第290話 撃たない理由(DAY5-8)
西野
楪のそれは、対象の細胞組織、とりわけエピジェネティックパーツにDNAメチル化を働きかけると同時に、細胞増殖を抑制させるブレーキ遺伝子を欠失させることで異常な細胞分裂を促し、対象の体組織を爆発的に増殖させ、いわば人間爆弾のように破裂させてしまう。
彼女のコードネームが<
いっぽうくるみのそれは、対象の
人間の脳は、食欲・眠欲・性欲といった本能を司る大脳の上に、「新皮質」といういわば理性を司る部位を大きく発達させている。くるみのそれは、そういった人間らしい理性的な脳の働きを完全に破壊してしまうから、彼女の異能攻撃を受けた者は、ただ本能のままに生きる
くるみには<
だが、少なくともこの二人の異能は、一対一ではなく、一対多数という非対称攻撃が可能であった。だから、先ほどから彼女たちを迎え撃つために次から次へと敵兵が押し寄せてきてはいるものの、結果は常に、無数の破裂した遺体の山と、アタマがおかしくなって発狂した幽鬼のような廃人があちこちを彷徨うという、地獄の光景が拡大再生産されていくだけなのである。
「……私……なんだか気持ち悪いわ……」
くるみが青白い顔で呟いた。
「……私も……もうカンベン、って感じ……」
楪も同じようなことを言う。
それがどれだけ不自然な発言だったのか――
もしもこの場にオメガ研究班長の叶がいたら、大騒ぎになっていた筈だ。
なにせ、人間を殺戮することにかけては彼女たちオメガは完璧にプロフェッショナルなのである。ここにいる楪やくるみにせよ、他の久遠や亜紀乃、
それは、最近叶が明らかにした通り、人類進化の過程において彼女たちオメガがいわば「安全装置」という役割を担っており、間違った進化をしてしまった人類をリセットするための、いわば強制消去機能を持った存在であるからだ。
つまり、彼女たちオメガが人間を殺害するのは、ライオンが生きていくために獲物を狩るのと同じように、そして我々人間が腹が減って食事をするのと同じように、言ってしまえばごく当たり前のことなのだ。
当たり前のことだから、そのことにいちいち罪悪感を覚えないのは当然だ。
今までだって、酸鼻を極める修羅場を自ら何度も作ってきた彼女たちは、人を殺すという行為に嫌気を見せたり、ましてや動揺したりすることなどあり得なかったのだ。
だからこそ、今の二人の発言がどれだけ異常なことか、オメガという存在を知る者からしたら、驚天動地の発言だったのである。
だが――
二人はたまたまなのか、意図的なのかは分からないが、鉄帽を脱いだタイミングで、この会話を交わしていた。
そのせいで、後に重大な事実に気付くのが遅れることになるとは、今はまだ誰も知らない――
『――くるみ、ゆず、状況知らせ』
士郎から無線が入る。
「――こっちはほぼ制圧したよ? でもまだ戦車に手をつけてない」
楪の言うとおり、先ほどから攻撃を仕掛けてくるのは歩兵ばかりであった。工場の外周にぐるりと配置されている多数の戦車は、なぜか動く気配をまったく見せない。
『あぁ! それはこっちでも確認してる! 敵戦車――なんで動かないんだろうな!?』
さっきから、それが最大の疑問なのだ。考えてみれば、敵は高千穂町の戦闘でも、戦車を最後まで温存していた。ようやく出てきたのは、
なぜ、歩兵に対して圧倒的アドバンテージを持つ戦車が動かないのだ――!?
あるいはそれが、こっちの世界の戦闘ルールなのだろうか!?
歩兵に対しては歩兵でしか対抗しない、戦車は、戦車が出てきた時に初めて使う――とか?
