第122話 兵士の純情

 神代未来みく華龍ファロンの司令部に連れてこられてから、既に一週間余りが経過していた。


 異例の「客人ゲスト」扱いということで、当初司令部内には一種異様な緊張感が漂っていた。なにせ相手は日本兵である。司令部の兵士たちで日本兵に恨みを持たない者はいない。彼らは多かれ少なかれ、日本軍に家を焼かれ、仲間や身内を殺された経験を持つ。もちろん自分たちが今や「反政府軍」として、民主中国政府から敵視される存在であり、世界中でテロ行為を繰り返しているせいで他の外国軍からも討伐対象とされているということは理解しているのだが、そんな自分たちのことは棚に上げてでも、それでも日本軍だけは許しがたいのだ。


 その感情は、元々中国共産党が人民に長い間反日教育を施していたことに由来している。

 近代に入ってからも、19世紀末には日清戦争で敗北し、20世紀初頭からの義和団事件の鎮圧、それに引き続く日中戦争など、中国は一貫して日本に負け続けていた。第二次大戦の戦勝国として中国は国連の常任理事国入りを果たしたが、実のところ毛沢東の八路軍――人民解放軍の前身――は日本軍に勝ったことがない。日本軍が中国大陸で降伏したのはあくまでアメリカに敗北したためであって、当時は八路軍側ですら、日本軍を打ち負かしたと考えていた者はいなかったのである。たが、共産党はその後の中華人民共和国建国にあたり、自らの正統性を喧伝するために「八路軍すなわち共産党軍は日本軍と戦って勝利した」という神話ファンタジーを中国人民に植え付けたのだ。

 ただし当初はこれさえも、あくまで台湾に逃れた国民党軍を貶めるための一種の宣伝戦であり、実際には日本に対して反日政策をとっていたわけではない。事実、戦後の日中国交正常化以降しばらくの間は、政府間レベルで日中は極めて友好的であったし、民間レベルでもこの頃の日本人の対中国観は極めて良好であった。日本にパンダブームが起きたのもこの頃だし、一足早く高度経済成長を実現した日本は巨額の円借款を中国の近代化のために供与し続けた。民主化の嵐が吹き荒れ、天安門広場で人民解放軍が自国民に銃を向けた時も、世界で最初に中国を許したのは日本である。


 これが一転したのは、21世紀に入り、中国が改革開放経済の舵取りを間違えて経済的に苦境に立たされてからのことだ。中国経済に暗雲が立ち込めると、共産党指導部は自国民の不満を外に向けるため、計画的な反日宣伝を繰り返したのである。「南京大虐殺」など、捏造の歴史が創造クリエイティブされたのもこの頃のことだ。

 中国全土に吹き荒れた反日デモの嵐、そして日系資本への焼き討ち、略奪は、街頭での集団示威行動が一切認められていない独裁国家・中国で自然発生的に起きるわけがないのである。

 その後、中国政府による計画的な反日キャンペーンは次第に沈静化する。中国が南シナ海を内海化し、〈一帯一路構想〉をぶち上げて世界各国と小競り合いを繰り返すようになったからだ。さらにこの頃、中国はアメリカと決定的な対立に至る直前であった。反日をしている余裕がなくなったのである。


 だが、共産党による「愛国無罪」政策は、抑圧された中国人民に口実を与えてしまう。一度許された反日ブームはことあるごとに人民に利用され、共産党が求めていなくても人々は「反日」を隠れ蓑に勝手に集会を開き、不満をぶちまけるようになった。

 だからこの頃の中国人民は、まるで「息をするように反日をする癖」がついてしまっていた。海外旅行が大幅に解禁され、多くの中国人が雪崩を打って日本旅行を繰り返すようになっても、長年のこうした風潮の中で、人々の集団無意識の中に「日本は悪の帝国」というイメージが相変わらず育まれていたのは当然であった。


 今の華龍ファロンに加わっている兵士たちの祖父母、両親世代は、こうした「反日世代」である。小さな頃からその影響を受けて育った子供たちの世代は、当然ながら何の根拠もなく日本に敵意を抱いている。

 そこへきて今回の米中戦争からの日本軍大陸進出である。百年前の日中戦争の亡霊が彼らの感情を支配する中で、実際に日章旗と旭日旗を掲げた軍隊が、目の前で自分たちの郷土を制圧していく姿は、愛国中国人としては到底許されることではなかったのだ。


