第148話 覚醒

 いつの間にか李軍リージュンは姿をくらましていた。未来みくはこの隙を狙って両手両足のいましめを何とか外そうともがく。だが、どうしても身体に力が入らないのだ。筋弛緩剤でも打ち込まれたか……!?

 そのうちまた眠気が襲ってきた。こうして何度も起きてはもがき、またもがいては不意の睡魔に襲われて気を失う。いつの間にか、時間の感覚が失われていった。


 それから……どれくらい経っただろうか!?

 突然瞼に強烈な光を当てられ、未来は「うぅーん……」と唸りながら細目を開けた。鋭い光が瞳孔を直接襲う。未来はまたもや思わず目をきつく閉じた。


「――そろそろ起きてもらいましょうか」


 その声と同時に、眩しい光がスッと横にずれる。ようやくしっかりと瞳を開けると、頭上から禿頭の小男が下卑た笑みを浮かべて診察台に縛り付けられた自分を見下ろしていた。手に持ったペンライトで未来の意識を確認するよう何度も瞳を照らしていたのだ。


 李軍――!

 クリーを機械の身体に変え、なおかつキメラとも融合させた男。詩雨シーユーを何度も切り刻み、死に追いやった挙句再生実験を繰り返した非道の男。

 今度はいったい何をしようというのだ!?


「あ……あなたの指図は受けません」


 未来は気丈にも李軍に言い返す。すると、この品のない下衆な目をした小男は嬉しそうに嘯いた。


「あなたのお友だちの将軍が大変なことになっていてもですか……?」

「――――!?」

「おや、心配ですか? 不思議ですねぇ……敵の大将のことが気になるんですか?」

ヂャン将軍は、華龍ファロンの将軍である以前に、私の友人のお兄さまです」


 そこまで言うと、未来は不意に詩雨のことが気になって周囲を見回す。隣の診察台には、ほぼほぼ再生を終えた詩雨がうずくまっていた。ただし、彼女の思念はまだ発せられていない。意識は、そう簡単に戻らないのだろう。

 当然だ。「死のショック」が、人間にとってどれだけの心理的ダメージを与えるのか、未来には想像もつかない。


「――なるほど。ですが、そのご友人のお兄さんは、残念ながら先ほど逮捕されました」

「な……!」

「本当は死んでもらうつもりだったんですが――あの方は相当悪運が強いんですねぇ。あ、そうそう……クリーは張の暗殺に失敗したので、少しだけ罰を与えています」

「――あ! あなたという人はッ!? クリーちゃんに何をしたのッ!?」

「なに、張を少しばかり痛めつけさせているだけです。自らの失態の落とし前を付けるためにね」


 すると、廊下をパタパタと歩いてくる足音が聞こえてきた。


「ほら、噂をすれば――ちゃぁんと言いつけを守ってきたでしょうかねぇ……」


 足音が部屋の前で消える。ほどなく、スライドドアをガラリと開ける音が聞こえた。

 そこに居たのはクリーだった。痩せこけて、小柄な身体。その頭部――瞳のところには、暗視装置のレンズ筐体がそのまま埋め込まれたような機械化眼球が赤く不気味に光っている。足許は、まるでダチョウの脚のような、鋭い鉤爪。その手も、手首から先はおよそ人間のものとは思えない形状――とりわけその長い指が異様さを掻き立てている。

 よく見ると、その長い指の先に何かビニール袋のようなものをぶら下げていた。何かを入れているらしく、ずっしりと丸みを帯びて垂れ下がっている。

 クリーはそれを無造作に李軍に突き出した。


「はい、ご苦労さん」


 李軍はそれを何気なく受け取ると、未来の枕元に置いてあったステンレス製の医療皿にその中身をドチャっと流し込んだ。

 ぴちゃッ――と何か雫のようなものが未来の頬にかかる。未来は顔の向きを変えて、それが何かを確認しようとして――


「ひッ――!?」


 それは、人間の指一本、片耳、そして……眼球一個だった。


 それぞれ切断面が真っ赤に染まったままで、今でもドロリと半固体のような何かがじくじくと漏出している。先ほど未来の頬にかかった雫は、その血飛沫だった。

 なんてことをッ――!!

