第104話 特殊作戦群
士郎の懸念は一気に現実のものとなりつつあった。
必死で手錠の縄をほどき、つい先ほど見張りの男の足音が途絶えた共同便所の裏手に走る。
案の定そこには、既に
喉笛を掻き切られ、悲鳴を上げることすらできなかったのだろう。男の表情は苦悶に歪み、その黒くて深い首の裂け目からは未だに大量の鮮血がドクドクと溢れ出していた。さらに彼の左脇部分には大きな赤い染みが拡がっていた。辺りには、やけに鉄臭い独特の臭気が漂う。
――このやり方は、どう考えても特殊部隊のそれだった。喉を切り裂き、トドメとばかりにそのまま脇から心臓を一突き。
恐らく士郎たちがこの共同便所に来た時点で、襲撃者は既に裏に潜んでいたのだ。そこにノコノコとこの男がやってきて、躊躇なく殺害された。音もなく。
そして襲撃者は再び幻のように夜陰に紛れていったのだ。
慌てて周囲を見回すが、その痕跡や気配は当然ながら既にない。
士郎の心臓が、まるで早鐘を打ち鳴らすように警告を発し始めた。これは、下手したらレンジャークラスの部隊どころではないかもしれない――
手錠姿のまま、士郎は大急ぎで集落へ取って返そうとして……はたと立ち止まった。
このまま大声を上げて住民たちを叩き起こし、軍の襲撃を集落全体に伝えるか。それとも当初の予定通り士郎の方から襲撃部隊に保護を求め、ピンポイントで作戦目標である
情けないことに、士郎は襲撃部隊のほうが先に実力行使に出ることを想定していなかった。今さらながら、彼らの作戦目的が三人の「確保」とは限らない……ということに思い至る。
もしそれが「確保」ではなく、「抹殺」だったとしたら……!?
迂闊に出て行けば、士郎ですら身の安全は保障されないかもしれないのだ。多くの場合、作戦目的を果たすための
さらに言えば、抵抗してきた住民はもとより、場合によっては非戦闘員の子供まで、作戦遂行に支障のある対象はすべからく排除するよう、この作戦の
皆殺し――という言葉が頭に浮かぶ。
そうなると、まずは敵情の把握が不可欠だった。いったいどんな部隊が、どれだけの戦力でこの集落を包囲しているのか。
士郎は必死で頭を働かせる。敵の布陣も、なんとか見極める必要がある。現時点で、集落の外側にいるのか、既に内部に侵入しているのか――そういえば、見張りはどうなった……!?
集落をぐるりと取り囲むような位置にある合計六か所の木の上で、不寝番が夜通し監視をしている筈だった。手始めに、士郎はここから一番近い監視木の様子を見に行くことにする。南南西の方角、ここから300メートルほど先に立つ大きなブナの木だ。
相変わらず士郎は、両手を手錠で拘束されたままという非常に不便な格好のままであったが、ブナの木に向かって慎重に前進を始めた。鬱蒼とした森は夜空の僅かな明かりさえも遮って、足許はほぼ真っ暗だ。何度も躓きそうになりながら獣道を歩いていると、ほどなくして前方に黒々とした大木の影が見えてきた。樹上にざわめく梢の奥の方に、今夜の見張り当番が登っている筈だ。だが――
事態はいよいよ一刻を争うことが決定的となった。
ブナの太い枝から力なく吊り下がっていたのは、見張り当番の女――集落でも何度か見かけた、二人の幼い子供の母親だった。
彼女は、まるでてるてる坊主のように首をガクリと胸の方に落とし、手脚はダラリと垂れ下がって、その身体全体がゆっくりと回転していた。つい今しがた樹上で襲撃され、恐らく
間違いない……彼らの目的は殲滅だ――
集落のはずれにある共同便所での襲撃といい、周辺警戒のために森に突出した見張り番の排除といい、襲撃部隊の意図は、戦闘エリア全域の完全無力化による目標施設へのスムーズな
この分だと、他の監視木の見張り役も十中八九全滅だろう。あれだけ準備した外周柵や鳴子代わりの空き缶吊るしも、やはり何の役にも立たなかった。彼らはゲリラやテロリストの
もはや一刻の猶予もないと判断した士郎は、今しがた来た道をとんぼ返りする。
自由にならない腕がつくづく恨めしい。森の中は起伏が激しく、あちこちに大蛇を思わせる木の根がのたうちまわっていた。焦っていたのか動揺していたのか、士郎は何度もそれに躓き、そのたびにバランスを失って派手に地面に叩きつけられた。おまけに、ちょうど人の背丈ほどのところに繁茂している低層木の硬い葉や細かい枝が、士郎の顔や腕を地味に傷つけていく。距離にして僅か数百メートルであろうか。ようやく集落の建物が見える距離まで戻った頃には、士郎の全身は泥まみれで汗まみれ、おまけに血だらけだった。
そして――
深い森がようやく途切れ、あと20メートルほど進めば完全に茂みから出て少し開けた場所に出るというその瞬間、士郎はついに襲撃部隊の兵士を目の当たりにする。
士郎の視線の先には一軒の粗末な掘っ立て小屋があって、男が二人、小屋のすぐ外で地面に直寝していた。傍には小さなコールマンのファイヤープレイスが無造作に置いてあり、就寝前は焚火を囲んで談笑していたことが窺われた。もちろん、まったく警戒する素振りはない。
