第20話 5-7始まりの街ラチュラ

「ふぇっくしっ」

『おいおい、大丈夫か?』


 突然のくしゃみに、肩を貸していたクロが心配そうに問いかけてきた。

 あれから街へと走り出したジャンは、敵との距離が十分に離れサークルが消えた事にも気づかず街へと入った。そして入った瞬間、安心したのか腰が抜けてしまい、歩けなくなってクロの肩を借りる事となったのだった。


「きもち……わる……」

『おい、大丈夫かよ本当に……』

「ん、ごめん……あまりにも生々しい感触だったから……」

『そうか、お前にはその感覚が……』


 ロベリアが先導する中、クロに引きずられながら到着した宿屋で、カブトが手続きを済ませてくれた。全員の名前を記入し、中に通して貰う。手持ちも少ない為、全員が雑魚寝できる部屋を一室だけ借り、二階へと通される。

 部屋に入ると、クロに支えられ部屋の隅へと腰を下ろした。


「あれ……カブトは?」

『夕飯持ってくるってよ。いいから休め』

「う、うん……」

『おばさんもぼーっとしてないで座りなよ、目障り』

『えぇ、そうね』


 ロベリアの毒づきを気にも留めず、ユリィはぼんやりしたままジャンの傍に座った。


「ユリィ、平気? ……って、こんな状態の僕に言われたくないよね」

『私は平気よ、ジャンくんこそ、大丈夫?』

「うん……ちょっと、怖かったけど」

『傷、見せてくれるかな』


 言われるまで忘れていた。左腕のシャツをめくると、シャツと共に皮膚が少し裂け血が滲んでいる。見た途端に痛みが走る。


「ってぇ……」

『どう変わるかわからないけど、やってみるだけタダよね』


 そう言ってユリィは両手をかざし、小声でぶつぶつと何かを唱え始める。じんわりと手元が白く光り、温かさが伝わって来たかと思うと傷がみるみるうちに薄くなっていた。


『う~ん……さすがに完治はしないわね』

『戻ったぞ~』


 カブトが両手にトレーを抱えて部屋に入って来た。トレーにはコッペパンのような形をしたシンプルなパンと、琥珀色のスープが人数分乗っている。今日の夕食らしい。


『こんな時でも腹は減るもんだな』


 テーブルのない部屋で、床に直接食器を並べ食事を囲む。カブトはさっそくガツガツと食い漁った。


『空腹なんて、ただスキルゲージの回復が目的ってだけよ』


 ロベリアは少しずつパンをちぎって口へ運び始めた。クロはずっと、ジャンの横で背中を支えている。


『お腹は?』

「ん……空いてる、けど……食欲はないかも」

『ユリィちゃんも、しけた顔して大丈夫か?」


 口の端からボロボロとパンくずを零しながら、カブトが問いかけた。ユリィもまたジャンと同じように顔色が悪く、ぼんやりしている。


『うん……平気よ、食べなきゃね』


 ジャンの腕を気にしながらも食事に向き直り、足元の食事に手を伸ばす。仕方なくジャンも、クロに背を預けたままスープ皿を手繰り寄せスプーンですくい、口に運ぶ。とっくに冷え切っているスープは、ほんのりと野菜の旨味が感じられた。


「あれ、味がある……すごく薄いけど」

『五感には味覚も含まれてるって事』


 ロベリアがパンを飲み込み、ジャンを見ずに呟くとまた小さくパンをちぎって口に運んだ。


『俺にはわかんねぇな。胃に何か入る感じもしないし、スキルゲージが回復したのはわかったけど』


 相変わらず背中を支えながら片手で食事をするクロに、ジャンは申し訳なさすら感じていた。


「クロ、もう大丈夫だよ、ありがと」

『気にすんな。俺はなんともないけど、ジャンやユリィ姉さんはそういうわけにもいかないんだから』


 クロの言う通り、ロベリアもカブトも平然としているが、ジャンとユリィだけが精神的に困憊していた。特にジャンは、自力で歩けないまでに完全に腰が抜けていたのだ。

 体力こそ先ほどのユリィが施した回復魔法で完治しているが、傷はまだ残りずきずきと痛みを発している。


「僕……やっていけるのかな……」


 いつもの癖で、独り言が漏れた。


『そのために俺らがいるんだろ。な、おっさん』

『そうだぞ、おいら達が戦えばいい。ま、ちーっとばかし走り回ってもらうけどよ、へへっ。誰にでも得手不得手があるもんだ』


 せっかくの優しい言葉も、今のジャンには響かなかった。

 ただの仮想空間。今まで何年もやってきた事と同じ。そう思っていたが、まさかこんな機能が一つついただけでこんなにも嫌気がさすとは思わなかった。何かの肉を切るなんて、何度か自炊を試みたジャンにも一応の経験はある。でもそれは、もう精肉加工されただけのもの、ただの材料に過ぎない。

