第350話 ココロの在処(DAY9-1)

 黒岩は困惑していた。

 目の前にいる亜紀乃ちゃんは、かつて生き別れた妹の綾瀬に瓜二つだった。だが、その似姿は今から20年前の妹のものだ。時系列から言っても、本人であるはずがない。それに、綾瀬は長崎の原爆で死んだはずだ。そもそも黒岩は、当時それを儚んで復員を拒んだのだ。

 そして決定的なのは、亜紀乃ちゃんは別の世界から来た存在だということだ――


 そんな彼女が、綾瀬の記憶を宿していた。


 亜紀乃ちゃん曰く、それは自分が黒岩綾瀬という人間のDNAで創られたクローンという存在だからだという。難しいことは分からないが、要するに綾瀬の細胞が、亜紀乃ちゃん本人の意思と関係なく、綾瀬の記憶をそのまま有していたというのだ。


 黒岩が逡巡したのも無理はない。


 もともと妹にそっくりということで、初めて逢った時から亜紀乃ちゃんには特別な感情を抱いていた。自分が日本という祖国を捨て、人民解放軍の犬に成り下がっていたとしても、それは肉親への深い愛情まで否定するものではないのだ。

 だがそんな時であっても、この心の奥底から湧き上がる感情を必死で抑えつけていたのは、論理的で冷静な思考だ。どんなに似ていたとしても、彼女は妹ではない――という単純な事実。

 でも――


 妹の――綾瀬の記憶まで有しているとなると、その冷静な思考は途端に吹き飛んでしまうのだ。


「――黒岩さん……黒岩さん?」


 亜紀乃が傍らで呼びかけていた。


「……あ、あぁ……」

「すみませんなのです。突然“お兄ちゃん”なんて呼んでしまって……」


 亜紀乃が上目遣いで黒岩を覗き込む。表情は相変わらず乏しいが、その感情を表に出さないのがまた、生前の綾瀬にそっくりなのだ。


「……い、いや……いいんだ……」


 黒岩は、辛うじて言葉を発する。正直に言うと、先ほどの「お兄ちゃん」発言の破壊力は抜群だった。あの一言で、ここまで動揺するとは――だが、自分はたった今“中国の工作員だ”と自ら白状したばっかりなのだ……


「……俺は……工作員で――」

「黒岩さん、人間の感情はどこに宿ると思いますか!?」


 黒岩の言葉を制するかのように、亜紀乃が言葉を被せてきた。


「――え? 感情……!?」

「そうです。です」

「……そ、それは……」


 無意識に、黒岩は自分の胸に手を当てる。


「……ふふ、やっぱり黒岩さんは日本人ですね」

「え? 何が……」

「日本人はみな、ココロはこの辺りに宿ると思っています。自分の気持ちに正直になれ、と言われると、皆さん胸に手を当てるんです」


 そう言って亜紀乃は、自分の薄い胸に手を当ててみせた。


「……た、確かに……」

「――でも、人間の思考とは、生物学的には脳で行われているはずです。だったら、ヒトの意識――ココロも、普通なら脳……頭にあると考えるのが普通ではないですか……!?」


 そう言われてみればその通りだった。

 間違いなく、人間の思考というのはすべて「脳」という器官で行われているものだ。だったら、その意識――自我とか、怒り、憎しみ、喜び、悲しみ……すべての感情の発露はすべて脳、すなわち「頭」に由来するはずだ。

 じゃあなぜ俺は「胸」に手を当てるのだ!? やっぱりどこかで、日本人であることを捨てきれていないのか……


「今、黒岩さんは胸が痛いですか? それとも頭が痛いですか?」

「……え、なぜ……?」

「私には、黒岩さんのココロが泣いているように見えるのです……」


 確かにそうだ――

 今、自分はもともとの祖国日本と、新しく忠誠を誓った中国という二つの国の狭間で、自分の存在意義に揺れている。

 中国に仕えているのは、祖国日本に裏切られたからだ。太平洋戦争中、必死になって命を捧げた日本が、後になって自分の存在を全否定したからだ。だが、その日本に妹の綾瀬が生きているのだとすれば、話は変わってくる。

 どんなにクソみたいな仕打ちを受けたとしても、そこに愛する家族がいる限り、日本はやっぱり自分が還るべき場所なのだ。

 黒岩のココロが泣きそうなのは、今になってそんな葛藤が生まれてしまったからだ。


 単なる他人の空似であると分かっていても、それでも情が移った亜紀乃を戦闘に巻き込みたくないと思ってしまった自分――

 だがそれだけなら、工作員たる割り切り方で、危険地帯から脱出するだけでいい。それは、彼女の所属する部隊に破壊工作を仕掛けたことへの罪悪感か――罪滅ぼしか――

 どちらにせよ、それは単なる偽善で――自己満足だ。

 そんなことは分かっている。そうしたからと言って、亜紀乃から感謝されるとも思えない。ただ、妹にそっくりの彼女が、目の前で命を落とすのを自分が見たくなかっただけなのだ。


