第296話 アクティベーション(DAY5-14)

「――そ……そんなことが……あるんですか!?」


 士郎は、信じられないという顔で、叶を見つめ返した。


 先ほどついに士郎たちと同じ世界に渡ることを決意した並行世界のかざり――の意識を宿した少女――

 彼女の肉体を支配しているのはもはやオリジナルのこの少女の意識ではなく、元の世界で昏睡している本来の月見里やまなしかざりその人の意識である。

 その彼女が、数々のリスクを承知のうえで士郎たちの世界へ渡ることを決意したその瞬間。

 少女の身体は青白く光り出し――

 そして、もともと士郎たちが知っている月見里文のDNA変異特性を獲得するに至った。つい先刻の戦闘時までは、彼女の肉体は普通の人間と変わらないと言っていたばかりなのに……


「――あるかどうかと問われてもな……現実に、目の前にそうなった人間がいるわけだ……」


 叶は、飄々とした顔つきで士郎に応じる。

 確かにその通りだった。実際彼女は目の前で空高く跳躍してみせたし、拳銃弾をまるでパチンコ玉のように撥ね返した。それは、オリジナル文――オメガたる月見里文その人の異能に間違いないのである。

 叶は続ける。


「中尉――科学というのは、目の前で起こったことをまず事実として受け止めることが肝要だ。その理由……あるいは原因は、その後ゆっくり探ればいい……」

「……そ……それはそうなのでしょうが……しかし……実際そんなことがあり得るのでしょうか!? それまで普通の人間でしかなかった彼女の肉体が……急にオメガ化するなど――」


 すると、叶は少しだけ思案したような顔をした後、慎重に言葉を選ぶように口を開く。


「――幻肢痛……というのを聞いたことがあるかね……?」

「え? ええ……もちろんです。自分のような機械化兵士には、必ず乗り越えなければならないものとされていますので……」


 士郎はそう言って、自分の機械化腕手をキュイキュイと動かして見せた。


 幻肢痛――

 手や脚を切断した者が、実際にはそこに既に肉体は存在しないにも関わらず、さまざまな痛みを感じてしまう脳機能の異常のことを指す。

 その痛みは想像を絶し、電気を流した万力で締め付けられたようだとも、鋭い刃物で切り刻まれているようだとも言われる。

 通常肉体の痛みに対しては、麻酔や痛み止めを処方するわけだが、この場合はその痛みの発生源が既に物理的に存在しないため、投薬治療は不可能であり、したがって患者は絶望的な痛みに延々と苦しめられるのだ。

 四肢の切断など重篤な身体破損をより多く経験する兵士たちの間では特によく知られた症状であり、この分野の治療について軍はかなり進んだ医療経験を持つ。


 それによると、この幻肢痛の主な発症機序は、大脳などの脊髄よりも上位の中枢神経系レベルでの機能再構築によるものとされている。


 人間の脳には、本来その身体部位に応じた領域が存在する。それは、大脳に広く分布しており、たとえば『手』の領域とか『口唇』の領域、『目』の領域、『脚』の領域など、細かく分かれているのだ。これを『体部位再現地図』と呼び、それぞれ該当の身体部位とこの“脳マップ”は完全にペアとなって対応している。今やそのマップは完全に解明されており、脳神経医療分野の専門家なら誰でも承知している基本的な知識のひとつである。

 当然、外傷などを負ってその脳の一部に欠損が生じると、対応する身体部位には深刻な影響が出る。『言語』を司る脳部位に損傷を受ければ言葉を話せなくなるし、『視覚』を司る部位が欠損すれば失明してしまう。

 それとは逆に、たとえば脚を切断してしまうと、脳マップで『脚』に対応していた脳部位は、それまで司っていた脚そのものが存在しなくなることで、その神経感覚の行き場を失くしてしまう。

 そうなると何が起こるのか――


 最初の段階では、『脚』を担当していた脳領域が縮小し、代わりに隣接する別の部位の領域が肥大する。これが最初の機能再構築だ。

 幻肢痛が起き始めるのは主にこの時だ。『脚』を担当していた脳領域では、神経細胞の興奮性が高まり、分かりやすく言うと。行き場を失った一次運動野が、いわば緊急事態発生を告げているわけだ。