 未来の中で、この男に対する憎悪が噴き上げた。心臓が、ドクドクと早鐘を打つ。

 すると、李軍は平然とクリーに話しかけた。


「張は罪を認めましたか?」

「……いえ……」


 クリーは、少しだけ罰が悪そうな表情で視線を逸らした。


「あッ……あなたという人は――!!」


 未来は、今の将軍の状態を想像して胸が張り裂けそうになる。クリーへの「罰」というのは、「将軍への拷問」ということだったのか。

 妹の詩雨と意思疎通が出来ることを知って大喜びしていた将軍。ここにいる李軍の考え方が好きではないと愚痴っていた将軍。未来と詩雨と三人でディナーをして、楽しく酔いつぶれていた将軍。そして、詩雨が行方不明になったと聞いて、死ぬほど心配をしていたのに、自分の立場があるからといって表立って行動することもできず、未来に妹のことを託した将軍。

 ありもしない罪を着せられ、理不尽に逮捕され想像を絶する非道な拷問に晒されてもなお、屈せずに抵抗しているであろう将軍――

 クリーちゃんにしたって、どうせ何か強制力を働かせているのだろう。体内に電気刺激的なものを発生させる装置でも埋め込まれているか、あるいは薬物か――!?


 未来の全身を、何かがドクンッ――と貫いた。


「あなたは――いったい何が目的なのです!?」


 未来は、昂ぶる感情を精一杯抑えつけながら、李軍を睨みつけた。


「なに……と言われましてもねぇ――私の目的は、さきほどあなたに説明した通りですし……敢えて言えば、私の研究の邪魔をする奴を排除しただけ、ですよ」


 未来は、努めて冷静になろうと自分に言い聞かせる。この男のペースに嵌まっては駄目だ。私を怒らせて、何かを得ようとしているのだ――


「あ、そうそう……あなたが眠っている間に、あなたのDNAサンプルをある程度抽出させてもらいましたよ!? いやぁ、実に素晴らしい……あなたは、テロメラーゼが異常分泌するのですね? 遺伝子のテロメアがまったく減っていないどころか、むしろ成長しているではないですか」

「…………」

「えぇ、黙秘してくださっても構いませんよ? こちらも専門家ですのでね、分かります。あなた、一言でいうと『不老不死』なんじゃないですか!?」


 まさにその通りだった。未来のDNA変異は『不老不死』。人間は、細胞の寿命をつかさどるテロメアという組織が徐々に短くなり、それ以上細胞が分裂をしなくなることで生命活動を終了させる。だが、未来の身体はそのテロメアを成長させる酵素〈テロメラーゼ〉が異常分泌することで、この組織が短くなることを防ぎ、それどころか成長させるのだ。彼女は理論的には、何百年も、何千年も生き続けられるのだ。しかも、テロメアが成長し続けることで身体が「老化」することも一切ない。実年齢が90歳なのに、見た目が十代のままというのも、この特性によるものだ。

 李軍が続ける。


「将軍の妹さんは『再生能力』。あなたは『不老不死』――なんという僥倖!

 この二つは、似て非なるものです。『再生能力』のほうは、いくら再生を繰り返すとは言っても細胞の劣化そのものは如何ともしがたい。

 いっぽう『不老不死』は、いくら“死なない”といっても、致命的な怪我を負えば死に至る。あなたのほうは、健康なまま歳を重ねれば永遠に生きられるが、病気や怪我を負えば普通の人間と同じように死んでしまうのです。

 ではこの二つの特性が一緒になれば!?

 いくら怪我を負っても回復し、そしていくら時間を経過しても老いることはない。これこそがまさに最強の『不死の存在』だとは思いませんか!?」


 李軍は恍惚の表情を浮かべる。彼の研究の究極の目的は「不死の兵士」を作り上げることだ、と言っていた。であればまさしく彼の言った通り、自分と詩雨のDNAが合体すれば、まさに理想通りの兵士を生み出すことができるのだろう。

 だが、本当にそんな兵士が生まれたら、彼らは「永遠に彷徨い続ける兵士」になるほかない。

 何度も殺され、そして復活する兵士たちが、やがて世の中のすべてを恨み続けるとなるのは、火を見るよりも明らかなのだ。


 そんなものをこの世に生み出しては、絶対にいけない――


 だが、今の李軍はそんな忠告に耳を貸すようには見えなかった。案の定――


「というわけで、私はもう一度このバケモノを殺します。そのうえで、あなたの不老不死遺伝子を組み込む手術を行う! ――次に復活するときは、自己再生能力と不老不死のDNAを持った、新しい究極の生命体がこの世に誕生するのですッ!!」

「ふざけるなッ!!」


 未来は怒りに任せて怒鳴り上げる。だが、李軍はどこ吹く風といった表情で彼女を無表情で見下ろしていた。


「――あなたの身体には筋弛緩剤パンクロニウムを注入してあります。先ほどから自分の意志で手足を動かすことすらままならないでしょう……それなのにそれだけ明瞭な意識で会話できるとは素晴らしい意志の力と褒めてあげたいところですが――」

