第168話 旭日の軍団

 思いがけず優しい言葉をかけられ、それまで張り詰めていた糸がぷっつりと途切れてしまったのだろう。ラビヤは、自分でもびっくりするくらい号泣した。

 でも、何より安心したのは、この漆黒の人たちがラビヤを守ってくれる存在だと分かったからだ。「ダイジョウブ」この言葉が日本語であることを、ラビヤは知っていた。昔、おじいちゃんとおばあちゃんが教えてくれたのだ。

 私はあなたとともにある、だから安心して―― それがこの言葉の意味だと教えてくれた祖父は、さらにその祖父からこの言葉を教えてもらったのだそうだ。高祖父は、むかし日本の兵隊さんと一緒に戦ったことがあるらしい。彼らは常に誠実で、勇敢で、そして私たちウイグル人のために戦ってくれたのだという。だから、いつの日かまた自分たちが助けを必要としている時、きっと彼らは現れる―― 高祖父はそう言って、祖父の父や、祖父自身に語って聞かせてくれたのだそうだ。

 ラビヤは小さい頃からこの話が大好きだった。だって、いつだって彼女の暮らしは辛いことだらけだったから。でもそんな時、ラビヤは挫けそうになるとこのお話を思い出して、空想に耽ったものだ。その空想の中では、ラビヤをいじめた憎い奴らは片っ端から日本の兵隊さんがやっつけてくれる。そしてラビヤは溜飲を下げ、その後幸せに暮らすのだ――


 その日本の兵隊さんが、信じられないことに今自分の目の前にいるのだ。彼らは、まるで忍者のように川の底から音もなく現れて、そしてラビヤを優しく抱き上げ、傷ついたその身体を温かい毛布で包んでくれた。それどころか、身体中の無数の傷を手当てしてくれて、温かいスープと食べ物さえ勧めてくれたのだ。

 やっぱり! おじいちゃんの言った通りだ――! 目の前の彼らの見た目は、まるで地獄の悪魔のように漆黒で、そのいかめしい格好はぞっとするほど恐ろしいけど、でもよく見たら肩のところに黒い服と同じような色で目立たないように旗のマークが刺繍されている。そのマークは確かに昔、おじいちゃんに教えてもらったことがあった。確か……旭日旗。太陽の光が四方八方に輝き、世界をあまねく照らす――日本の兵隊さんのマークだ。

 つまり、この恐ろしい格好は、ラビヤたちを守ってくれるための、憎いアイツらをやっつけてくれるための、戦士の出で立ちなのだ。ラビヤの空想が、現実にいま――目の前にある。空想が本物なら、この人たちは、今の私のささやかな願いすら、聞き届けてくれるかもしれない――!


「あ、あのッ――!」

「ん? どうしたの? 何でも言ってごらん」


 相変わらず、日本の兵隊さんは優しかった。

 “私はあなたとともにある――”この言葉が、ラビヤの脳裏にこだまする。


「父さんが……父さんがさっき……死んじゃった……けど……助けて……」


 目の前の兵隊さんが、ラビヤの言葉を聞いて、少しだけ耳の後ろ辺りをゴソゴソいじっていた。返事はない。やっぱり……さすがに死んだ人を生き返らせてくれだなんて……無理……だよね……

 すると、兵隊さんがおもむろにラビヤの方に向き直って、話しかけてきた。


「――ラビヤちゃん、ごめんね……翻訳機の間違いかと思って、思わずスキップバックしてもう一度君の言葉を確認していたんだ……お父さん、死んじゃったって言ったけど、ホントに確認した?」


 またもや思いがけない反応に、ラビヤはどぎまぎしながら返事をする。馬鹿なことを言うな、と一喝されると思っていたからだ。


「え……はい……父さんは……息をしてなくて……冷たくなっていて――」

「ふむ。では完全に亡くなっていたかどうかは分からないな――軍曹!」


 兵隊さんが、突然傍の人を呼びつけた。


「はッ!」

「我が隊はこのあと、少数民族の居住地を正確に把握するために市街地へ浸透するが、それに合わせてこの子の父親の生死も確認する。生命反応の兆候が残っていれば、そのまま保護して弾着観測地点に連れていく」

