第56話 テロリスト

「君は……怪我をしてるのか!?」


 そう言うとその東洋人はサイードが力なく挙げた手を握るとクローゼットから引き起こした。

 ぬるりとした感触。先ほどから撃たれた脇腹を押さえていたから、掌が血だらけだった。


「あ……あぁ……」


 サイードは戸惑う。

 東洋人はさっきまで握りしめていたモップを投げ捨てると、慌ててサイードの両肩を抱えるようにしてソファーに座らせた。


「さ、しっかりするんだ。今水を持ってくる」


 サイードは肩で息をしていることに今さら気付く。急に脇腹の痛みを自覚する。裏通りを必死で走り、ここに逃げ込んだ時はここまで痛くなかったのに……。


 ほどなく東洋人がミネラルウォーターのペットボトルとタオルやら何やらを抱えて戻ってきた。

 ソファーにぐったりと座るサイードの前にひざまづき、まずはペットボトルを口に押し込む。冷たい水が口腔に流れ込んできた途端、サイードは自分でもびっくりするくらい急に口渇感を覚え、ゴクゴクと喉を鳴らした。

 口から溢れた水が顎を伝い、彼の汚れたブルゾンを濡らしていく。


「さぁ、横になって……。傷を見せてくれるかい?」


 そう言うと東洋人は横臥したサイードの腹部を探った。既に服が血塗れになっていて、ソファーにもぐっしょりと血が付いているが、この男はそんなことを気にしている様子はないようだった。

 出血を見て、大量のペーパータオルをあてがいながら水で傷口を洗ってくれているようだ。


 いったい何者なんだ……。


 俺は見ての通りのアラブ人だ。

 フランスでは嫌われ者だ。いや、ヨーロッパ中で嫌われ者の異分子だ。今まで嫌というほど酷い思いをしてきた。

 彼らは、アラブ人というだけで、イスラム教徒というだけで俺たちを犯罪者扱いしてきた。確かにここはアラブの土地ではない。だから「よそ者」と言われてしまえばそれまでだ。


 だが俺はこの国で生まれたのだ。


 確かに両親はシリア人で、アメリカの空爆から逃れるために必死の思いで国境を越え、ドイツに入国した難民だ。当時ドイツはシリア難民のために国境を開放してくれていたのだ。

 だがその後、両親はドイツ国内でナショナリストたちから散々嫌がらせを受け、フランスに移住したのだという。

 当時まだヨーロッパはEUと呼ばれ、域内の移動の自由があったそうだ。


 フランスでは、ドイツにいた時ほどの嫌がらせは受けなかったから、両親はここで俺と妹、弟を産んだ。

だが、その後ヨーロッパ各地でたびたびテロが起こり、その反動で移民排斥運動が酷くなっていった。

 だからサイードの青春は、不合理な差別と憎悪、暴力に囲まれただけの非情なものだった。


 だが逆の立場だったら?

 サイードは、自分と家族に寄せられる理不尽な悪意を必死に理解しようと試みた。そうでもしなければ、自分も憎悪に飲み込まれてしまうから。


 普通のフランス人からすれば、何のルーツもなく言葉も通じない外国人が多数やってきたと思ったら、自分たちの仕事を奪っていく。フランス人とは明らかに違う雰囲気の、肌の浅黒い、毛むくじゃらの髭を生やした連中を街のあちこちで見かけるようになる。

 そんな変化が意味もなく恐ろしいと感じても無理はないだろう。

 おまけに、劇場やコンサート会場で銃の乱射事件や爆弾テロが頻繁に起きるようになったと思ったら、そういう「髭面の連中」が毎回犯行声明を出す。


 もともと国民性として「よそ者」を嫌い、観光客にすら不遜な態度を取るフランス人が、そんな「気味の悪い」アラブ系移民たちを市民レベルで受け入れてくれるわけがないのだ。

 そういう「感情論」の部分でのフランス人たちの心情を理解したサイードは、日常生活のあちこちで受ける差別的待遇も、悪意ある態度も、なんとか受け流せるようになっていた。

 どんなに自分が理不尽な扱いを受けても、一生懸命「良きフランス国民」であろうと努めてきたのである。


 だが、どんなにこちらが自重しても、悪意の中で暮らしていればどうしても受け入れがたいことは起きてしまうのだ。

 欧州は人権を尊重する、というイメージが「幻想に過ぎない」と分かったのはサイードが高校生の頃のことだ。


 難民上がりの両親が清掃員の仕事で十数年に亘ってコツコツとお金を貯め、小さな大衆食堂カンティヌを開きたいと子供たちに相談してきてくれた時のことは今でも忘れられない。

 決して好立地とはいかないが、居抜きの安い物件をなんとか見つけて内装から看板からリニューアルしてようやく完成した自分たちの店。

 両親も、ようやく叶った夢に涙を流して喜んでいた。家族はようやく自分たちの居場所を作ることができたのである。

 ところが――。


 フランスはこのささやかな店を開くことを許可してくれなかった。

 営業許可が下りなかったのである。


 両親は何度も所轄の保健所に通い、書類の不備であれば書き直すこと、何か設備の改善が必要ならただちに行うことなどを何度も訴えたが、「一度不許可にした店には二度と営業許可は出せない」の一点張りで、どこが間違っていたのかすら一切教えてくれなかった。

 不動産屋には一年分の物件賃貸料を先払いしていた。普通のフランス人相手ならそもそも一年分先払いなんてあり得ないが、アラブ人だからしょうがなかったのだ。

 営業許可が下りなかったから店は引き払うしかない。そこで、先払い分を返してくれと不動産屋に言ったが一切返金には応じてくれなかった。これがフランス人ならきっと応じてくれただろう。

 結局両親はコツコツ貯めた全財産を一瞬にしてドブに捨てる羽目になった。それと同時に家族のささやかな夢はあっけなく潰えたのである。


 母はショックのあまり体調を壊し、その後しばらくして亡くなった。

 父はそれから塞ぎ込み、今では誰とも口を利かない。生活のために再び清掃員の仕事に戻っただけだ。


 弟がリンチに遭って半身不随になったのもこの頃だ。

 夜道で「移民狩り」に遭い、集団暴行を受けたのである。

 一緒にいた弟の友人から電話で第一報を知らされ、急いで現場に駆け付けた時、弟は鉄パイプで滅多打ちにされ、庇った両腕は粉砕されていた。

 路上にゴミのように打ち捨てられた弟を抱え上げようとしたとき、通報を受けたパトカーが駆け付けてくれた。ホッとして警察官に事情を説明しようと振り向いた途端、サイードは思い切り警棒で殴られ、後ろ手に手錠をかけられたのである。


 サイードの外見がアラブ人だったから、事情も聴かれず問答無用で逮捕されたのだ。


 フランスを憎むテロリストが誕生した瞬間だった。

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