に着くと、驚くべきことにその中国軍は、この世の存在ではなかった。あろうことか、この世界とは異なる時空に存在する、別の世界の中国軍だというではないか――


 こことは違う、並行世界パラレルワールド――!?

 チューランは、自分自身の理解がその事実に追いつくまで、どれほど葛藤したことだろう。だが、その異世界中国軍の総指揮官である、孔浩然コンハオラン上将との出会いが、チューランを決意させたのだ。


 孔上将は、日本軍と実際に戦ったことのあるチューランの経歴を知り、ひとつ階級を上げた「中校」(日本軍では「中佐」に相当する)として迎えようと言ってくれたのだ。そのうえ、チューラン自身の心の傷を慮り、しばらく自陣で静養するがよいとまで言ってくれた。

 なぜ彼が自分にそこまでよくしてくれたのか、今となっては分からない。もしかしたら、異なる世界で戦うために、現地の人間が欲しかっただけなのかもしれない。

 だが、それまで自分のすべてだった軍に棄てられ、自暴自棄になって単なる復讐鬼と化していたチューランにとって、孔上将の申し出は願ってもない話だった。それに――


 彼は一言で言うと、一昔前の人民解放軍将校のような雰囲気を纏っていた。誇りと威厳に満ちた、歴戦の将軍――

 チューランが久しく見たことのない、本物の戦士だった。


 この人の下なら、自分は誇りを取り戻せるかもしれない――

 そして、憎き日本軍への雪辱を、何としてでも果たすのだ――


 だからチューランは、思い切ってこの謎に満ちた異世界中国軍に身を寄せたのだ。さらに、もともとの名前ではなく「ドルゴレン」と名乗ることにした。

 心機一転、新たな気持ちで新しい主人に忠誠を誓うためだ。


 もちろんこのドルゴレンという名前も、チューランの名前であることに変わりはない。モンゴル人はもともと名前が長いのだ。だが、北京親衛隊時代は辺境民族と蔑まれることを嫌い、三つあるミドルネームを隠して軍務に就いていたというだけのことだ。


 こうして、チューラン・ドルゴレン中校が誕生した。

 心身ともに復活し、ようやく最前線の軍務に就くようになると、その身体に醜い戦傷痕を負ったいかつい将校として、彼は異世界中国軍の中でもメキメキと頭角を現すようになったのである。


 そしてもうひとつ――

 チューランがたった今決意したことがある。


 李軍リージュンを殺す――


 ハルビン守備隊長を拝命した時、現地で初めて出会ったあの男は、とんでもないゲス野郎であった。だが、今なら確信をもって言える。

 あの男は、悪魔そのものだ――


 チューランが戦線に復帰して間もない頃、幕舎の中で李軍を偶然見かけたチューランは、心の底から動揺したものだ。

 なぜアイツが異世界中国軍の中枢に入り込んでいるのだ――!?


 だが、どうせいつもの調子で、まんまと幹部将校たちを篭絡したのであろうと思い当たった。そう――『華龍』の張秀英を失脚させた時のように、あることないこと吹聴して、自らの都合のいいように取り入ったに違いないのだ。


 李軍は、目的のためには手段を選ばないサイコパスだ。


 ハルビンの時だって、ウイグル族の少女を人体改造して死地に送り込んでいたし、多数の身寄りのない子供たちに何かの遺伝子操作を施し、使い捨てのようにその命を弄んでいた。チューランは確かにそれを目の当たりにしている。

 そして今も、チューランにとって大恩のある孔上将を、自分の目の前であっさりと射殺したのだ! 顔色ひとつ変えずに――!


 チューランはその瞬間、あまりのことに激昂し、もう少しで奴を撃ち殺すところだった。だが、すんでのところで踏みとどまったのは、そうすることによって仇敵日本軍に手を下せなくなることを恐れたからである。

 その自制心たるや――!