「はッ! 承知しましたッ――全員、進発よーい!」


 その途端、辺りに散開して待機していた漆黒の兵士たちが、きびきびと動き始めた。

 この分隊は、黒河市への大規模敵前上陸を控え、隠密裡に先行して市街地の状況を索敵する第605偵察分隊レコンだった。分隊長は樋口曹長、先任軍曹は河村一等。水陸機動団出身の、精鋭中の最精鋭部隊だった。


「ラビヤちゃん、自宅まで、俺たちを案内できるかい?」

「は、はいッ!」


 空想は、やっぱり現実だった。おじいちゃん――おじいちゃんの言ってたこと、本当に本当だったよ……

 ラビヤは、先頭に立って走りながら、涙が溢れてくるのを抑えられなかった。だが、この涙はさっきのとは違う。嬉しくて、嬉しくて止まらない涙だ。何か大きなことが起きようとしている――! 私の辛い運命も、もしかしたら――!!


  ***


 樋口曹長は、払暁の市街地を走り抜けながら、事細かにラビヤから住人と街の情報を聞き出していた。この一角はウイグル人が住んでいる……ここはチベット人のお店……こっちは繁華街だけど、少数民族は立入禁止……路線バスは中国人専用。ここから先は軍用地区で――

 これらの情報は、リアルタイムで上陸部隊の作戦指揮所SOCへ刻々と送られていた。もしこれらを自分たちだけで調べるとしたら、何日も掛かったことだろう。思いがけず現地住民の協力者――ラビヤ――を確保することができて、日本軍の上陸作戦は大幅に前倒しできることになりそうだった。

 軍隊というのはおしなべて超現実主義、合理主義の塊だ。だから最初はもちろん、川で入水自殺を図ろうとしていたらしいこの少女に遭遇した時、こうした打算的な目論見があったことは否定しない。だが、彼女に事情を聞いているうちに、樋口はこの街に巣食う根深い人種差別、少数民族への弾圧といった実態に、深い憂慮の念を抱いたのである。


 敵軍しか存在しない島嶼上陸作戦と異なり、今回のような市街地への上陸作戦は、好むと好まざるとに関わらず、多くの非戦闘員を巻き込むこととなる。そういった場合、今回の樋口分隊のような偵察隊があらかじめ敵地に送り込まれ、攻撃エリアの状況をつぶさに把握することになるのだ。これを怠って無差別に攻撃すると、戦後「戦争犯罪」の容疑がかけられないとも限らないし、何より占領後の軍政が困難になる。一般市民に恨みを抱かれると、後々統治にあたってさまざまな不安定要因になってしまうのだ。

 だから、この分隊の主な任務は、非戦闘員居住地域の確定――当然攻撃対象からは外される――と、現地協力員の確保だった。虐げられている階層があれば、積極的に懐柔してこちらの味方に引き入れろ――

 そういう意味では、今回樋口がラビヤを保護したうえに、彼女の願いまで可能な限り聞き入れようとした姿勢は、別に親切心で始めたわけではなく、偵察分隊としてある程度マニュアル化された行動規範プロトコルだ。

 だが――と樋口は思うのだ。


 彼女の話はあまりにも理不尽だ。前から噂程度には聞いていたが、少数民族に対する北京の弾圧はあまりにも常軌を逸している。だから、いつの間にか樋口は、そして他の多くの分隊員たちは、打算ではなく本心から、彼女を手助けしてやろうと考えるようになっていた。つまり――


 今回の戦は、ちゃんとした道理のある戦いなのだ。これは、虐げられた少数民族たちを救うための、解放戦争だ。


 ア号作戦全体における第二・第三戦闘団の位置付けは、あくまでもハルビンでの特務兵奪還に対する陽動作戦だ。そのために、黒河市という街を一個、スケープゴートにしてこれを叩く。当然市街地には非武装・丸腰の一般市民が多数いると思われ、樋口はそこに少しだけわだかまりがあったのだが、ラビヤの話を聞いてそれもすっかり消え失せたのだ。

 圧政と理不尽に苦しむ者たちよ――もうすぐ、旭日の軍団が君たちを解放に来るぞ……!