「――先生、準備できました」


 不意に別の声が聞こえた。先ほどからリーに付き従っていた助手か!? 姿が見えないと思っていたら、また何か悪だくみの下準備でもしていたのか。

 未来はキッと睨みつけながら部屋中を見回すが、助手の姿は見当たらない。


「おぉ、ではさっそく取り掛かってくれ。――おいクリー、いや、372号。ついてこい」


 李軍はクリーにそう呼び掛けると、部屋の扉を開けて一緒に出ていく。扉はそのまま開け放たれ――

 代わりにそこに現れたのは、大きな四角いコンテナだった。それはそのまま扉の枠にぴったりとあてがわれ、何かガチャンガチャンと固定するような金属音が響く。

 すると、今度は部屋の天井辺りからマイクのような音声が聞こえてきた。


「――では準備が整ったようです。日本軍の辟邪ビーシェよ、君の科学への貢献に感謝しておきましょう。その献身はこの私が生きている限り記憶に留めておきます」


 李軍め――いつの間にかあの男は別室に回り込み、この部屋の様子をモニターしているのだ。いったい何をするつもり!? さっきから好き勝手なことばかり言って!!

 すると、先ほど開け放たれた部屋の扉枠にガッチリと固定されたコンテナの中から、ドンッ、ドンッ、と何かがぶつかるような鈍い音が聞こえてきた。中に何かがいるのは間違いない。

 未来は反射的に首をねじってそちらの方向を見る。すると――

 確かに聞こえたのは、グルルルル――という低い太い唸り声。まさか――!?


 その途端、ガァァァッ――とコンテナの一面が一気に横スライドした。

 中から現れたのは――獦狚ゴーダン

 それは、丸太のように逞しい前肢の鋭い爪に、華奢なアクセサリーが嵌め込まれた……


「は、ハオユーくんなの……?」


 未来は思わず呼び掛けた。その獦狚ゴーダンが、あまりにも殺意を剥き出しにしていたからだ。

 コンテナの奥の薄暗い隅から真っ赤な目だけを爛々と光らせていたその獦狚ゴーダンは、コンテナの一面がスライドして目の前が開放されると、ゆっくりと部屋の中に一歩を踏み出した。


 獰猛な顔つき。剥き出しの鋭い牙。口元からは涎をダラダラと垂らし、その目は血走っていて、つい先ほどまで未来に寄り添っていた善良な浩宇ハオユーの雰囲気は欠片も存在しない。

 彼にも何かしたのか――!?

 獦狚ゴーダンは音もなくゆっくりと部屋に侵入してくると鼻先を突き出し、そこに何があるのかを確かめるようにあちこちに触れては徐々に未来に近付いてきて――

 やがて診察台に縛り付けられたままの未来の頭付近に近寄ったかと思うと、グルルルル――と唸りながらその頬に鼻面を押し付けた。途端――


 ガゥッ――と鋭く吠える。未来はその強烈な殺意に思わず首を竦める。


「お願いッ! ハオユーくん!! 負けないでッ!」


 未来は、完全に我を忘れて獣化している浩宇ハオユーに向かって叫ぶ。一体何をされたのか知らないが、この浩宇獦狚ゴーダンはつい先ほどまでの理性を持った存在とはまったく別物の、ただの醜悪な怪物と化していた。


 未来の全身をまたもやゾクゾクっと何かが突き上げる。心臓がバクンッ――と大きく跳ね上がった。


 獦狚ゴーダンはそんな未来に一瞬怯んだように見えたが、すぐに持ち直して再び注意深く未来の首筋に鼻先を押し付け、その匂いを嗅ぐような姿勢を見せる。その鼻息は、何か得体のしれない臭いを放ち、未来の生存本能を刺激する。首筋から背中に恐怖の感情が這い寄せてきて、未来の全身は再び悪寒に見舞われた。


「……やめ……て……」


 未来は、微かな抗いの声を上げるだけで精一杯だった。だが同時に、下腹部に何か熱いものを感じる。それはやがて未来の全身の血管に沁み渡っていく。

 何かの衝動が――突き上げようとしていた。


 すると突然獦狚ゴーダンはその向きを変え、今度は隣の診察台の方へ興味を示した。そこにいるのは――詩雨シーユーだ。怪物は詩雨の周りをグルグルと回り始めた。先ほど未来に対して行ったのと同じように、鼻先を彼女の修復しつつある肉塊に押し付け、そしてまた思いついたように離れてはその巨体の位置を変え、再びその鼻先を別の角度から押し付ける。

