第200話 リビルド
それは、凄まじいエネルギーの収縮だった。
重力を自在に操るクリーがその能力を極限まで解放した結果、ついに底が抜け、重力崩壊を起こしたのだ。それは、巨大な恒星がその一生を終える時に、星の内部エネルギーをすべて使い果たし、核融合が停止して重力が限界まで圧縮される現象に酷似していた。
太陽の約900倍の大きさを持つオリオン座の赤色巨星「ベテルギウス」――具体的に太陽系に当て嵌めるとその大きさは木星軌道を上回る――は、明日にでも超新星爆発を起こしても不思議ではないとされているが、彼の星が終焉を迎える時も同じように重力崩壊を起こし、さらにはその巨大さ故に最期はブラックホール化するのではないかとさえ言われている。
それでいくと、この現象の先にもそういった不測の事態が起こらないとも限らない。事実、そのエネルギー収縮は、周囲のすべての存在を猛烈な勢いで呑み込もうとしていて、彼女がいたその一点目掛けて一気に集束し始めていたのである。
今やハルビンの街そのものが、まるでプールの排水口に吸い込まれるが如く、一気に呑み込まれていきつつあった。
建築物は軒並み粉々に砕け散り、微細な粒子となって空中に巻き上げられる。大地はまるで生皮が剥がされるように地面がめくれ上がり、土塊や岩石を問わず、粉砕されて次第に粉末状に変わっていった。それらがすべて、巨大な渦巻きとなって極少の一点に吸い込まれていくのだ。
だが、一番悲惨なのは戦闘車両などの固形物、そして――人間だった。
それらの多くは、ハリケーンに吹き飛ばされるように上空高く舞い上がると、集束点に向けてまるで飴細工のように細く長く長く伸びていき、元の形状を失ってやがて吸い込まれるように消えていく。
そんな状態で生物が生きていられるはずもなく、第一戦闘団をはじめとして先程まで戦場に展開していた兵士たちはすべて――敵も味方もなく――その巨大な渦に呑み込まれようとしていた。
それはまさに、この世の終わり――
すべての存在を一切認めない、無慈悲な神の意思とでも言えるような、
さらにその影響は宇宙空間にまで及ぼうとしていた。
ハルビン直上の低軌道宇宙空間に展開していたミサイル駆逐艦『
それは、彼女がこのあと数分で地球重力圏内に落下し、そのまま大気との猛烈な摩擦熱で燃え尽きることを意味していた。この時代の宇宙戦闘艦は、あくまで宇宙空間での活動を前提としており、シャトルのように地球と往復するようには出来ていないのである。
***
『雷』のメイデイ宣言は、遠く離れた横須賀の司令部にも届いていた。
「群長ッ! 『雷』が
「――急速に発生した重力場に引きずり込まれた模様!」
「『雷』へ! 状況知らせッ!」
「
発令所が更に騒然となった。このままでは『雷』も爆沈してしまう――!
「くそッ!! 何とかならないのかッ!!」
四ノ宮は、ここに至って既に現地の兵たちの生存がほぼ絶望的であることを悟る。
「群長――!」
「今度は何だッ!?」
次々に報告される絶望的な情報に、彼女は極限まで苛立ちを募らせていた。もうたくさんだ――この状況を覆せるものなど、もはやこの地球上に存在しないことは分かっている。
「がッ――ガンマ線バーストを観測ッ!」
「だからどうしたッ!?」
この現象は、超新星爆発とほぼ同じなのだろう!? だったら大量のガンマ線が放出され、いわゆる
「……それが、そのッ――先般ハルビンで観測した現象と、たった今観測された数値が……ほぼ同じであります!」
「どういうことだッ!?」
「このGRBは――
「何ッ――!?」
前回ハルビンで観測したGRBは、拉致されたオメガ少女、神代
その前提に立つならば、当時とまったく同じ波長と強さで繰り出される今回のGRBもまた、未来が引き起こしている――と推定するのが妥当ということか!?
ではまだ未来は生きている――!?