 その時、ラビヤが唐突に立ち止まった。


「――ここです」


  ***


 衛生兵の水橋二等兵曹が、ラビヤの年老いた父親のバイタルを手際よく確認していく。その後ろで、彼女は幼い弟たちを両脇に抱え、まんじりともせず水橋の一挙手一投足を見守っていた。


「お姉ちゃん……父ちゃん、死んじゃったの……?」


 上の弟のトホティが心配そうに呟いた。ラビヤは、零れそうになる涙を必死に堪えながら、トホティの肩をギュッと抱き締める。

 ヒグチさんによると、父さんはまだ死んだと決まったわけじゃないそうだ。だが、助かるとも言われていないので、結局はどうなのかまだ何も分からない。すべてはミズハシさんの診立て次第ということだった。

 下の弟のアフメドが、眠そうな目をこすりながらラビヤの胸にしがみついてきた。この子はまだまだ赤ん坊みたいに甘えん坊だ。ラビヤは、ほんの一瞬でもこの弟たちを残して自分だけ死んでしまおうと思ったことを、死ぬほど恥じていた。今はもう、ダイジョウブ。私には、日本軍の人たちがついている。トホティは、小さな拳に飴玉を握り締めていた。さきほどヒグチさんたちが、弟クンたちにどうぞと言ってくれたものだ。少しだけ照れたトホティは、それでもヒーローたちを見るような目で、この漆黒の戦士たちの後ろ姿を見つめ続けていた。

 その時、水橋軍曹が後ろを振り返った。


「ラビヤちゃん、お父さん、ダイジョウブだよ! ちゃんと生きてる!」

「――ほッ! ホントですかッ!!?」

「あぁ――、痛みで失神していただけのようだ……確かに体温は相当下がっていたが、それも一時的な仮死状態に起因するものだ。だから安心して? 僕が必ず、お父さんを助けてあげる」


 ラビヤは、あまりの嬉しさにミズハシさんに飛びついていた。「おぉっと」と言いながら、水橋も嬉しそうに彼女を抱き止める。自分でも気づかないうちに、ラビヤは泣きじゃくっていた。ダイジョウブ、この涙も「嬉しい涙」だ。

 トホティは、そんな姉の様子に心から安心した笑顔を浮かべた。子供みたいに泣いているが、それが「いい涙」だということは、彼にも十分伝わっていた。へへ……と鼻を擦りながら、その時初めて貰った飴の包みを開け、ポイっと口の中に放り込んだ。


「でも曹長、この男性は早めに手術をしなければなりません。脾臓破裂を起こしています。今は痛み止めと止血で本人への負担も最小限にしていますが、可能な限り早く野戦病院規模の処置を要すると進言いたします」

「分かった――この家族は、予定通りこのまま全員保護して連れていく。移送準備を――」

「はッ!」

「ラビヤちゃん、お父さんと弟クンたち、全員連れていくけどいいかい? もう分かっていると思うが、我々は日本軍だ。この後、ここは戦場になる――」


 ラビヤは渾身の力を込めて頷いた。もとより、この人たちは私が待ち望んでいた存在だ。私だけではない――恐らくこの街のすべてのウイグル人が、彼らの進撃を待ち望んでいるのだ。

 彼女の力強い肯定を受けて、樋口がもうひとつのお願いを口にする。ラビヤと、彼女の同胞たちを信じることに決めたのだ。


「そしたらあともう一つだけ、お願いがあるんだ。ラビヤちゃんたちのネットワークで、この街のウイグル人たちだけに、情報を回してくれないかな……今夜遅くから、ウイグル人たちは自分の家から絶対に出ないこと。特に明け方は、絶対にダメだ。どうだい?」

「だ、ダイジョウブです。朝早い仕事の人たちも……ですか!?」

「――そうだ。例外は、ない。そしたら、このパチンコ玉みたいな奴を、すべてのウイグル人たちの家に一個ずつ置いて回ってくれ。もちろん、みんなが順に回していくやり方で構わない」