 獦狚ゴーダンの唸り声がいつの間にか大きくなっていた。更には、低い呼吸音がハァハァと重なっていく。大きく裂けた口元から、粘り気のある涎がボタボタと落ちる。むせ返るような獣臭が、辺り一面に広がっていく。

 明らかに興奮している様子だった。


「ハオユーくんッ! 駄目よ!? その子は駄目!!」


 未来は必死で獦狚ゴーダンに呼び掛けるが、怪物が耳を貸す様子はまったく見受けられなかった。獣臭が、さらに生臭く変化していく。

 これは……血を求める臭いだ。獦狚ゴーダンが、詩雨にその牙を突き立てようとしているのだ!


「ハオユーくんッ! お願い――正気に戻ってッ!!」


 唸り声がひときわ高くなった。気のせいか、獦狚ゴーダンの体躯が一瞬大きくなったようだった。全身に殺意を漲らせたのだ。


「ハオユーくんッ!!」


 その瞬間。

 ガウッッッ!!!


 獦狚ゴーダンの巨大な顎が大きく開かれたかと思うと、診察台の上の肉塊にむしゃぶりついた。

 刹那――!

 未来の思念に絶叫が刺し込んできた。再生しかかって朦朧としていた詩雨が、鋭い牙を突き立てられて一瞬にして意識を取り戻し、しかしその瞬間またもや殺戮の恐怖と痛みに塗れ、叫び声を上げたのだ。


「やめてぇッ――!!!」


 未来は絶叫する。

 彼女の心臓がドクンッ!!! ――と大きく収縮した。

 その瞬間――未来の瞳が眩い閃光を噴き上げたかと思うと


 それは、すべての存在が一瞬赤と緑と青の光の三原色ごとにズレたかのような感覚で――いや、実際には「ズレた」のではなく――


 すべての有機体が分子レベルに分解していた――


 と同時に未来の全身から強烈な閃光が四方八方にほとばしっていた。

 閃光――いや、それは輝きというより、何かのレーザービームのような、指向性光学兵器の光条のようなものと表現した方が正確だろうか。

 事実、その集束した無数の光線は部屋の中のありとあらゆるものを刺し貫き、未来を中心として放射状に広がったその光条痕は、部屋の壁と言わず天井と言わずありとあらゆる方向の物理的存在に大穴を穿ち――つまり蜂の巣のように穴だらけにして――そこから建物の外が丸見えになっていた。


 そして先ほど分子レベルに分解されたあらゆる有機体――獦狚ゴーダン、そして詩雨シーユー――は、僅かに元の形状を維持しつつ、中空にまるで無重力のように――そして超高速度撮影をスローモーションで再生するかのように――その無数の粒子は実にゆっくりと、ふわふわと、音もなくその場に浮かんでいた。


 そして未来自身――先ほどの光条の放出によってその縛めはとうに外され、どころか彼女もまた、その全身を横たえたままゆったりと中空に漂っていた。

 

 それはまるで、この部屋の時間だけが止まったかのような光景で――


 やがて――


 分解された二つの有機体の無数の分子――実際のところ分子一粒一粒は目に見えないが、非常に細かい砂粒がそこにカラフルな雲を作っているように見えた――が急速に振動を始めた。

 するとその分子の雲はゆったりと循環し、一部がその場所をあちこちに移し始め――

 そして何らかの形状を形作っていく。


 人だ――


 そこにはまぎれもないヒトのかたちをした雲が形成されつつあった。

 そしてもう一つ……比較的大きな塊。こちらは――

 獣だ。確かにそこには四つ足の獣の形状が形成されつつあった。


 その間――それは、数分だっただろうか。あるいはもっと時間が経っていたであろうか。

 その空間にはまるで時間の概念が存在しないかのようで、ハッキリとした経過時間は分からなかったが、その「雲」はやがて三つの存在に分かれ、しっかりとそれぞれに形を成し……そしてそれぞれがふわりと床に降りて行った。そこに在ったのは――


 まぎれもなく、艶やかな長い黒髪の、そして細身で美しい裸身の女性と――

 そして、こちらも裸身の浩宇ハオユー――

 さらに、先ほどまで猛り狂って獰猛な凶相を見せていた獦狚ゴーダンとは思えない、美しい銀色の毛皮を纏った是灰狼ハイイロオオカミの横たわる姿だった。


 そこには――在るべきモノが、姿存在していた。

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