 だが、この美しい日本人少女が目の前に現れたことで、彼らの自己同一性アイデンティティは激しく動揺する。彼女があまりにも魅力的だったからだ。


  ***


 その華龍の若い兵士は、いつもなら適当にやり過ごす格闘訓練に、今日は一日全身全霊を込めて全力で取り組んでいた。既に身体中痣だらけで、ところどころ擦り傷を作り、あちこちから血が滲んでいる。上半身裸で、全身から汗が吹き出し、息もあがっているが、それでも集中力を切らすつもりは毛頭なかったのである。

 この兵士だけではなかった。今日は、分隊全員が物凄い気迫で訓練に励んでいるのだ。


 その理由は明らかだった。自分たちが陣取っている練兵場の一角。その端にある古いベンチに、今日はずっと銀髪の少女が居るからだ。

 少女は、腰までかかる艶やかな長い銀髪を時折風になびかせ、心配そうに自分たちをじっと見つめていた。すっと通った鼻筋、桜貝のような唇、白磁のような白い頬、そしてうっすらと青白く光る不思議な瞳。その表情はまるで天使のように優しげで、自分たちをまるで――実は勘違いなのだが――恋人のように見つめていた。

 しかも、身体にピッタリとした日本軍のスーツを着ているせいで、その引き締まった体躯と長い手脚、華奢な肩、くびれた腰、適度に膨らんだ胸と尻が必要以上に強調され、若い兵士たちの頭の中には彼女の裸体が勝手に脳内再生されている。

 普段とびきりの美少女とこんなに間近に接する機会など皆無の彼らにしてみれば、神代未来の容姿は反則以外の何物でもなかった。

 最初「所詮日本人じゃねえか」と強がっていた兵士もいたが、僅かな休憩時間の時に彼女が兵士たち一人ひとりに冷たい濡れタオルを手渡してくれた瞬間、全員が彼女の虜になってしまったのである。


 中国人の女性は基本的に気が強い。気が強いだけではない。時として男性を小馬鹿にする態度を取ることがある。特に、男の集団の中にひとり女性がいる場合――まさに今の彼らと未来のような状況だ――まるで自分がお姫様のように振る舞うことが多いのだ。

 ところが彼女の場合はそのような横柄な態度を取るどころか、訓練に励む彼らをある種敬意リスペクトの眼差しで見つめていることが分かるのだ。

 兵士の一人が張り切り過ぎて脚をくじいた際も、彼女はためらうことなく駆け寄って、彼を優しく介抱してくれた。汗まみれで泥まみれの兵士を嫌がりもせず、その華奢な肩を貸してベンチに連れていき、何やら応急キットのようなものを取り出して兵士の脚を固定してやったのである。

 その後の大休憩――昼食時間のことだ――で彼が分隊のみんなから質問攻めにあったのは言うまでもない。兵士はまるで夢でも見ているかのように、彼女の優しさ、そして美しさを語って聞かせた。彼女の身体からは何やら甘い匂いが漂っていたという彼の証言は、兵士たちを恋に落とすのに十分なエピソードだった。彼女はただ美しいだけではなく、その性格はとても優しく気配り上手で、そして女性らしさを兼ね備えた、完璧な存在だ――

 そして誰もが彼女と少しでもお近づきになりたいと願った結果、男らしく厳しい訓練に励む姿を見せつける、という極めて単純な行動に走ったのである。

 もはや彼女が「日本人」であるとか「敵軍の兵士」であることなどは、彼らの中ではどうでもよくなっていた。だって彼女は事実、将軍の「客人ゲスト」じゃないか。ということは、彼女は決して我々の敵じゃないのだ。ここで出会ったのが運命なのだ。俺が絶対、彼女のハートを射止めてやる!


 ――そうこうしているうちに、教練の時間は終わりを告げた。

 分隊長は、兵士たちが明らかにやる気を出していたことにとっくに気が付いていた。なにせ兵士たちのリクエストで、今日は二回も教練時間を延長したのだ。さすがにこれ以上は無理だろう。

 最後に整列して訓練を終えた時、少女は解散した兵士たち全員に向かって頭を下げ「ありがとうございました」と声を掛けた。「ありがとう」という日本語は、外国人が知っている日本語の中で一、二を争うメジャーな言葉だ。だから兵士たちも彼女の言葉の意味は十分理解でき、それがさらに彼女の評判を押し上げる結果となった。