 さっき大男、リーダーモンスターの首に剣を当てた時に感じ取ったものは、全くの別物だった。たまたまだろうが、当たる瞬間にモンスターと目が合ってしまった事が余計に後味が悪かった。


『ジャンくん、ちょっと考えなきゃいけないかもね』


 ユリィがスープ皿を片手に、スプーンでぐるぐると円を描きながら話す。


「うん……寝る前に、全員のステータスを再確認しておく。どう動くかってのも、大事だと思うから」


 ログアウトの時間が迫っていた。最初に説明された通り、一日にプレイできる時間は限られている。この調子で一週間、きちんと乗り越えられるのか不安は残るが、アカウントの為を想えばやらないわけにはいかない。


『あっちの世界でも連絡取れたらいいんだけど、私クロックアカウント使えなくって……』


 ユリィの声に、ジャンの心臓が跳ねあがる。


『ん、ここにいる全員がそうじゃねぇの? クロックアカウントが欲しくて参加したんだろ、俺もそうだし』

『今のご時世、クロックがなきゃなーんにも出来ないからなぁ、まいったもんよ』

『あたしも……ない……』


 ここにいる全員が、クロックアカウントを持っていないようだった。スオウ曰く公式アカウントは抽選ではなく、参加者全員に配られるという話だった。今思えば、高価なデバイスを持っている事が条件になっていたのは五感機能のせいだけでなく、応募者が増えすぎる事を想定しての事だったのかもしれない。


『そうだ、フリーメールアドレスなら持ってるから、こっちに連絡してくれればいいわ』


 ユリィは口頭でアドレスを口にした。短く、簡潔で覚えやすい物だった。


『おう、じゃあユリィちゃん宛に送れば全員連絡が取れそうだな』


 カブトの言葉に、ジャンも同意する。この場でアドレスを交換の流れは非常にまずかった。クロックを介さないメールアドレスなど、アウルとして公開しているものしか持っていなかったからだ。

 トレーを乱雑にまとめ部屋の隅に押しやると、カブトはごろりと横になった。どう考えても甲冑のままでは寝にくいだろうに、装備もそのままでログアウトするつもりらしい。


『それじゃ、あっちの世界でもよろしくな。おやすみ』


 そう言ってカブトは、電池が切れたように寝入ってしまった。ログアウトが完了したらしく、しばらくしてカブトのアバターが徐々に透けていき、時間をかけ完全に見えなくなった。


『へぇ、なるほどね。じゃ、俺も落ちるよ。またな、ジャン』

「ん、ありがと」


 クロも横になり、目を閉じると同時に寝息を立て始めた。

 ロベリアは何か言いたげだったが、何も言わず横になり、静かにログアウトした。


『ジャンくん……』

「ん?」


 二人きりになった部屋で、ユリィが力なく呟く。


『……途中で企画から抜けるって、出来るのかな』


 その問いに、ジャンはかける言葉が見つからなかった。

 あの戦闘からずっと、離脱という文字は脳内をぐるぐるしていた。しかし、辞めるわけにはいかない。クロックアカウントがかかっている。

 火のない場所でも煙は上がり、増殖しながら広まっていくのがネット世界。一刻も早くクロックに戻らなければ、既に傾きかけているであろうアウルの立場がさらに危うくなる。


『私……私は、もう少し考えてみる。ジャンくんにも、きっと理由があるのよね』


 返事をしないジャンに構わず、ユリィは話を終わらせた。


『それじゃ、私も休むわ。また、あっちの世界で』


 ユリィは部屋の隅に座ったまま顔を伏せ、静かに消えて行った。

 残されたジャンも、剣やベルトに何度か触れ、その感触が嫌になる程リアルなのを再度確認する。

 溜息を一つ吐き、同じく座ったまま静かに目を閉じた。

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