第363話 野戦病院(DAY9-14)
野戦病院における軍医は、いわば「神」だ。
次々と運び込まれる重傷患者。その多くは血塗れや黒焦げで、手や脚が吹き飛んでいたり、
それらに優先順位をつけるのが「トリアージ」という概念だ。患者の症状を瞬時に判断し、多数の要治療者に対しランクを付け、処置の優先度を選別する。
現在、ここでは野戦病院全体を仕切る叶が、治療の傍らその選別作業を行っていた。それはまさに「命の選択」だ――
日本では、特に1995年の「阪神・淡路大震災」以降、この方式が災害地医療でのスタンダードとなったから、既に馴染み深い言葉かもしれない。
地震や津波など、多くの天災が押し寄せる日本の国土では、数年に一度、どんなに間隔が空いても十数年に一度は必ず大きな災害が起こり、そのたびに数十人から、時には数万人もの犠牲者が出る。
そんな時、被災地では医療活動も必死で展開されるわけだが、特に発災直後は多数の重軽傷者が発生し、そしてそれを迎え入れる医療体制は大抵脆弱だ。
個人病院の多くは周囲と同様罹災し、地域の基幹病院ですらその体制は万全ではなくなる。医療関係者自身も被災し、病院は限られたスタッフで回さなければならなくなるからだ。
大抵の大病院では自家発電装置も備えているが、それだってせいぜい半日か、多くても数日しかもたない。水道やガスなどインフラも途絶し、平時なら当たり前に機能している様々なモノが、こうした事態になると一気に使えなくなる。
当然、治療は追いつかず、物資も途絶するから医薬品も逼迫していく。押し寄せる傷病者は後を絶たないから、次第に誰から手を付けて良いか分からなくなり、現地の医療体制は徐々に機能を喪失していく。まさに戦場における野戦病院と同じ状態に陥るわけだ。
そこで導入されたのが、この「トリアージ」という手法だ。
これはまさに軍隊が野戦病院で実践していた手法で、限られた医療資源をどのように分配していくかを明確かつ冷徹に突き詰めた、究極の医療スキームだ。
もともとこの言葉は、フランス語の「
ただ、トリアージの本来のマニュアルでは、その「選別」作業自体は、医療行為を行っている軍医が直接行うわけではない。軍医は治療に専念し、“誰を助けるか”という取捨選択を行うのはあくまで別の人間――「トリアージ・オフィサー」という役割の将校だ。
トリアージ・オフィサーは、運び込まれてきた兵士の様子を見て、こいつはまだ使える、こいつはもう駄目だ、という具合に、戦線に復帰できるかどうか、という視点で判断していくのだ。
この考え方に基づく場合、野戦病院では「手当てすれば即座に回復できる者」が優先的に治療される。
例えば、止血と縫合さえすれば半日やそこらは動き回れるという兵士のほうが、意識不明の者や手脚が吹き飛んでもはや動けない者よりも治療を優先されるわけだ。
どのみち後者は、どんなに手を尽くしたところで目の前の戦闘には復帰できない。仮に一命を取り留めたとしても、結局は後送し、最終的には内地に帰還させて療養させるしかない。つまり、兵士としてはもはや使い物にならないわけだ。
そんな兵士一人に貴重な医療資源を割くくらいなら、それにかかる手間と時間の分、軽傷者を次々に治療し、部隊全体の戦力を少しでも回復させたほうがいい、という判断が軍隊におけるトリアージだ。
もっと端的に言うと、どのみち死ぬことが分かっている兵士に、貴重な医薬品を投与するのはもったいない、という価値観だ。モルヒネや点滴、抗生物質などは、生きて戦線復帰できる可能性のある兵士に使ってこそ活きる。
いっぽう、民間――特に被災地医療で――導入されているトリアージはまったく逆の概念だ。
少々の怪我であれば後回しにされ、命に係わる重傷患者こそが最優先で治療される。
そして、普通の人間の感覚なら、こちらの概念の方が普通で、受け入れやすい。
「――先生ッ! こっちの兵隊さんのほうが大変です! なんとか診てやってくださいッ!」
ボランティアで志願した地元の若い看護婦が、叶に必死で懇願していた。もともとこの市民病院に勤めていた、正規の看護婦だ。実を言うと、かなりの数の看護婦が同じように志願して、ここで懸命に働いている。
