第134話 人類の選択

 か弱い人間が、如何にして弱肉強食の食物連鎖から生き残ってきたのか――

 李軍リージュンの講釈が始まった。


「将軍――人間がオオカミに噛まれたらどうなりますか?」

「……それはもちろん……大怪我を負って……場合によっては死ぬこともあるでしょう」

「正解です。では逆に、人間がオオカミに噛みついたとしたら、オオカミはどうなると思いますか?」

「どうって……オオカミはびくともしないのでは? 人間が噛みついたって、たかが知れている」

「それは……何故ですか?」


 馬鹿にされているのか!?


「なぜかって――それはもちろん、オオカミは鋭い牙を持っていて、人間は持っていないから、噛みついた時のダメージに大きな差があるからでは!?」

「そのとおりです! それこそがまさに人間の進化の選択だったのです」

「進化の――選択……?」

「そうです。あらゆる生き物は、数百万年という途方もない年月をかけ、生存戦略として自らを進化させてきた。先ほど私は“強いものが生き残る”と言いましたが、正確には“正しく環境に適応できたものが生き残る”という表現のほうが適切です。それがつまりという意味です。

 生物としてあれだけ戦闘力の高かった恐竜が絶滅したのは、激変した地球環境に適応できなかったからです」

「うむ――」


 それは古生物学などの世界で既に確立された理論だ。だが、恐竜の絶滅と人類の進化にどういう関連性があるというのだ?


「これを『適者生存の原則』といいます。――ということは、図らずも人間は『適者』としてこの数百万年を生き残ってきたとも言えます。将軍、人類発祥の地がどこだか、ご存知ですか?」

「あ、アフリカ……と聞いたことがあるが……」

「よくご存じですね!? アフリカ大陸では、古い人類の祖先の化石がいくつも発見されています。――ところで、人間に一番近い生き物は何か、ご存知ですか?」

「……サル? いや、チンパンジー!?」

「その通りです。ただし、人間はチンパンジーが進化したものではありません」

「ち、違うのですか?」

「もちろん違います。人類は、今からおよそ七百万年前にチンパンジーと進化の系統が分かれたとされています。そこから、人類は人類として、チンパンジーはチンパンジーとしてそれぞれ独自の進化を遂げた――チンパンジーから人間に進化したわけではないのです」


 ゴホン――と李軍は咳払いした。


「その代わり、人類の系統樹はいくつもの種に分かれていた――その数は一説には25種と言われています。もしかしたらもっと多かったかもしれません」

「人間に、いろいろな種族がいた、ということですか?」

「そうです。一番有名なのは、ネアンデルタール人とかですかね。私たち現生人類ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は、同じ『人類』ですが、生物学的には別の種族です――おっと、ここでいう『別の種族』とは、今でいう『人種の違い』とはまったく次元の違うものですよ……お間違えなきよう」

「種族……人種……何が違うのです?」

「人種とは、あくまで西洋人とか東洋人とかアフリカ人とか、同じ現生人類ホモ・サピエンスの中での些細な外見特徴の違いでしかありません。生物学的な機能としてはまったく同じ種族だ。

 ですが『種族が違う』というのは、これはもう骨格構造から脳容量、一部身体の機能まで、明らかに生物種として異なることを指します」

「ふむ……」

「――分かりにくいですか? たとえて言うなら、ファンタジーの世界にでてくるヒューマンやエルフ、ドワーフ、巨人族のような違いのことを『種族が異なる』と定義するのです」

「おぉ、それは分かりやすい例えですね」

「良かった――そして我々現生人類ホモ・サピエンスは、この25種いたとされる種族の中で、唯一現在まで生き残っている人類種なのです」

「他の種族は……?」

「もちろん絶滅しました――私たち現生人類ホモ・サピエンスは、他の種族との激しい生存競争に打ち勝ったのです」

「それは……現生人類が一番頭が良かったから?」

「当たらずとも遠からず、といったところです。しかし、先ほどの話を思い出してください。今、地球上の生物の中で一番頭が良いとされている我々人類も、裸でサバンナに放り出されたら生き延びるのは限りなく困難です」

「そうですね――我々には牙がない」

「まさにそこです。なぜ人類は、生き残るためには極めて有効な『牙』を捨ててしまったのでしょうか? あるいはのでしょうか!? 