四ノ宮が観測モニターに飛びついた。
それとほぼ同じタイミングで、観測員の一人が思わず声を上げる。
「こ……これは――!?」
彼は信じられないとでも言うように、デスクの天板上にボウっと浮かび上がるキーボードを必死で叩き、様々なデータをモニターに映しては何度も何度もそれを見比べ、せわしなく数値チェックを行っていた。
「――結論は出なくていいから思ったままを話せッ!」
その様子を見て、四ノ宮がしびれを切らす。観測員が振り返った。
「群長――重力崩壊現象が……と、止まりました……というか……」
「なんだ!? ハッキリ言え!」
「えと……止まったというより……その、アンドゥされています」
「アンドゥとは……元通り――という意味か!?」
「そうです……先ほどまでとは……まるで逆回転するように……すべての現象が元に戻り始めていますッ!」
「――そんな……馬鹿な……!?」
だが、確かにそれは事実であった。
先ほどまで猛烈な勢いですべての存在が吸い込まれつつあったハルビンの街は、それに対抗するかのようにGRBの放射現象が起きたと同時に時が止まり――
そしてそのまま、まるで時計が逆回転するかのように、すべての存在が元の場所へ、あるべき姿へ――
元に戻り始めたのである――
***
だがそれは、現場でその現象を目の当たりに――というかその現象にまさに巻き込まれていた
その時、そこにあったあらゆる存在は、まるで砂糖細工が粉々に飛び散るように、物質の最小単位――すなわち量子レベルにまで完全に分解していたのである。
それは、士郎自身ですら例外ではなかった。
その時石動士郎という存在は、少なくとも物理的な「物質」としては既に消失していたのだろう。真っ白な世界の中に、ただそこに漂う存在。肉体は既になく、意識だけが渾然一体となって周囲の世界と交じり合っていた。
だから、士郎には判ったのだ。そこには
姿は見えないが、その白い綿雲のような濃密な世界を構成する何かの中には、確かに神代未来という成分が含まれていたのだ。そして、士郎自身もまた、その濃密な綿雲を形成する何かだった。
自分は
気が付くと自分は、「自分」という概念を喪失していた。ただそこに在るもの。存在そのもの――
やがて、その思念の中に、幼い頃誰かが誰かを愛おしく抱き締めているイメージが浮かび上がる。これは「誰」だ――? とても居心地の良い……そして愛おしい……大切な……存在――
その瞬間――
突如としてその存在が具体的な像を結び始める。
長い睫毛。白い頬。切れ長の、美しい瞳――
白く光る……銀白色の……長い髪――
それはまるで天使のようで……
――そうだ……また逢いたかった……甘酸っぱい香り……少しだけひんやりとして、だけれども触れるとほんのり温かい、その滑らかな肌――
そして、思念はその存在をハッキリと認識する――
これは……
その瞬間、そこに「神代未来」が完全な像を結んだ。未来がこちらを振り向く。
「――士郎くん……」
刹那――思念は自分が誰なのかを思い出す。自分は「石動士郎」という存在。未来が自分の方を見て、それが士郎だと気づいてくれたのだ。
その直後、士郎はそこにいた。
未来と士郎は、お互いを認識すると同時に、その存在が復活した。
目に見えないほど小さな「量子」という単位にまで分解された何かは、その存在を相互に観測した途端、そこに現実の物質となって現れたのだ。
それが「
あぁ――そうか……
士郎は思い出していた。かつて叶少佐が量子の不思議な性質について語ってくれた時に、既に答えは出ていたじゃないか!?