彼女の悲鳴のような訴えを聞き、
兵士の首には、赤色のタグが付けられている。
「……すみません、赤の人は後回しなんです」
「そんなッ!? だってこの人、今にも死にそうなんです」
未来は、この時代の人たちには、まだまだ「トリアージ」という概念が理解できないのだろう、と同情的になる。特にそれが、
「じゃあこれが『赤』じゃなかったらいいんですか!?」
「……絹枝さん、ここでは国防軍の方の言うとおりに――」
「だって……」
看護婦仲間が、彼女の肩にそっと手を置いた。隣に横たわる、同じように血塗れで意識のない兵士にも、赤いカードがぶら下がっていた。絹枝は、クッと唇を噛む。
トリアージの選別には「タグ」と呼ばれる、首からぶら下げるカードが用いられる。
カードには下から「緑」「黄」「赤」「黒」の順番で帯状に色が塗られており、患者の容態によって何色にするか決められ、不要な色を切り取っては首に掛けられていく。
ここでは患者が運び込まれると、叶が一目見て「赤」とか「黒」とか即座に言うわけだ。未来をリーダーとしたナースチームは、それに従ってカードを切り取り、患者を治療ゾーンに並べるか、あるいは放置するか捌いていく。
ちなみに緑タグと黄タグは積極的に治療して、どんどん回復させるべき兵士たちだ。いっぽう赤タグは回復困難か、最高度の医療体制で治療を試みなければならない兵士。黒タグはもはや回復の見込みがないか、既に死亡と推定される兵士たちだ。
繰り返しになるが、これが一般的な被災地医療だと、同じ色でも優先度はまったく逆になる。
もちろん黒タグだけは同じだ。これは「カテゴリー0」――「無呼吸群」と呼ばれ、死亡、もしくは生命兆候が見られず、直ちに救命処置を行っても如何ともしがたい者に付けられる。
赤タグは「カテゴリーⅠ」――すなわち「最優先治療群」だ。生命に関わる重篤な状態で、一刻も早い救命処置を施すものとされている。
黄タグは「カテゴリーⅡ(待機的治療群)」、緑タグは「カテゴリーⅢ(保留群)」だ。黄色は、赤ほどではないが、いずれ治療を施さなければならない者。ただし両方とも、待てるものなら待たせておけ、という人たちだ。特に緑タグは、ほとんど外傷のない者に付けられることが多い。
戦場では、怪我を負った者だけが戦闘不能になるわけではない。中には、
もちろん、ほぼ全員が特殊部隊兵士である精強なオメガ特戦群の兵士にそんな者はいないが、問題は半分民間人の出雲守備隊義勇兵たちだった。先ほどからちょいちょい、特に怪我を負っていないはずなのに、頭を抱えて小さくなっている者が連れてこられる。
ともあれ、今問題なのは「赤タグ」の兵士たちだった。
彼らは、平時ならば優先的に治療を施され、かなりの確率で生命の危機を脱し、社会復帰までできるかもしれない連中だ。
それが今、戦争をしているせいで、みすみす助かるかもしれないのに放置されている。基本的に患者に寄り添い、全力でその命を救うことを使命としている、絹枝のような民間人ナースにとっては、そのギャップがどうしても納得できないわけだ。
未来はなんとか彼女にも理解してもらえるよう、誠意を尽くす。口に出さないまでも、他のナースだって内心疑問に思っているかもしれない。
「あ、あのっ……赤タグの人は、別に放置して死なせようとしているわけではないんです」
「でもッ!?」
「ドクターが足りないんです。叶先生はとっても優秀な人だから、治せる人を放置はしないはずです!」
「そうですよ絹枝さん! 私たち今は、できることをやりましょう! 患者さんのことは先生の判断に任せて!」
他のナースも、取り敢えず未来の肩を持つ。それなりにベテランの雰囲気を持つこの女性は、もしかしたら婦長のような役割を担っていた人かもしれない。未来はここぞとばかりに彼女を頼る。
「――そ、そうです。ではまず、先ほど運び込まれた方に点滴を打ってください。循環を確保しますッ」
先ほど叶が一目見て、「循環を確保しろ」と言った患者だ。これは、要するに生理食塩水でも何でもいいから、患者の血流にアクセスしておけ、という救急救命のファーストステップだ。とりあえずこうやっておくことで、患者が容態を急変させたとき、ただちに昇圧剤を入れたり輸血に切り替えたりすることができる。