 まったく……それが嫌ならそもそも破壊工作などしなければいいのだ。

 それでも、自分の工作員という役割を果たさなければいけない――そう思ってしまったのは、それこそが自分の存在理由レーゾンデートルだからだ。自分という人間を認めてくれた、中国という国に対する忠誠心の表し方なのだ。


 だが、いま目の前にいる亜紀乃は、妹そのものだった――

 確かにここにいる彼女は、自分の母の腹を痛めた本当の妹ではない。生物としての誕生は、まったく違うかたちだったのだろう。時系列だってズレている。だけど……


 人間は、何をもって――!?


 それは、産まれ出たカタチだろうか?

 それとも、その人のオリジナルの肉体が必須なのだろうか?

 あるいは、その人の記憶――意識が残っていれば、その肉体は必ずしも同じでなくていいのだろうか――!?


 その人が「その人である条件」とは何だ――!?


 あぁ……胸が痛い――

 そう――確かに彼女の言う通り、今俺の胸は焼け付くようだ。頭が痛いのではない。ココロが痛いのだ――


「――ココロ……胸が……痛い……」

「……そうですか……安心しました」


 そう言って亜紀乃は微笑んだ。


「……ならば黒岩さんは今、理屈ではなく、非論理的なココロの部分で悩んでいるのです。それは損得勘定ではないし、もしかしたら自分に不利益が及ぶことかもしれない……でも、それをどうしても無視できなくて、苦しんでいる……」

「……そう……なのかもしれない……」

「では、ここはひとつ、ココロの赴くままに動いてみてはいかがでしょうか!?」

「ココロの……赴くまま……?」

「そうです。そういった矛盾に満ちた行動ができることこそ、人間である証です。そして今でも、黒岩さんのココロは妹の綾瀬さんに執着している。私を助けようとしたのは、その執着が生んだ矛盾ある行動なのでは?」

「……矛盾ある……行動……」

「ええ、論理的に考えて、私はあなたの妹の綾瀬さんではないのです。ですが、私の肉体そのものは間違いなく綾瀬さんと同一です。さらに、そこに密かに息づいていた綾瀬さんの記憶さえ漏れ出てきてしまった……今あなたは、私が綾瀬さん本人なのかもしれないと思い始めている……」

「……う……うぅ……」

「――そして、自分の妹かもしれない私がここにいることで、あなたの新しい祖国への忠誠心が揺らぎ始めた……違いますか!?」


 否定はできなかった――

 彼女の言うとおりだ。妹がいるなら、話は別だ。

 だが、その前提こそが、非論理的なのだ。理屈で考えれば、亜紀乃ちゃんはただ単に『容れ物』が妹なだけで、まったくの別人だ。しかし――


「あなたは先ほど胸が痛いと言いました。ココロが痛いと……頭ではなく、心臓の位置が痛いと言いました。そこには何の臓器があるのです? 心臓ですか? 肺ですか?」

「……いや……胸が痛いというのはそういう意味ではなく――」

「そう、日本人の言う『胸が痛い』というのは、特定の臓器、器官を指している言葉ではないのです。胸の辺りになんとなくある、モヤっとした塊――ぞわぞわする感情……チクチクと痛む感覚……」

「――息が詰まるような苦しさ……」

「――そうです。それこそが、あなたが今感じている気持ち……ココロです。それを人は自我エゴといいます。あなたの本心のことです」


 そうか――

 彼女を助けたいというのは、自分のエゴに過ぎないと思っていたが、そのエゴこそが――自分そのもの……自分を自分たらしめている自我……俺の、本当の気持ち……


「――数日前、私はあなたに訊きました。なぜ、私を助けてくれるのか!?」

「あぁ、君が妹にそっくりだったからだ……」

「でも、それでもあなたは中国の工作員としての活動を止めなかった……自分の存在価値を論理的に計算していたからです。でも今や、私が単なる他人の空似ではなく、生物学的にもあなたの妹さんと同じ細胞を有していることを知ってしまった」

「…………」

「――そして今……迷っていますね? 私が綾瀬さんそのもの、むしろ……本人なのではないかと……」

「……そのとおりだ……」

「では、もし科学的な検証の結果、やはり本人ではないと証明されたら、あなたはその迷いを断ち切れますか!? 今まで通り、中国の工作員として日本人に打撃を与えることができますか!?」

「――それは……」

「確かにきっかけは、私が妹さんによく似ている――ということだったかもしれません。そして、下手したら妹さん本人かもしれないというところまであなたの困惑は膨らみ、自分がこれからどうすべきか迷い、立ちすくんでいる……でも、ここまで来たらもはや、そんなことはどうでもいいのでは……!?」