 そう言うと、樋口曹長はラビヤに大きめの水筒のような容器を手渡した。


「これは――?」

「日本軍の、敵味方識別IFFチップだ。これを持っていれば、絶対に攻撃されない」

「お守り……?」

「あぁ、絶対に効き目のあるお守りだ――もちろん、ラビヤちゃんの判断で、他の少数民族の人たちにも渡してもらって構わない」

「わ、分かりました!」


 ラビヤは、ヒグチさんが自分に大きな役割を託してくれたのだということが一瞬で分かった。責任重大だ――


「では時間がない。さっそく各自作業開始だ!」

「「「了解ッ」」」


  ***


 明けて払暁――

 その日の朝、黒河市の街中に、天からの怒りの槍が降り注いだ。

 地球低軌道上を巡航する元宇宙軍ミサイル駆逐艦『いかづち』からのアウトレンジ垂直艦砲射撃だった。地上から送られてきた敵味方識別信号をマップ上にプロットした砲雷長の大西大尉が、輝点ブリップの浮かんでいないエリア――すなわち、保護対象のいない地域――を次々にマークし、つるべ落としのようにレールガンを地上に叩き込んでいく。


 この日、黒河市は大混乱に陥った。


 市内の貧民街では、昨夜『同胞ネットワーク』を通じていきなり回ってきた「外出禁止」の秘密連絡に、大半の者が困惑していた。まぁ、ネットワークといっても、別に最新の情報共有システムがあるわけではなく、大半がご近所さん同士のクチコミだ。だから、話が伝わるたびに尾ひれがついて、最終的には「国連軍が攻めてくる」という話になっていたのだ。

 それが余計に話の信憑性を毀損する原因となった。悪名高い「国連軍」。今やこの組織を信じている者は、世界中で誰もいない。だって、国連は事実上解体されたではないか。この偽善組織が健在だった21世紀前半までだって、彼らの「役立たずさ」は折り紙付きだった。だから、今回の話だって、夢見がちな誰かが絶望した同胞を思いやって吐いた優しい嘘なのではないか、というアンダーストーリーまで生まれていたのだ。


 それが、事前の連絡通り、日の出を期して正確に始まったのだ。しかも、空からの激しい艦砲射撃。最初、雷が落ちたのかと誰もが思った。だが、そのあまりに凄まじい衝撃に、多くの黒河市民が目を覚まし、窓から外を眺めた。そのとき、大半の人々は悟ったのだ。

 これはデマなんかじゃない――

 攻撃は、正確を極めた。激しい艦砲射撃は、実に見事にウイグル人などの少数民族居住区を避けていた。人々は「外出禁止」の意味をこのときようやく理解したのだ。そして、この攻撃が「国連軍」などではなく、どこか特定の国家の軍隊、とりわけ「宇宙軍」を有している日米欧のどこかの軍が行っているのだということに気付いたのだ。

 その時から、ウイグル人たちの間では、ある国の名前が囁かれ、そしてそのさざ波は静かに、しかし確実に大きなうねりとなって街中を覆っていった。


 日本軍――


 こんなことをするのは、日本軍しか考えられない。だってこの激しい攻撃からは、「ウイグル人たちを絶対に傷つけない」という強い意志が伝わってくるのだ。日米欧の中で、自分たちのことを気に掛けてくれる軍隊はひとつしかない――

 そしてその願望とも呼べる噂は、一人のウイグル人が黒竜江の方角を眺めていた時に、ついに確信に変わる。


「おい――! あれは……」


 その青年が、双眼鏡を覗き込んでいた時だった。思わず声が漏れ出た彼に、隣にいた年配の男が問いかける。


「なんだ!? どうしたんだ!?」


 先ほどから数十発の巨大エネルギー体が空から真っ直ぐ市街地に撃ち込まれていて、もはや辺りは激しい黒煙に包まれている。だが、その攻撃は、決して自分たちが住むところには降ってこない。彼らがまるでスポーツ観戦のように街中を双眼鏡で覗いていられるのは、それが理由だ。


「や、やっぱりそうだ――!! はははッ! 父さん! やっぱり日本軍だ! 日本軍が来た!!」

「なにッ!!?」


 年配の男が、若者から双眼鏡を乱暴に奪い取り、慌てて覗き込んだ。

 そこに映っていたのは――


 黒竜江の大きなうねりを乗り越え、続々と川岸に上陸してくる、無数の兵士たち、そして上陸用舟艇だった。それは、あっという間に川岸を埋め尽くし、激しく撃ち込まれる反撃の爆発や無数のロケット弾攻撃をものともせず、雪崩を打って一気にこちらに押し寄せてくる。その怒涛の進撃の先頭には、いくつもの戦旗が翻っていた。


 白地に赤い丸、そこから放射状に伸びた幾筋もの赤い線。


 それはまごうことなき、日本軍の旭日旗だった――

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