 ――生物の生存戦略とは、選択の連続です。生き残るためには、その都度その瞬間に最も相応しい選択をしていく必要がある。まだ十分知能が発達しておらず、特別な武器も持たなかった数百万年前の人類は、自らを守る大切なであったはずの『牙』を捨てるという選択をした――

 これに対し、七百万年前に同じ系統樹から別れたチンパンジーは、今でも大きな『犬歯』――すなわち『牙』を持っています。ではなぜ、今や我々人類の生息域がチンパンジーのそれを大きく上回っているのでしょうか? 種の繁栄という意味では、完全に我々が勝利した」

「……それは……」


 秀英シゥインには答えられなかった。普通に考えると、遥か昔の人類は選択を誤ったとしかいいようがない。だが、現実には牙を捨てた人類が生物の覇者となった――


「――人類が、種として脆弱な生き物となったのは、まさにここが分岐点だったのです」


 李軍リージュンは、まさにここが一番重要なポイントなのだと言わんばかりに立ち上がった。秀英は李の次の言葉を待つ。


「――それは――人類が『生存戦略』の大転換をしたからです」

「……と、いうと……?」

「人類は、この時点で外敵と戦うことを止めた――ということです。その代わり……」

「その代わり?」

「――ライオンやヒョウに喰われる以上に、

「――――!!」


 李軍は、自分の言葉が秀英の腹にキチンと落ちるのを少しだけ待った。


「――それは、大きな発想の転換でした。

 もともと人類は、森林での生存競争に負けて、平原サバンナに逃れてきた種だとされています。ところが、サバンナにはさまざまな危険が待ち受けていた。

 チンパンジーやゴリラなど、明らかに生物学的には人類よりも優れた身体能力を持った類人猿でさえ、サバンナにいるライオンやヒョウに襲われたらひとたまりもありません。だが彼らは幸い森林に棲んでいた。たとえ天敵に襲われたとしても、樹上に逃げれば簡単に猛獣の恐怖から逃れることができたのです。

 ところが森を追い出された人類は、襲われても逃げ延びる樹木がない……たとえ巨大な犬歯を持っていたとしても、所詮人類の身体スペックでは、獰猛な肉食動物に勝ち目はないのです。

 逃げ場もない、戦っても絶対に負ける――そうなったら、種として生き延びるためにはどうすればいいですか?」


 そうか――そういうことか!


「――殺される以上に、産むしかない……」

「その通りです。だから、人類は実は非常に多産です。多産といっても、一回当たりの出産個体数が多いわけではない。生涯に産める個体数が多い、という意味です。

 たとえば、チンパンジーやゴリラには『年子』というものが存在しません。一回出産すると、授乳期は4、5年に及びます。その間彼らはずっと子育てしていて、子供が親離れしたあとようやく次の交尾に取り掛かる。つまり、次に出産可能になるのは6、7年後です。チンパンジーの寿命は約50年ですが、メスが出産可能年齢に達するのはおおよそ12から15歳。そこから死ぬまで出産は可能です。ですからこの出産サイクルを当て嵌めると、一匹のメスチンパンジーが生涯で産む子供はせいぜい6匹程度です。

 これに対し人類の授乳期間はせいぜい2、3年。出産して数か月も経てば次の交尾――おっと、人間ですから性交といいましょうか――が可能となるため、連続して子供を出産することが出来るのです。

 もちろんこれには「人間には発情期が存在しない」という生物学的な特徴も要因として挙げられます。チンパンジーを始め、基本的に類人猿にはすべて発情期が存在し、それ以外の時は一切交尾しません。

 ところが、多数の個体が喰われ、常に種の存続が危ぶまれていた人類は「発情期」という機能を喪わせることで、チャンスがあればいつでも子作りができるように自らをモデルチェンジしていった。

 20世紀の半ば頃まで、女性は実に多くの子供を産みました。第二次大戦以前は、兄弟姉妹が10人以上なんて家はざらにあった。これは、人類が文明を築き、サバンナの恐怖から抜け出して以降も、ごく最近まで多数の個体が生き延びられなかったことに影響していると言われています。戦争、飢餓、病気……人類は常に滅亡の危機にあった。それを克服したのは他でもない、より多くを産むことによって、種全体としての個体数の減少を防いだのです」


 秀英は圧倒されていた。いつも李軍のことを妖怪だと毛嫌いしていたが、さすがは中国を代表する科学者だけのことはある。これほど人類学に造詣が深いとは――


「さて、人間はなぜ『牙』を捨てたのか、という話に戻りましょう。

 もちろんそれはになったからです。どのみち勝てないライオンに立ち向かうために、チンパンジーのような巨大な牙を持っておくのは極めて非効率だったため、自然選択の結果として犬歯を限りなく退化させたのです。今と違って数百万年前の人類は、毎日ギリギリのカロリーでその日暮らしの生活をしていた。これに対し、役に立たない『牙』――骨格――を維持するには、多くのエネルギーを必要とします。進化の選択として、不要なものを捨て去った」