 この時、適切に神経パルスを脳に認識させると、脚は再びその担当脳領域でを果たす。そう――これが機械化神経の再接続だ。

 士郎たちのような機械化兵士は、この段階で幻肢痛を克服し、さらにはその装着した機械を本来の生体器官と同様のものとして自分の脳に認証アクティベーションさせるのだ。


 この機械化四肢のアクティベーションが完了すると、欠損により一旦縮小していた該当脳領域は再び肥大し、元の大きさにまで回復する。それと同時に相対的に肥大していた隣接領域は再び縮小し、異常な感覚肥大は収まっていく。これが二番目の機能再構築だ。

 ここまで来れば、あの不快な幻肢痛は既に殆ど治まっているわけだ。

 ただ、こうやって説明すると簡単そうに見えるが、実際はそんなにシンプルではない。やはり人間の脳というのは非常に繊細であり、いったん自分の身体の一部として脳が認識したはずの機械化パーツの、僅かな違和感を乗り越えられずに再び幻肢痛が始まったり、中枢神経がそれを異物と認識してしまって随意神経下で制御できなくなったりする場合もある。

 そうなったら機械化兵士としては失敗――つまり、トランスヒューマンソルジャーとしては使い物にならないわけだ。

 士郎も、そして同様にその右腕を機械化に置き換えている西野ゆずりはも、この辛く苦しい幻肢痛との戦いを克服して今に至っている。


「――わたしも! それよく知ってるよ! でも士郎きゅんがいつも励ましてくれたから乗り越えたんだー」


 楪がそう言って士郎の右腕に抱きついてきた。本物と見まごうばかりの人工皮膚を通して、彼女の僅かな接触感覚が、彼の右腕を担当する脳領域に電気刺激を送る。優しく程よく士郎の腕を掴む彼女の機械化された右掌の動きを制御しているのは、彼女の右腕掌を司る脳領域からの運動野刺激だ。


石動いするぎ中尉……そしてゆずちゃん……君たちが見事に幻肢痛を克服したことについては、本当に頭が下がる思いだ。それであらためて聞きたいんだが、当時どうやってその苦難を乗り越えたんだい?」


 叶の唐突な、そして今さらの質問に、少しだけ二人は困惑する。


「――どうやってって……それはもちろん! 愛の力だよー! ねぇ!?」


 楪は迷うことなく大胆なことを口にすると、士郎を振り返った。


「……あ、はぁ……やはりそれは……兵士としての責任感からでしょうか」


 士郎は戸惑いながらもなるべく正確に答えようと努める。すぐ隣で楪が「えーもうっ」と何やら不満げだったが、今は関わらないようにスルーしておく。

 実際、当時の士郎は執念の塊だった。未来みくが大陸に拉致されたままで戦傷を理由に退役するなど、あり得ない選択肢だったのである。石に噛り付いてでも兵士として戦線復帰を果たし、必ずやこの手で彼女を奪還してみせる。そのためには、どんなに苦しいリハビリが待っていようとも、絶対にそれを乗り越える覚悟だったのだ。


「――なるほど。つまり、ゆずちゃんにしろ中尉にしろ、意思の力で身体の変化を克服したわけだ」


 叶は、意外なほど神妙な顔つきで二人の返事に応じてみせる。


「ま、まぁ……そういうことになりますかね……?」

「そーだよっ! 愛の力は偉大だねっ」


 どうも……楪が言うと軽薄に聞こえてしまうのは気のせいだろうか……と士郎が内心思った瞬間、あっ……と叶の言いたかったことに気付く。


「――えと……それはもしかして……かざりの意識が……」

「まぁ、そういうことなんじゃないかと私は思うね……」


 士郎の言葉に、当を得たとばかりに叶が微笑んで見せた。


「え!? 何? どういうこと!?」


 ちなみに楪は未だに分かっていない。

 叶が続ける。


「――つまりだね、人間の身体というのは、相当程度“意思の力”で制御できるものなんだ。特に、もともとその機能を持っていた領域については、既に脳がその時の感覚を完璧に記憶しているから、仮に物理的な肉体にその機能が存在しなくなっていても、あらためてその能力を獲得するよう、神経細胞が再構築される可能性が高い」

「それって、心頭滅却すれば火もまた涼し――という奴ですか?」


 久遠が話に加わってくる。日頃から武道を嗜む彼女にすれば、こういった精神論は極めて馴染み深いものだ。


「――うーん、まぁ……近からず、遠からずといったところかな……意思の力はイコール精神論というわけではないから……」

「その通りです。特に軍人は、精神論を語り始めるとロクなことにならない……」


 叶の見解に、慌てて士郎が同意する。

 このことは、特に士官学校では厳しく戒められている。かつて太平洋戦争の折、硬直した軍人精神が多くの兵士たちを死地に追いやったことを、現代の国防軍では謙虚に反省し、二度と同様の愚かな作戦立案を行わないよう繰り返し繰り返し若き士官候補生たちに教え込んでいるのだ。

