第24話 応急処置
その日、未来は何十回目かの伊織探索に出かけていた。
もはや見つかるとはこれっぽっちも思っていなかったが、既にこれは未来のライフワークになっていた。今回は、まだ行ったことのないエリアにまで足を延ばしてみるつもりだった。
森は相変わらず深かったが、季節もだんだん穏やかになっていたから、トレッキングが好きだった伊織も、もしかしたら同じように森に出かけているかもしれない。
今日はなんだか普段と違って、会えるかもしれない、などと奇跡を夢想したりしていた。
朝早く村を出て、沢を下る。ここまではいつものルートだ。
でも今日は、沢を下りきる前に途中で崖を登り、尾根を越える。
途中何度も谷合を渡るから、少々難ルートではあるが、伊織だったらこんなルートも平気で踏破してしまうだろう。夕方までにはどこかに寝床を見つけなければいけないが、まあ何とかなるだろう。
途中途中でねぐらの目星をつけておいて、もし頃合いに良い寝床が見つからなければ一旦戻ればいい。
そんな風に思いながら、何処かの沢を上流に
水際に、何かがうずくまって倒れているのが見える。
小熊かな……。
そう思った未来は、周囲を警戒しながら近づいてみることにする。近くに母熊がいるかもしれないからだ。
三メートル程の距離まで物体に近づいた時、未来はそれが何であるかをはっきり認識する。
人だ――。
「こども……?」
確かに、人間の子供だった。
歳の頃は……小学校五年生か、六年生くらいだろうか。
背中に青いリュックサックを背負ったまま、河原の石の上に突っ伏している。
未来は慌てて駆け寄って抱き起こした。
「う……うぅ……」
子供――男の子――が無意識に呻き声を上げる。
「ちょっと! ……ねぇ、ボク!?」
膝の上に抱え上げ、揺り動かそうとした途端、未来はその子の着ていたトレーナーが不自然にべチョリと濡れていることに気付く。
慌てて手を引っ込めると、そこにはべったりと血が付着していた。
急いで服をたくし上げる。見ると、腹部に大きな裂傷があった。傷口から、ダラダラと血液が流れ出していた。
「何これ……どうしたの……ねぇボク!」
子供は力なく目を閉じたままで、反応がない。
未来はガバッと振り返ると、今来た道の方に視線をやる。
戻って人を呼ぶか。
……でも、集落に戻るまでには優に半日かかる。往復したら一日以上だ。
自分で担いで一緒に戻るしかない。
覚悟を決めると、未来は自分の荷物を放り出し、代わりに男の子を勢いよく担ぎ上げると袈裟懸けに背中におぶり、持参していたロープでしっかりと自分の身体に縛り付け立ち上がった。
足許には大小の石や岩がゴロゴロと転がっていて非常に歩きにくいが仕方がない。
おぼつかない足取りで早々に川床を横切ると、無理やり横の崖肌に取り付いてよじ登った。
その後、何時間歩いただろうか。
気持ちは駆け出したかったが、あまり乱暴に運ぶと男の子の腹部の出血が心配だった。
焦る気持ちを抑えながらしっかりと確実に獣道を進んでいると、来るときには気付かなかった小さな小屋が目に留まる。
「あそこで一旦休もう」そう思った未来は向きを変え、獣道から少し外れた小屋に向かう。
そこは屋根の低い、炭焼き小屋程度の大きさの木造の建物であった。
冬山登山用の避難小屋らしい。
中に入ると男の子を急いで身体からほどき、床の真ん中に寝かせる。
ぐるりと部屋中に視線を走らせると、戸棚やスチール製の棚が据え付けられていた。
それらの扉を片っ端から開けると、赤十字のマークの入った大きめの救急用品ケースが入っていた。
ガタガタとそれを引っ張り出し、蓋を開ける。
包帯、鋏、ゴムチューブ、テープ……あった!
これだ、と思い密閉されていた紙パックを引きちぎる。中には点滴用生理食塩水とチューブ、注射器が入っていた。
男の子の袖を捲り上げ、消毒用アルコールを塗るのももどかしく、注射器を腕に刺す。そのまま点滴用チューブに接続して生理食塩水の入ったパックに繋ぎ、低い天井からぶら下がっていた電気コードに結び付けると簡易的な点滴装置が出来上がった。
父の看病の時に身に着けた知識が役に立った。
だが、その後しばらく経っても男の子の顔面は蒼白のままだった。
腹部の裂傷からは、相変わらずじくじくと出血が続いていた。この出血を止めないと、どのみちこの子は助からない。
未来は思い切ってお腹の傷に指を入れ、状態を確かめてみることにした。
分かる範囲でいえば、裂傷は内臓には達していないようであった。腹膜の辺りで留まっている。
だが、どこか太い血管が傷ついているのだろうか。赤黒い新鮮な血が幾らでも湧き出てくるようであった。
もう一度救急ケースをひっくり返す。すると〈止血用凝固剤〉と書かれた、湿布薬のパックみたいなものが何袋か出てきた。
急いでその中の一つの封を切り、腹膜に直接振りかける。
白い片栗粉のような粉末がバサバサと落ちてきて傷口を覆った。見る間に溜まっていた血液がドロリと粘性を含みだし、効果を発揮し始める。
「よし……」
未来は小さく
本当は麻酔剤を打ってあげたいのだが、そんなものはどこにもなかった。
救急ケースに入っていた応急縫合セットの封を切り、黒い糸と釣り針のようなかたちをした縫合針を取り出す。
幸い、糸は最初から針に繋がっていた。
それを慎重に傷口に当て、一瞬ためらったのち、一気にぶすりと突き刺した。
気を失っている男の子が、痛みで無意識に呻く。
一針、二針、三針……六針ほど縫い進んだところで、針先にあてがうような位置にたまたま突き出していた自分の左の親指に針を突き刺してしまった。
鋭い縫合針は、いとも簡単に未来の親指を貫通する。
「っつ……!」
慌てて引っこ抜くが、ボタボタと出血し、そのまま男の子の傷口に何滴か垂らしてしまった。
未来は、自分の指の痛みを意識的に無視して、そのまま縫い進める。
結局20針ほど縫っただろうか。
なんとか最後までやり切り、上から清潔なガーゼを当て、包帯でぐるぐるにお腹を巻いて、無事に応急処置を完了することができた。
本当は敗血症を防ぐために、抗生物質の点滴パックがあればよかったのだけれど、残念なことにケースには入っていなかった。
このまま少し休ませてあげよう。
未来は、男の子の固く閉じられた瞼を見つめながらそう考える。
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