だが、そんな牧歌的な戦闘ルールが、果たして本当に存在するのだろうか。
こちらの世界の戦車には、あの恐るべき
もっとも、かざりがカートリッジに組み込まれている子供たちの意識を無効化したことで、あの生体電池そのものが既に使えなくなっている可能性は極めて高い。主兵装である荷電粒子砲が使えなくなったことで、戦車が沈黙している可能性もなくはなかった。
だがそれでも、士郎が戦車隊の指揮官だったら、車載の機関砲だけでも使って敵を迎撃するはずだ。いったいどういうことなのだ――
『くるみ、ゆず! ちょっと危険だが、敵戦車を挑発することは可能か?』
『えっ? 挑発って!?』
『――つまり、奴らを怒らせて、こっちに攻撃を仕向けるように煽るんだ――敵の意図を知りたい』
『あー、なるほど』
確かに、くるみたちからしても敵戦車の沈黙は不気味だった。
先ほどから敵戦車の視界の中で、彼女たちは敵兵を次々に血祭りに上げていたのだ。普通だったら、友軍兵士があんな風に目の前でやられていたら、アタマに来て加勢するだろう。それでもピクリとも動かないとは、いったいどんな理由があるのか――確かにその真意は測りかねる。
『――じゃあ士郎さん、ご支援お願いしますね!』
『了解だ、十分注意して事に当たってくれ』
くるみと楪は、意を決して一番手近にいた一輌の戦車の前に、ゆっくりと徒歩で歩み出る。
だが、さすがに車載機関銃のド真ん前に立つのは怖い。いきなり撃ってこられたら、いくら防爆スーツを着ているからといっても、相当のダメージは免れないからだ。だから少しだけ射線からずれるかたちで慎重に立った。
2人と敵戦車の距離は、ほんの15メートルほどだ。万が一攻撃されても、ギリギリで躱せる距離。あらためてこうやって生身で戦車の前に身体を晒すと、得も言われぬ恐怖心がじわじわと押し寄せてくる。
ゴクリ――と唾を呑み込んだのは楪だ。
だが、戦車はやはりピクリとも動かなかった。
「……ねぇくるみちゃん」
「はい?」
「まさか中の人たち、寝てるわけじゃないよね!?」
「……た、たぶん……さすがにそれはないでしょ?」
「だったら、少し挑発してみよっか」
「え、えぇ……」
そう言うと楪は、その右腕の
だが、思い直したようにもう一度スッとその腕を下げると、背中に背負っていた突撃銃をおもむろにガチャリと取り出した。やはり楪は、無差別に人を殺傷することに、今までとは違って抵抗感を覚えているようだ。
「――ゆずちゃん……」
「うん、ちょっと……ね……」
そう言うと、楪はライフルを構え、敵戦車の前部装甲に向けおもむろに発砲した。
カカカカッ――!
カカカカカッ――!!
当然、7.62ミリ如きではさすがに戦車装甲は貫けない。銃弾は軽やかな音を立て、装甲に弾かれる。
だが、戦車の側からしたら、この挑発は普通に鬱陶しいはずだ。本来なら一連射で斃せる歩兵が、ほとんど無防備で自分たちの前に立ちはだかり、まるで遊んでいるかのようにライフルを撃ってくるのだ。
どうだ――!? 反撃してこないのか――!?
だが――
相変わらず敵戦車はピクリとも動かなかった。
「――ねぇ……くるみちゃぁん!?」
楪が、拗ねたような声を出す。ちなみに、士郎にはこの喋り方がいつも効果的だ。
「――ガン無視……ですね……」
「えー、なんかムカつく」
「この際、中の戦車兵に直接聞いてみましょうか?」
「えぇ? なんで攻撃しないんですか? って!?」
――そんなの無理だよー、と楪が言い返す前に、くるみがてくてくと戦車に向けて歩いて行った。
「あっ! ちょっとくるみちゃん!?」
くるみは、楪の制止を気にすることなく平然と敵戦車の装甲の上によじ登る。そんな彼女を、楪は呆気に取られて見つめるだけだ。
「――よいしょっ……と」
さて、どうするつもりなのだろう。普通、戦車には砲塔の天蓋部分にハッチがあって、車長や砲手など砲塔内部に配置されている人間はそこから出入りしている。そのほか戦車の操縦を受け持つ機関員は、前方装甲のスリット部分がそのままハッチになっているから、そこから出入りする。隣にいる機関銃手のところにも、似たようなハッチがある。
つまり、この敵戦車には最低でも3つのハッチがあるわけだ。
くるみは、そのハッチをしばし見比べると、よしっと小さな声を上げて、砲塔部分のメインハッチに手を掛けた。もしかして、そのまま力任せにハッチを引き千切るつもりだろうか――?