 そんな教育を受けたことのないくるみが、純粋に質問する。


「それって何の話なんですか?」

「あぁ……くるみたちは知らないかもしれないが……そうだな、ちょうどいい機会だから皆も聞いておいてくれ」


 そう言うと士郎は、オメガたちを見回した。


「太平洋戦争全体の日本人の犠牲者数がいったいどれくらいだったか知っているか?」

「――えと……確か300万人くらいだったと……」


 くるみがすかさず答える。正確には約310万人だ。これは、厚生労働省発表の数字で、一応「公式記録」とされている。当時の日本の人口は約7,140万人だから、全人口のおよそ4.4パーセントが犠牲になったことになる。

 ちなみに同じ枢軸国として第二次大戦を戦ったドイツの犠牲者数は約900万人。人口比は約10.5パーセント。諸説あるが一般的に最も多く犠牲者を出したとされるソ連(現在はロシア)のそれは、約2,800万人、14.2パーセントだ。

 そして第二次大戦全体の戦争犠牲者数は、全世界で約8,500万人と推計されている。


「――ちなみに、日本人犠牲者数のうち、軍人の戦死者数を知っている者はいるか?」

「確か212万人だったと思います」


 これもスラスラと答えたのはくるみだ。


「いいだろう。だがな、次が問題だ。一応公式発表ではこれら軍人はすべてとされているが、事実はまったく違う」

「ど……どういうことなの?」


 未来が訝しむように訊ねる。


「うむ……みんなのイメージだと、『戦死』といえば、敵の銃砲火に斃れたという印象があるだろ?」

「まぁ……そうですね。実際は他にもいろいろな死因があるのでしょうが、一般的には命を落とした、という理解で良いと思います」

「ところが、それはまったくの嘘だ。本当に敵の銃砲火によって倒れた日本兵は、この半分もいなかったというのが真相だ」

「え? どういうことなの?」


 士郎の話を横で黙って聞いていた叶が、肩をすくめる。


「――餓死だよ」


 ――――!!


 そのあまりの言葉に、オメガたちは声も出せない。

 士郎が続ける。


「……当時日本軍は、兵站――すなわちロジスティックスを信じられないくらい軽視していたんだ。本来であれば、人が動けば当然食糧や生活用品が人数分消費されるだろう? ましてや軍ともなれば、弾薬やその他のさまざまな装備品、補給品が必要だ……」

「――そんなの当たり前です。人間はロボットじゃないんですから」

「その当たり前が通じなかったのが旧軍なんだ。当時の作戦要綱からは、見事なほど兵站という概念が欠落している」

「じゃあ――」

「あぁ、想像通りだ。兵士たちは生きていくために最低限必要な食糧も生活必需品もロクに与えられないまま、最前線に次々投入され、そして野垂れ死んでいった……」

「……そんな……」

「――昔から“腹が減ってはいくさが出来ぬ”と言ったものだが、その点は数百年前の戦国武将にも劣る愚かな精神論が旧軍では幅を利かせていて、何事も気合いで何とかなる、という恐るべき思考停止が蔓延していたわけだ」

「あー、だから今はめっちゃその辺が充実しているのかぁ」


 楪の指摘の通りだった。今の国防軍は、世界的にもかなり高い水準で兵站を充実させている。大規模作戦ともなれば、最前線にも野外入浴キットを持参するし、戦闘糧食は基本すべて温めて食べられるように出来ている。その他上げれば枚挙にいとまがない。


「そうだな……だから、っていう言葉は、今の国防軍では忌み嫌うべき単語としてのニュアンスのほうが強い」

「なるほど……だからさっき心頭滅却すれば――っていう話が出た時に、少佐が言い淀んだわけですか……」

「まぁ、そういうことだな。軍はこの世の中で最もリアリストである必要があり、そして合理主義者でなければならない。精神論というのはある意味夢ばかり見ているお花畑脳と紙一重だ」


 一同が納得したところで、叶はあらためて話を元に戻す。


「――じゃあ、脱線はここまでだ。さっきのかざりちゃんがオメガ化した話の続き、まだ聞きたいかい?」

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