第144話 ヒトの定義

「――なんたることだ……」


 その声は震えていた。

 華龍ファロンの若き将軍、ヂャン秀英シゥインは、ミーシャからの驚愕の報告にもはや自分の感情を制御する術を失いかけていた。李軍リージュンのしでかした行為は、既に犯罪といってもいい。ハルビン市民を無作為に掴まえて、自分の実験材料に供していただと!?


「……やはりあの時、嘘をついていたということか――」


 秀英は、先日李軍を呼び出して詰問していた時にあの男がうそぶいていた言葉を思い出す。『大丈夫――死刑囚や捕虜など、死ぬ運命にある者にしか手を出しておりません……』

 よくもいけしゃあしゃあと――!


「――それで、キメラたちの中に獦狚ゴーダンになり果てた者がいたというのは間違いないのか!?」


 ミーシャは頷く。あの少女は、目の前で「人間の言葉をまだしゃべる半獣人」から「唸り声を発することしかできない狼もどき」に確かに変化へんげした。まさにを、ミーシャは目撃してしまったのだ。


 秀英は、今さらながら「なぜキメラ胚研究が長年禁忌だったのか」に思いを馳せるしかない。少なくとも21世紀初頭までは、人類はまだ理性を保っていたのだ。

 動物と人間の遺伝子を切り貼りすること――それは「神の領域」として長年禁忌とされ、人類はその技術を持っていてもなお、それに手を出すことを固く戒めていた。なぜなら、動物に人間の「材料」を、間違って「人間もどき」が生まれるかもしれなかったからだ。


 たとえば、ブタの体組織が人間のそれと極めて相性がいいのは昔から知られていた。臓器の大きさが人間と似ていることや、皮膚の組成や眼球の構造が近いこと、冠状動脈の分布が似ていることなど、奇跡のような近似性が多数認められるのである。

 このため、人類は長年ブタという生き物を人間の「代用品」として医療に役立ててきた。火傷を負った人間の失われた皮膚部分に、被覆材として「乾燥豚皮」と呼ばれるブタの表皮を利用することは、昔よく行われていた治療法だし、ブタの心臓弁は人間の心臓によく移植されていた。このほか、糖尿病の治療薬として使われるインシュリンというホルモンは、ブタから得たものが多く使われている。極めつきは肝臓移植だ。一時的ではあるにせよ、移植が必要な人間にブタの肝臓を移植し、当面の代用品として使われたりしていたのだ。

 だが、これらの医療行為はあくまで「パーツ」としてブタの器官を流用していたのであって、細胞ごと人間化して使っていたわけではないから――そんな使い方をされるブタの運命はともかく――ブタが人間化する恐れは一切なかったのである。


 ところが、細胞そのものに「人間の材料」すなわち遺伝子を人工的に結合させるという行為は、正直どのような副作用が出てくるのか、出来てみるまで分からない――という極めて無責任なものだ。極端なことを言うと、ブタの身体の一部が完全に人間――たとえば「人面豚」のような――といった恐るべき外形変化を引き起こす可能性だってあったのだ。

 それどころではない――逆に、見た目はブタそのものだが、内面部分――心や思考は完全に人間、といった個体が生まれないとも限らなかったのだ。この場合、身体形状がブタである以上、言葉を発することはできないから、ヒトの心を持ったまま食肉用に屠殺される個体がいても、人間側はそれを知ることができない。


 「禁忌」というのはそういうことだ。要するに「神の設計図」であるところの生物ゲノムを人工的に改変するという行為は、人間が想定できないようなどんな不測の事態が起こらないとも限らない――ということを意味するのだ。

 だから人はキメラ胚研究を躊躇ためらった。躊躇ちゅうちょしたというよりも、

 なにより、「人の心を持った動物」が生まれてしまうことを恐れたのだ。


 この「恐れ」とは、人間が「ヒト」という存在を「何をもってヒトと見做すのか」という哲学的、宗教的、倫理的な問題とも大いに関わる感情だ。


 人間は常に「ヒト」の定義で揺れ動いてきた。


 たとえば「胎児」はいつから「ヒト」なのか? 主要先進国の母体保護法では、妊娠22週未満の胎児の人工妊娠中絶が認められている。「22週」といえば、約5ヵ月だ。大抵は妊娠の自覚症状があった時点で既に2ヵ月くらい経過しているから、人々は妊娠発覚からたった3ヵ月で「産むか/産まないか」を決断しなければならない。これを過ぎたらもはや「胎児は人間だから」中絶は認められない――これをもって「法律上、22週未満は人間ではない」と定義する者もいるが、これは決して万人が納得している話ではない。