「…………」

「――どうか、胸に手を当てて考えてみてください。理屈ではなく、あなた自身は今、どうしたいのか――」


 黒岩は、まっすぐ亜紀乃を見つめた。その目は必死で何かを訴えていた。沈黙の中に、千の言葉が詰まっているようだった。だが、大きく膨らみかけたその思いは突然、ふっ――と消え失せる。


「……でも、俺は既に破壊工作を――」

「それを知っているのは、今のところ私だけなのです」

「え――!?」

「――どこに、何を、どんなふうに仕掛けたのです? 今からそれを、解除しに行きましょう。あるいは、部隊に注意喚起しましょう」

「で……でももう、間に合わ――」

「間に合いますよ? 私たちは強いですから、そんな小手先の小細工ごときでは、ビクともしないのです」

「……そ、そうなのかい……!?」

「えぇ、ただ、確かに兵器に不具合が起こるのはいただけません。それ自体は大した故障じゃなくても、それがきっかけで目の前の敵に後れを取る可能性がある。さぁ――あなたのココロの鍵を外す時が、ようやく来たのです。今の自分の感情の赴くまま、やるべきことをやるのです!」


 そう言うと亜紀乃は、乗ってきたサイドカーの方に黒岩を促した。

 気が付くと、周辺の敵は既にいなくなっていた。士郎の言っていたとおりだった。亜紀乃たちが攻撃してこないのを察すると、途端に小屋をスルーして、市街地の方へ侵攻していったらしい。

 ま、それはそれで問題だったのだが――


  ***


 美玲メイリンは、またもや自分が石動いするぎ中尉の役に立てることに興奮していた。彼に寄り添うのはこれで三度目だ。


 一度目は、士郎率いる第一戦闘団の一員として、多脚戦車部隊を率いた時のことだ。もっともその時は、途中で士郎に置いてけぼりを喰らい、必死こいて後を追いかけたわけだが。

 結果的に、ハルビンの決戦には間に合った。あの時は、クリーちゃんとかいう敵のオメガを我が電磁加速砲レールガンで見事に貫くことができた。


 二度目は、コイツら異世界中国軍が日本本土に奇襲上陸し、突然全土を蹂躙し始めた時だ。その当時日本から遥か西方、東トルキスタンの楼蘭駐屯地に駐留していた美玲は、血相変えて本土に戻り、見事九州逆上陸作戦に参加することができた。高千穂峡への強襲空挺作戦で、敵の荷電粒子砲を相手に大立ち回りを演じたのだ。


 そして今回が三度目の正直だ。

 ついに次元を超えて中尉を追いかけて来てしまった。まったく、我ながら一途にも程がある。元はと言えば、たかが士官学校の先輩後輩という仲である。学生野外演習で重傷を負った美玲を、必死で捜索救助してくれた彼のことを「白馬の王子様」と勝手に思い込んで恋に落ちた私もチョロいが、中尉にだってその責任の一端はあるのだ。

 だってあの人は、いつだって「お前が必要だ」「お前のお陰で助かった」と言ってくれる。戦車に乗ることしか能のない私を、その一番得意なことで褒めてくれるのだ。最初のうちこそ、国籍の違いもあって少しだけ気後れしていたが、もはや国籍どころか「次元」さえ飛び越えて押しかけて来てしまっているのだ。怖いものなど、もうなにもない。


「――で!? 美玲は今度こそ中尉に告白するわけ?」


 機関員の品妍ピンイェンが車長席の美玲を見上げる。


「も、もちろんだ! このままでは、小娘どもにいつ分捕られるかわかんねぇからな!」

「小娘って、あのオメガちゃんたち?」


 砲手の詠晴ヨンチンが胡散臭そうに振り向く。


「――なんだヨその目は!?」

「だぁって、美玲ってばいっつも口だけ番長じゃん!」

「今回は違う! 中尉の期待に応えて、見事この出雲の街を守り切ったら、今度こそ本気で告白する!」

「あー……」

「やべー……」

「――な、なんだヨ!? バカにすんのか!?」


 美玲の言葉に、二人が嘆息する。


「――ねぇ美玲……それ、完っ全にフラグだから」

「ひぇ、私まだ死にたくないんですけど!?」

「さっきから何言ってんだテメェら?」

「……分かってないならいい。な?」

「うん、分かってないなら……」


 まぁ、ジンクスって言うのは、自覚がなければ効力も発揮しないと言われているしな――二人の親友は、狭い車内でお互いの顔を見合わせて、それからそれぞれの持ち場で居ずまいを正した。


「じゃ、行きますか!?」


 品妍が、狭い操縦席で四肢のパワー・バイ・ワイヤをクイクイと操作した、その瞬間だった。


 彼女たちの駆る131号車は突然轟音と共に大爆発を起こし、オレンジ色の大火球に包まれた――

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