 親衛隊の頃、目的遂行のためには自分の感情を殺さなければならないと学んだことが、今になって役に立った。しかし何より許せなかったのは――


 奴はチューランのことを毛ほども覚えていなかった――ということだ。


 あれだけ献身したのに――である。

 命を懸けて、全身全霊で日本軍と戦ったのである。その結果、自分は人生を失い、あまつさえこんなバケモノのような姿になってしまったのである。


 なのに、李軍は自分のことを覚えていなかった。そりゃあ、これだけ顔貌が変わっていれば、気付けという方が酷かもしれない。しかも自分は名前すら変えていたのだから――


 だからチューランは、念のためあの後李軍に訊いたのだ。「ハルビン防衛戦のことを覚えていますか」と――

 だが、アイツの答えはこうだった。


「――あぁ、そんなこともありましたなぁ」


 その時チューランは少しだけ期待したのだ。そのあと奴の口から、死んでいった将兵へのねぎらいの言葉とか、結局敗北してしまったことへの悔恨の言葉が零れてくるのを――

 だが。


「……どこでその話を聞いたのか知りませんが、あれは私の中で黒歴史ですから軽々に口にしないでいただきたい。不愉快です――」


 殺意が芽生えたのはその瞬間だ。

 あぁそうか……この男の中で、“ハルビン”はなかったことになっているのだ――


 だからチューランを見ても思い出せないし、となると当然、あの時の守備隊長――つまり自分のことだ――の名前など、きっと憶えてすらいないのだ。


 チューランは決意した。

 憎んでも憎み切れない日本軍を粉砕した後、絶対に李軍を殺す――


 本当は、今この瞬間にも殺してやりたかったが、それだと目的が半分しか果たせない。

 今は自制するのだ――そのうえで、最も効果的なタイミングで、コイツが絶望のあまり錯乱する中で殺してやる。それまでは隠忍自重、臥薪嘗胆だ。

 これはチューラン自身の意地でもあり、執念だった。


 だから李軍が非人道的な作戦を持ち掛けた際、それに乗っかったのだ。


 他の高級将校たちが軒並み尻込みする中で、自分は李軍の信頼を一身に受ける。そのために、深い感謝の念を抱く孔将軍の亡骸すら、足蹴にしてみせたのだ。


 これで李軍は、完全に自分を信用するだろう。所詮コイツは孔将軍のように、本物の戦士ではないのだ。戦争遂行に関しては、我々異世界中国軍に頼らざるを得ない。

 そぅ……そのためには、多少の非道は大目に見よう。犠牲になる将兵たちには悪いが、それもこれも、この復讐を見事にやってのけるためなのだ。


 そのためには、悪魔にすら命を売ろう――


  ***


 そんなチューランを、いつも間近に見ていたのがこの大男だ。

 ハルビン攻略戦以来、『華龍』および北京派の残党を追い続けてきた。その任務は、限りなく地道で忍耐を強いるものであったが、男にとってそれは何ら苦痛ではない。

 なぜならそれは、彼にとって父親ともいうべき、世界でたったひとり信頼できる主人――ヂャン秀英シゥインから託された使命だったからだ。


 その逞しい体躯と凄みのある目つきを見ただけで、恐らく彼を見たことのある者はすぐにでもピンと来るはずだ。


 ミーシャ――

 『華龍』黒竜江省軍団長だった張秀英が子飼いにしていた、秘密工作員組織『黒霧ヘイウー』のリーダー。


 あらゆる格闘術と暗殺術、武器操作に習熟し、強靭な肉体と想像を絶する苦痛に耐えられる鋼の精神力を持った男。そして北京語と広東語、朝鮮語に日本語、さらにはロシア語に英語まで堪能な、まるで生まれながらの工作員。

 だが、そんなミーシャをそこまで造り上げたのは、間違いなく張秀英だ。

 その主人から、後顧の憂いを絶つために、元『華龍』構成員や北京派の中に残っているであろう不満分子、敵対分子を探し出し、監視し、脅威になるようであれば排除せよ――との密命を受け、この数か月大陸に残って粛々とその任務を果たしてきたのだ。


 そんなミーシャの目下の監視対象が、このチューラン・スフバートルだ。いや――現在は、チューラン・ドルゴレン・スフバートルか……

 彼はいわば不満分子の筆頭格だった。ハルビン攻防戦に敗れ、すべてを喪って引退したかに見えたこの男は、数か月の雌伏の後、何を思ったのか異世界中国軍に合流したのである。


 もちろん、ミーシャは「異世界中国軍」のことをほぼすべて承知している。あらゆる情報が、秀英の新しい祖国、日本から送られてくるからだ。それはすなわち、ミーシャ自身が既に公式に日本の工作員になったことを意味していたが、彼自身は特にそのことを不思議とは思っていない。主人が祖国を変えたのなら、自分は黙ってついていくだけだし、何より日本は、あのミクさんの故郷だ。

 自分が責任を果たすことで、少しでも彼女に役立つならば、それはそれで実にやりがいがあるではないか――


 ともあれ、ミーシャはどこまでもチューランを追ってまんまと異世界中国軍に潜り込み、今はこの要注意人物――チューランの従兵として、間近でその監視任務に当たっているというわけだ。これもまた、プロの工作員としての、ある種の執念がなせるわざだった。


 だが、今回の奴の任務、どう考えてもまともとは思えない。これはいったい、どうケリをつければいいのだろう――

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