 医学的に言うとこの「22週」という境界線は、母親の胎内から摘出されても「生存できるか/出来ないか」の漠然とした境目ボーダーラインだから、というだけのことなのだ。

 要するに22週目以降であれば、たとえば早産であっても現代医療の適切なサポートさえあればきちんと「正常な脳を備えた人間として」生存できる可能性が極めて高い。それ未満だと生存可能性が「遥かに小さくなる」という確率論に過ぎないのだ。

 実際は、22週未満の早産でもきちんと育つ場合もあれば、22週目以降なのに力尽きる胎児だっている。そもそもこの「母体外での生存可能性」をもって「人間として扱う」という理屈自体、論理的にはまったく意味をなさない、何の関連性も持たない謎理屈であることに、現代人の多くは気付いていない。


 それに、胎児の「知覚」という次元でいえば、医学的には17週目には既に脳神経は形成されており、ニューロン同士を結ぶシナプスも形成されていて、胎児の脳細胞は活発に情報交換を行っている。もしも胎児の脳活動の開始が「人間としての生命」のスタートだとすれば、この「境界」は「17週」まで繰り上げる必要がある。


 さらにいうと、たとえばカトリックでは、精子と卵子が受精した時点で「神から人間としての生命を与えられている」と見做し、中絶を「殺人」に相当する大きな罪と考えている。

 中国や日本ほど政治と宗教が切り離されている国家も珍しいが、欧米各国をはじめ世界の多くの国では、キリスト教やイスラム教が国家政策の根幹をなしている。非キリスト教圏の人々には実感しにくいが、中絶問題が多くの諸外国で選挙の大きな争点になるのは、こうした「ヒトはいつからヒトなのか」という哲学的な命題が、宗教サイドと科学サイドで血みどろの戦いを繰り広げ、多くの人々を巻き込んで政治問題化しているからだ。


 胎児をヒトとして扱うかどうか、という議論ですらこのありさまなのだ。


 「人間と同じように考える生命体」を人間と見做すか、否か――という問いは、さらに多くの人々の「人間としてのアイデンティティ」を揺さぶった。


 特に2045年、人工知能AI技術的特異点シンギュラリティを突破して生身の人間の知性を上回った時、人類はAIから問いかけられたのだ。

「あなたがた人間は、我々AIのことをどういう存在だと思っているのか!?」と……

 その問いに上手く答えられなかった人間たちは、やがて米軍月面基地での「ドロイドの叛乱」という恐るべき事態に直面する。この事件を語り始めると話が大きく脱線してしまうので、秀英は慌てて思考を引き戻す。


 いずれにしても、「ヒト」はに「ヒトの思考」を植え付けてはいけない、という手痛い教訓を手に入れた。

 だからこそ、人間の思考を植え付けてしまうかもしれないゲノム編集は、極度に警戒され、特に「ヒトゲノムに動物のDNAを混ぜること」は、キメラ胚研究が一般的に解禁されて以降も、禁忌中の禁忌として厳しく戒められてきたはずなのだ。それは「人間の存在」そのものを脅かす、許されざる行為として……


 その絶対禁忌をあの男、李軍は破っていた――


「――被検体371号が人間の心を持った獦狚ゴーダンだと、李軍は確かにそういったのだな!?」


 秀英にとっては、ミーシャからのもうひとつの重大な報告、この「被検体371号問題」にも注目しなければならない。もし彼の報告が事実ならば、例の獦狚ゴーダンは、未来の知り合いの兵士の成れの果てである可能性が極めて高い。

 先日の襲撃事件の際、一頭の獦狚ゴーダン――しかもその個体は、未来が兵士にあげたはずのアクセサリーを身に着けていた――が未来に親し気に近寄っていったという異例の行動は、まさにその個体こそが獦狚ゴーダンに無理やり改変させられた兵士浩宇ハオユーそのものである可能性を示唆している。

 だとすると彼こそが、人々が固く戒めてきた「人間の心を持った動物」そのものに他ならないかもしれないのだ。秀英は、事の重大さと、そしてこのことを未来に知らせなければならない時のことを考えて思わず身震いする。


 そしてミーシャは、張将軍からの再確認に頷くしかない。それが自分の眼で見た、耳で聞いた厳然たる事実なのだ。

 あの獦狚ゴーダンは、未来みくさんの知り合いだったのか――ミーシャは、どうしていいか分からない。ただ、それを知った彼女はとても悲しむだろうなということは理解できた。


 悲しむと言えば――

 未来さんと連れ立っていたあの小柄な少女も李軍リージュンに捕まっていた。手術をする、とも言っていた……一体どうなっている――!? 