だが、分厚い装甲と一体化しているハッチは、当然ながら内側から固くロックされているはずだ。それこそ
コンコン……
え――!?
くるみは、あろうことか戦車のハッチをノックしているではないか!
そんなことしたって、やぁこんにちはって出てくるわけないじゃない――
だが!
ゴリゴリゴリ……
とハンドルを回す音がしたかと思うと、キィ――とハッチが開いた。
えぇーー!?
「……あ、あの……撃たないで!!」
唐突に、ハッチの中から敵戦車兵が出てきた。ノックしたら、ホントに出てきた――!?
「――撃ちませんから、安心してください」
くるみが、にこやかに応じる。
「ちょちょちょちょッ!? え――?」
「ゆずちゃん? 既成概念に囚われていてはいけませんよ」
「――そういうくるみちゃん、目が蚊取り線香みたくグルグルになってる!」
実のところ、この反応はくるみにも予想外だったのだ。ハッチをノックしたのは、あくまで一流の洒落のつもりだった。ところが、予想に反して本当に敵兵がすんなり出てくるとは――!?
くるみも辛うじて、平静を装っているだけだった。
「――あ、あの……私たちは、皆さんを攻撃する意図はありません……降伏せよというなら、降伏します」
敵兵が、弱々しい声で必死に説明し始めた。というか――
「――というか……あれ? 日本語!?」
楪が、自分の耳の後ろ辺りを指先でコンコンとつついている。翻訳チップを埋め込んでいる辺りだ。
以前言及したが、士郎たちの世界の人間にとって、今や言語は壁ではない。世界の大半の言語はAIによる翻訳機能によって、ほぼタイムラグなしに脳に直接意味を送り込む。英語や日本語、中国語など、主要な言語に至っては、あらゆる方言や流行語もリアルタイムでアップデートされ、ほぼネイティブ同様のコミュニケーションが可能だ。
だから、例えば士郎や楪、くるみなど、日本語が母語になっている人間には、相手がどんな言語を喋っていたとしても、基本的に自分の脳に認識されるのは「日本語」だ。
だが、ごくたまにこの翻訳AIが機能しないことがある。極めて古い古代語だったり、そもそもその言語が未知のものだったりした場合だ。
だから以前、ドロパ族のトンドゥ・ニマとコミュニケーションを取ろうとした際は、カーディルという通訳が必要だったのだ。少なくとも、「ドロパ語」というのはデータベースに登録されていない。
で、通常は相手の言語が翻訳できない場合、内耳に埋め込まれているチップはそもそも起動しない。だから、相手の言葉は耳から直接聞くことになる。まぁ、そもそも人間はそれが普通だったのだが。
もうひとつ、自分の登録している母語の場合も、翻訳チップは起動しない。これは任意に設定でき、たとえば訛りの激しい地域に行った時にだけ、同じ日本語でも翻訳チップを起動することは可能だ。
ともあれ、今敵戦車のハッチからニュッと出てきたこの兵士は、唐突に日本語をしゃべったのだ。
だから、楪のチップは起動せず、直接耳から彼の言葉が入ってきたのだ。
「――あなた……もしかして、日本人!?」
くるみがようやく我に返って兵士に質問する。彼の日本語は、外国人特有の変なイントネーションがない。それは、日本語を母語とする者の、完璧な日本語だった。
「……は、はい……恥ずかしながら、中国兵をやっております……」
えぇぇぇ――――!?
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