量子は観測された途端、そこに存在するのだと――
一度その存在を消失した自分が、再びここに現れたのは、未来が自分の存在を観測してくれたからだ。
「観測」とはすなわち、そこに居て欲しいという未来の想いが現実化したものだ。
ならば――
士郎は辺りを見回して、その濃密な白の世界の中に、大切な存在が確かにそこかしこに在ることを知覚する。
そして観測するのだ。
久遠……くるみ……
するとそこには、まるで最初からそこにいたかのように、彼女たちが在った。
亜紀乃は、確か何かの原因で倒れていたはずだったが、今ここにいるのは元気な亜紀乃だった。だって、士郎の頭の中で認識される亜紀乃は、いつだって
気が付くと、周囲にはいろいろなものが存在していた。元通り存在した誰かが、また別の誰かの存在を観測した途端、その誰かも既にそこに存在するのだ。そうやって、この周りにはどんどん連鎖的に誰かの存在が増えて――いや、元通りになっていったのだ。
自分の手を見る。切断された指は切断されたままだったが、不思議と痛みは感じなかった。耳と、右目も同じだった。無残にも切り刻まれた身体の一部はそのまま欠損していたが、それはまるで最初からそうだったかのように自然にそうなっていたのだ。
だが、折れていた骨は元通りになっていたし、身体中の無数の怪我はすっかり治癒していた。
ふと、妹の
その詩雨が自分を見つけてにっこり笑う。すると、途端に右目が元通りになった。耳も、指も、気が付いたら元通りに治っていた。
もはや疑いようがなかった。
この一連の
彼女はあの時と同じように、あらゆる物質を量子レベルに分解したかと思うと、それが本来あるべき姿に再構成したのである。
それはかつて叶が予見した通りであった。オメガの覚醒異能は、量子力学に起因している――
クリーの引き起こした不可逆的な
それは、時間や空間の概念が一切意味を持たない量子の世界の特性さえ知っていれば、何ら不思議なことではない。
そして――
クリーその人すら、恐らくは未来に「観測」されて、そこに元あった姿のままに存在していた。
ただし――
そこにいたのは、小さくて華奢な体つきをした、少女と子供の境界線上にいるような、端正な顔立ちをした女の子だった。
何より目を引いたのは、その顔だ。
未来や士郎が知っている彼女は、その両眼を潰されて痛ましい怪我を負った存在、あるいはその眼窩に暗視装置のカメラパーツを直接埋め込まれた恐ろしい外見であったが、今目の前にいる彼女は、彫りの深い二重瞼の奥に透き通るような深い瑠璃色の瞳を持つ、美しい少女だ。
その姿こそが、本当のクリーなのだろう。
ふと視線を移すと、そんなクリーを見つめている
「――クリー……」
士郎が思わず彼女に話しかけようとした、その瞬間――
その視界のすべてが、眩いばかりの白い閃光に包まれた。
すべての音が、消失する――
***
「……がはッ!?」
士郎が目を覚ますと、そこは戦場だった。
慌てて、身体のあちこちを触ってみる。腕、胸、腹、そして頭……
どこも、何ともないように思った。少しだけボウっとしているが、それは疲れ果てて眠りこけ、慌てて飛び起きた時のような、眠りにつく直前の記憶が少しだけ欠けたような、そんな緊迫感のないものに過ぎなかった。
そんな集中力の欠けた状態で、士郎は漠然と周囲を見回す。すると、少し離れた位置に――彼女はいた。
よかった――無事だったのか。
士郎は無意識に彼女に駆け寄ろうとして、自分の身体が何かに妨げられていることに初めて気づく。ふと足許を見ると、自分の腰から下が何かにすっぽり嵌まっていることに気付いた。
これは――
戦車だった。ようやく自分が、多脚戦車の車長席に納まっていることをはっきりと認識する。次の瞬間、自分も全裸であることに気付いた。
えっ――!? と思って、戦車の車内を上から覗き込む。すると、久遠と
そうだ――! 自分たちは、多脚戦車でクリーの狙撃に成功し……その後頼んであった通り、未来が墜落したクリーの元に駆け付けて……彼女を説得しようとして……
その直後、突然謎の異変が戦場全体を襲ったのだ――
それは嵐のように空間すべてを覆いつくし、そして――
今や、ここは静寂だけが支配していた。
戦場全体をまるで
やはり皆、全裸だった。
だが、何よりも重大なことに士郎は気づく。
ここにはまるで、「殺気」というものがない――
さっきまで戦場を支配していた、地獄のような気配――狂気、恐怖、憎しみ、
戦いは、終わったのだ――
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