 彼女の周りの人間が、次々と李軍によって怪物に仕立て上げられている。

 偶然なのか、それとも……


 その時、張秀英の携帯端末が突然鳴った。緩慢とした動作で端末をポケットから取り出すと、通話モードにする。すると――


『あぁ! 将軍ですか? ――あの……大変ですっ!』


 電話をかけてきたのは未来だった。詩雨シーユーの一件以来、不思議な信頼関係を築いている敵軍の兵士。


「――おぅ、未来か!? どうしたんだ慌てて――」

『詩雨さんがっ!! 詩雨さんがいなくなりました!!』


 その言葉が意味するところを秀英の頭が理解するまで、少しだけ間があった。


「――な……なにッ!?」

『詩雨さんがッ! 行方不明ですッ!!』


 電話口の向こうで、未来が叫んでいた。


  ***


 未来は途方に暮れていた。

 先日の張将軍と三人でのディナーの席で……将軍が酔いつぶれて眠っていた時に詩雨が発した言葉――「私を、殺して」

 あの時は「何を馬鹿なことを」と相手にしなかった――というより、そんな悲しいことを言わないで、と未来の心が防衛本能を働かせて、彼女の願いを遮ってしまったのだ。

 あれから何日か経ち、未来はあらためて詩雨の家を訪れた。そんな遣り取りなどなかったかのように、普通に振る舞おうとして……

 ところが、いつも必ず在宅しているはずの詩雨の姿が今日に限って見当たらないのである。いや、いなくなったのはもしかするともっと何日も前かもしれなかった。だが、そもそも彼女が勝手に独りで出歩くはずはないのだ。あんな異形の姿で、外を出歩けるわけがない。

 部屋の中はほとんど乱れていなかったから、キメラの襲撃に遭ったわけでもなさそうだった。ならば当然、誰かに連れ去られた、とみるべきだろう。


 困った未来は、とりあえず詩雨の実の兄である将軍に至急連絡をしたという次第だ。すると彼は、当然のことながら驚愕し、腹を立て、嘆き、大いに悲しんだ。そのうえで「自分は表立って探せないから、未来の方でも探してみてくれないか」と頼まれたのである。彼は彼で、華龍関係者や、そして彼女の治療を行っている李軍も探ってみる、と言って電話を切ってしまった。

 未来は将軍がてっきり華龍の兵士を総動員してでも捜索隊を立ち上げてくれるものだと思っていたから、秀英の反応にはいささか面食らった。こんな時、士郎くんだったら私の想像どおりに行動してくれるのに……と、何故だか石動士郎のことを考えてしまう。

 若干苛つきながらも、それでも将軍には将軍の立場があるし、考えもあるのだろう――と思い直し、ひとまずひとりで彼女を探してみることにしたのだ。


 それにしても……いったいどこを探せばいいのだ!?

 詩雨が連れ去られた、というのが事実だとすると、やはりキメラ関係者か!? まさかハルビンに来て最初に見たあの「」に連れていかれた……とか!? 昔の日本の保健所のように、誰かがを片っ端から捕まえて、処分場送りにしているというのか!?

 それとも、どこか人目につかないところに、何らかの意図を持って連れ去ったのか!?


 陽は徐々に傾きつつあった。

 またもや、獦狚ゴーダンの徘徊する時間帯に差し掛かろうとしていた。早く探さないと、街は固くその扉を閉ざし、人々は他人に関わらなくなる。

 取るものもとりあえず、未来は詩雨の粗末なアパートを飛び出した。探すとしたらひとまず、人目に付きにくい場所だ――将軍の話によると、いくらキメラという存在に慣れたこの街の人でも、詩雨ほどの異形ともなるとやはり相当の違和感を覚えるらしい。それが彼女の尊厳を傷つけることを恐れて、そもそも将軍は彼女を人目から遠ざけたのだ。


 無事でいて――未来は全力で駆け出した。

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