 今夜の彼らの話題は間違いなく未来一色だろう。明日も見に来てくれるんだろうか。彼女が居れば、兵営生活もそう悪くないかもしれない。


  ***


未来みくさん、兵隊の見学、役に立った?」


 クリーが少し困惑したような顔で話しかけた。

 彼女にしてみれば、あんなもの見学して何が楽しいのだ、といったところである。


「えぇ、もちろんです。彼らの練度を確かめたかったので……」

「ふぅん……でもサポート大変だったんじゃないですか」

「そうでもないですよ? 私、ああいうの苦にならないんです」


 未来がヂャン秀英シゥインに「兵士たちの訓練を見学したい」と申し入れた時、張は「彼らのサポートをしてくれるなら」という条件をつけた。未来がタオルを用意したり、怪我をした兵士を介抱したりしていたのはそれが理由だ。

 もっとも、彼女自身はクリーに言った通り、そういうことが特に苦にはならない性格だ。基本的に、人の世話を焼くのが好きなのだ。というより「放っておけない」性格とでも言おうか。

 だから大抵の童貞は未来の態度に勘違いをしてしまう。彼女のこの性格は、長い間のPAZ生活で自然に身に着いたものだ。誰もが助け合わなければ生き延びられない過酷な暮らし。そんな中で、努力や苦労をした人には自然にいたわりの言葉が出るし、困った人がいれば当たり前に手を差し伸べる。

 たしかに、彼女ほどの美しい娘が自分に対して飾り気もなくそのような態度を取ってくれば、恋愛経験の少ない男が「自分に好意を向けてくれているのだ」と勘違いしても仕方がないのかもしれなかったが。

 だが、未来のこの無邪気な態度が、後に兵士たちに大きな波乱を巻き起こすとは、この時点で誰が予想できようか――


  ***


 浩宇ハオユーはこの日、消灯時間になってもまったく寝付けなくて、何度も何度も寝返りを打っていた。

 今日は本当に夢のような一日だった。いつもは嫌で嫌で仕方がなかった格闘訓練や持久走も、まったく苦にならなかったどころか、身体中に闘志が漲って普段の何倍も頑張って訓練した実感がある。

 それもこれもあの美しい少女が原因だ。

 正直、なんで自分は日本人に生まれなかったんだろうと思ったくらいだ。もし自分も日本軍の兵士だったら、あの少女と仲良く友達になれたかもしれなかったのに。

 いや、どういういきさつで彼女が今、自分たち華龍ファロンの基地にいるのか見当もつかなかったが、どうせなら彼女も今からでも華龍に加わってくれないだろうか、と思ってみたりもした。だって、うちには漢人だけでなく、いろんな人種の兵士がいるじゃないか。さすがに日本人は見たことがないが、ロシア人も、アメリカ人も、昔、朝鮮人と呼ばれていた故地喪失者ボヘミアンだっている。だったら彼女が華龍に入る可能性だってあるんじゃないか。

 そう考えると、いてもたってもいられなくなってきた。そしてまた、目が冴えていくのだ……


 結局のところ、戦争なんて国と国とが争っているだけで、末端の人間同士は別にお互い恨みがあるわけではないのだ。そりゃあ確かに、日本軍に仲間が何人も殺されているから、恨みがあるといえばある。戦場で何度か遭遇した日本兵たちは、皆全身をロボットのような装甲で覆い、まるで宇宙人のような出で立ちだったし、奴らの武器は恐ろしく強力で、無人機はしょっちゅう俺たちを追いかけてくる。

 でもそれは、戦争だからお互い戦っているだけであって、鬼のような日本兵も、装甲を脱いでみればあの少女のように美しい人間かもしれないのだ。実際、彼女だって兵士なんだろう? もしかしたら今まで自分が戦っていた相手の中に、彼女がいたかもしれないじゃないか。


 浩宇ハオユーは今までただ闇雲に日本軍に対して抱いていた「憎しみ」とか「怒り」「敵意」というものが、実のところ実体のない空想なんじゃないかとふと思ったりもしてみるのだ。まぁ、こんなことを本当に口にしたら、裏切り者のレッテルを貼られて、下手したら粛清されるのは目に見えているので、あくまで頭の中で考えるだけなのだが……


 彼女と個人的に話す機会はあるだろうか!? まだ名前すら知らないのだ。もしかしたら、食堂で一緒になるタイミングがあるかもしれない。

 もしいたら、思い切って話しかけてみよう――

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