すなわち、この人は敵の銃弾を受けて相当出血し、重傷ではあるものの、まだ自発呼吸ができ、したがって必ず助ける――と叶が判断した、ということだ。
だが、未来の目で見ると、この兵士だって相当重傷には違いない。赤タグの兵士と、見た目だけなら大して変わらないように見えた。でも、彼の首にかけるのは「黄タグ」だ。その時、未来ははたと気付く。
「――そ、そうだ絹枝さん! この人に、ずっと話しかけ続けてください! 今意識はありますが、その意識を保ち続けることが大事なんです! ナースにしかできないことですっ!」
婦長さん、と勝手に未来が思っているベテランナースも、横でこくこくと頷く。
「わ……わかりました」
絹枝はそう言うと、兵士の傍らに跪いて、その手を強く握り締めた。すると、荒い息の下で兵士が少しだけ微笑む。
「……や、やぁ……」
「あのっ! 私……看護婦の絹枝と申しますっ! いっ……痛みますか!?」
すると兵士は弱々しく笑った。
「……あぁ……だけど……君のお陰で……まだ……頑張れそうだ……」
「は! はいッ!! 私も頑張りますッ!!」
絹枝は、冷静に聞くと少し頓珍漢な言葉を兵士に投げかけていた。だが、そんなことはどうでもいいのだ。大事なのは、この混沌に満ちた野戦病院――すぐ傍に「死」が蔓延している空間で、彼がちゃんと誰かに見守られていることなのだ。絹枝が傍にいて励まし続ける限り、兵士は正気を保ち続けるだろう。
ふと未来は叶を探す。残念ながら、彼はまだ別の患者を治療中だった。普通なら医師免許を持った数名の衛生兵が彼の助手を務めているのだが、現在叶は一人で奮闘中だ。衛生兵は今頃あちこちの戦場で、無数の負傷兵の手当てをしているのだ。
寝台から、ドボドボと血液が零れ落ちる。まだまだこちらには来れそうにない。
「――じゃあ絹枝さん、彼を頼みますねっ!」
未来はそう言うと、彼女を残してさらに別の患者のところに向かった。また衛生兵が兵士をひとり、連れてきたのだ。今度の患者は、両腕を肘の先で切断されている。
「――未来さんッ! 彼を――」
衛生兵がまた未来に託して立ち去ろうとする。だが、最低でも受傷理由は聞いておきたい。治療のために必要な情報かもしれないからだ。
「ちょっと待って! この怪我はッ!?」
「――北戦線で敵兵と白兵戦闘をやった奴です。敵が大きなナイフを持っていて、両断されましたッ」
「よくそんなところから連れてこれましたね!?」
「お仲間が……
あぁ――かざりちゃんもゆずちゃんも頑張っているんだ……
未来は、自分も負けじと頑張らなきゃと、あらためて思う。
運ばれてきた兵士の腕の切断部分は、防爆スーツがこれでもかと圧迫を続けていた。お陰で切断面からは、既にほとんど出血が見られない。腕の中心部分に見える二つの白いものは、おそらく前腕の
「……どうですか?」
「……あぁ、大丈夫だ。モルヒネが打ち込まれているから、痛みはないよ」
未来の問いかけに、兵士が淡々と答える。問題は、心理的な部分だ。長年付き合ってきた自分の腕がなくなって、平気でいられる者などそうはいない。
「そういえば――」
未来は兵士に微笑んだ。
「――そういえば、肩口くらいの黒髪の女の子がいませんでしたか?」
「あぁ、来た来た! あの子、オメガなんだろ? 俺初めて見たわ。あの子に助けられちまったなぁ」
「その子、ゆずちゃんって言うんですけど、あの子も右腕が肩から吹き飛ばされたんですよ!?」
「え? そうなのかい!? 戦傷で?」
「はい、でも頑張って機械の腕を付けて、今ではすっかりベテラン兵士です」
それを聞いた兵士は、目を丸くして未来を見つめ返した。
「――そうか……あんな女の子でも、頑張ってんだな。俺も肘から先なくなったくらいで、くよくよしてらんねぇな!」
兵士は、その一言ですっかり気持ちを切り替えたようだった。同時に、その瞳に力強い光が再び灯る。
ナースとしてやれることは、まだまだたくさんありそうだった。
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