「でも……それならライオンに襲われる可能性が人類よりも極めて低かった、森の生活を送るチンパンジーだって『牙』は不要なんじゃないでしょうか?」

「――さすがに鋭いですね……ですが、チンパンジーたちには引き続き『牙』が必要でした。ゴリラも、サルも、ヒヒも……およそ類人猿と呼ばれる種の大半には絶対に『牙』が必要な理由があるのです」

「……それは……!?」

「メスの奪い合いですよ」

「――なんと!?」

「ほとんどの類人猿は、一夫多妻制か多夫多妻制です。たとえばチンパンジーは群れの中で『乱婚』といって、特定のパートナーを持たず、その都度発情期に入ったオスとメスが交尾します。その比率は、メス1匹に対してオス10匹程度。でも、交尾に成功するオスはたった1匹です。こういった集団内では、メスを巡るオス同士の争いが多発します」

「類人猿の牙は、仲間同士で戦うためのもの――!?」

「そのとおりです。でも、群れを作るという点においては人類も同じだったでしょう。現に今でも人間は、村、町、都市、国家……などという社会集団を作って暮らしている」

「――であればなぜ、人間は牙を残さなかったというのか……!?」

「簡単なことです。人間は群れを作る動物の中で唯一『一夫一婦制』を採用したからです。交尾――いえ、性交をする雌雄の比率は一対一。オス同士がメスを巡って争う理由が存在しなくなる」

「だが、別にメスを巡る争いではなくとも、トラブルは発生するだろう。今だって、人間同士は常にいがみ合っているではないか!?」

「ですが人間はどんなに争っても……本来相手を殺すところまで攻撃しない――いえ、殺せないのです物理的に……」

「しかし……現に今だって殺人は起こる……」

「ふふ……それは屁理屈です。現代の複雑な人間関係と、数百万年前の原始人類の社会性とを同列に見ないでください。

 チンパンジーやゴリラは、争う時に歯を剥き出しにします。それは、自分の持つ『凶器』を相手に見せて威嚇しているからです。そして、争いがエスカレートすると今度は実際に相手に咬みつき、その鋭い犬歯を相手に突き立てます。これによって相手が実際に死んでしまうことはよくあります。

 ところが人間は、噛みついたところで所詮致命傷にはならない。せいぜい“痛い目に遭わせてコリゴリだと思わせる”程度です。

 類人猿の中ではもっとも穏やかな気質として知られるボノボというチンパンジーの親戚ですら、体長はわずか80センチ程度であるにも関わらず、その犬歯――牙――は人間よりも遥かに大きい。

 つまり生物学的には、基本的に人類は戦いを好まない、極めて穏やかな生き物だと言えるでしょう。

 すなわち人類は平和主義で、戦って勝つことよりも、より多く産んで子孫を残す、という生存戦略を取った――」

「だから……人間は脆弱な生き物だと――」

「そのとおりです! そしてそのあと人類が如何にして生物界の頂点に立ったのか、という話は、これ以上に興味深いものがありますが……今は横に置いておきましょう。

 ――将軍の疑問は、私が何故人間の獣化を進めているのか……ということでしたな?」


 そうだった――

 李軍の話が思いのほか興味深くて、つい自分の問いかけを忘れるところだった。


「あ、あぁ……そうです。なぜ人間に獦狚ゴーダンの遺伝子を組み込んで獣化をしようとしたのか、ということです」

「――そうしないと、我々が生き残れないからですよ」

「どういう……ことですか……?」

「今の人類は、戦うにはあまりにも生物学的に弱すぎる――この戦争に勝つためには、七百万年前の分岐点に戻って、自ら捨て去った凶器を再武装しないといけないのですよ……

 殺される以上に産めばいい? 今は、そんな牧歌的な時代ではない。核の時代は、殺されるときは根こそぎ――絶滅なのです。次の世代が育つ間もなく、我々中国人は根絶やしにされるでしょう。

 つまり――勝つか負けるか。勝てば生き延びられるし、負ければ絶滅させられる。結果は二つに一つです。すなわち、我々は目の前の戦いに絶対に勝たなければならない。

 人間の獣化は、そのためにどうしても欠かすことのできない必要悪プロセスなのですよ――」

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