そこへ密かに近づく影が二つ……いや、三つか。
目標が寝込んでいることに気付いたのか、影は躊躇することなくすくっと立ちあがり、コンパクトに抱えた短銃身のライフル様の何かを男たちに向けた。そのほんの数秒後。
プスップスッと小さな音が聞こえたかと思うと、就寝中の男たちが数度痙攣し、すぐに大人しくなった。
襲撃者はすぐに、小屋の戸口の両側に張り付き、扉をスッと押し開いた。すると三人目がスッと前に出て低い姿勢で素早く小屋の中にエントリーする。続いて二人目。最後まで戸口に立っていた影は一瞬だけ周囲を警戒し、すぐにくるりと身体を回転させて扉の奥に消えていった。絵に描いたような見事な家屋侵入手順。
ほどなく、小屋の中から小さなくぐもったような声が数回聞こえて、それっきり静かになった。すぐに三人が戸口から外に出てきて、何事もなかったかのように隣の家屋へ向かう。一人が右手に大きなコンバットナイフを握っていた。
あの小屋には確か老夫婦が住んでいた筈だ。外で寝ている間に殺された男二人は、集落の若手だった。恐らく老夫婦が男たちに夜の見張りを頼んでいたのであろう。だが、あっという間に全滅だった。
「……くそっ……」
士郎はどうしようもない怒りに駆られていた。目の前で、何の罪もない一般市民が殺害されたのに、自分は手錠を嵌められたまま、ただ見ているしかなかったのだ。
いや……厳密には違う。今の言い草だと、まるで手錠されているせいで自由に動けず、助けに行けなかったと言っているみたいじゃないか。本当は、恐怖で身体が竦んで動けなかったのだ。
あの連中はレンジャー部隊どころではない。
参謀本部直轄の超エリート兵士集団――
夜間作戦を想定した、全身黒ずくめの戦闘服。防弾ベストの上のコンバットハーネスにはいくつもポーチが付いていて、背中には小型の背嚢を背負っている。肩、肘、膝にはプロテクター。頭部は、七連式暗視装置を装着した特殊作戦用のコンパクトな半鉄帽。ただし左耳から顎にかけては被覆されていて、その部分には何らかのセンサーか連絡装置と思しきボックスユニットが固定されていた。顔面は真っ黒にドーランが塗られていてその表情は一切窺えない。
基本武装は
陸軍の戦闘部門に所属する全兵士40万人のうち、いわゆるレンジャー資格を持っている兵士が約一割、四万人。彼らは約三か月間におよぶ過酷な選抜試験をくぐり抜けた精鋭で、ありとあらゆる兵器の操作に精通し、各種
だがここにいる特殊作戦群の兵士たちは、さらにそのレンジャーたちの中から特別に選抜され、約六か月間におよぶさらなる壮絶な選抜試験をくぐり抜けた最精鋭だ。その兵員数は軍機として一切明らかにされていないが、千人にも満たないという。まさにプロの中のプロ。戦闘のエキスパート。精強無比という言葉がこれほど似合う連中もいないだろう。
彼らの別名〈タケミカヅチ〉は、古事記に出てくる
諸外国の軍隊やテロリストたちも、日本陸軍の
そんな「人間兵器」のような連中が、いま目の前でよりにもよって自分たちに銃口を向けているのだ。その評判をよく知る現役軍人ならなおさら、彼らの名を聞いて怯えないほうがどうかしている。
とてもじゃないが勝ち目はない――士郎は素直にそう思った。
だが同時に、たかが二名の脱走兵を殺害するために、軍はどれだけ本気を出してきたのかと思いかけて……すぐに合点がいった。
桁外れの戦闘力を持つ
であればなおさら――
士郎はこの瞬間、彼女の恐るべき戦闘力をむしろ
彼らを圧倒し、よしんば制圧できれば……軍は彼女の抹殺を諦め、むしろ懐柔に転じるのではないだろうか。泣く子も黙る特殊作戦群でもオメガには歯が立たない、という事実を突きつければ、文はもちろん、オメガ小隊の他の子たち、ひいては繭ちゃんの扱いにも大きな変化が生じるかもしれない。
もちろんそれで彼女の罪自体が消えるわけではないが、少なくともこんな風に一般市民を巻き込んで、集落全体を皆殺しにするような非人道的な作戦は中止されて然るべきだ。
今はどことなく、軍全体にオメガに対するある種の偏見があるように思えるのだ。それはきっと「自分が理解できないものを否定し、排除する」という人間特有の悪しき感情からくるものだ。当然、彼女たちの圧倒的戦闘力を知っている一部の一般兵士の中には、あしざまに「バケモノ」呼ばわりする者がいることも知っている。だから、ことあるごとにオメガ小隊は査問委員会にかけられたり、他の一般兵士との交流を厳しく制限されたりしているに違いないのだ。
これは、集落の罪なき人々を守る戦いであると同時に、オメガの権利を守るための戦いでもある。そう決めた士郎は、どこか吹っ切れたように踵を返した。
まずはこの手錠を外してもらわないと、何の役にも立てない!
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