第27話 有明の月 ~綾乃&早紀~

「ぶっ!」


口に含んだコーヒーを思わず、噴き出しそうになり咄嗟に手で覆ったが、気管に入って激しくむせた。


「おい、汚いなぁ」


げほげほと咳き込む私を心配するよりも、テーブルに置いた自分のコーヒーを心配する晴次さんを、涙目で睨み付ける。


「ちょっと!少しは心配しなさいよ!」

「大丈夫か?コーヒーは?」

「~!!」


わざとらしく、全く別の心配をする晴次さんを無視して、バックからハンカチを出す。


「夏樹さんなら、優しく'大丈夫?'って言ってくれるのに…」

「俺も夏樹なら、優しく'大丈夫か?'って言ってやるぞ」

「き~!ムカつく!!

悪かったわね、可愛いげのない私で!」

「全くだ…」


にやにや笑いで、全然へこたれない晴次さんに反撃すべく、一番効果的な攻撃を仕掛ける。


「全然悔しくないもんね。

私、夏樹さんに慰めてもらうから良いもん」

「お、お前っ!?」

「今日の夜に、夏樹さんに言いつけてやる。晴次さんが私を苛めるって。その後、夏樹さんに、よしよしって頭を撫でてもらって、ぎゅって抱きしめてもらって、それから…」


「分かった、悪かった!

それ以上言うな!!」


少し顔の赤い晴次さんを謝らせて、すっきりすると、先程の話題に戻る。そもそも事の発端は、晴次さんから「話がある」と呼び出されて、私が彼から話の内容を聞いたためだ。


「それで、…本当なの?」

「ああ、都合はお前に合わせるからって、言っていたぞ」


「マジか…」

「どうする?俺から、断ろうか?」


「ううん、会いに行くよ」

「お前、本気か!?」

「本気だよ。私も一度会ってみたかったんだよね。それに、ここで逃げたら、夏樹さんに顔向け出来ないから」


「…分かった。夏樹はどうする?」

「夏樹さんには、内緒にしていて。余計な心配かけたくないし…」

「綾乃、なるべく穏便にな。

…夏樹を悲しませるなよ」

「分かってるよ。私、優しいから大丈夫」


晴次さんに笑いかけると、何故かため息をつかれる。


「お前の優しさは、夏樹限定だよ。

…夏樹以外、誰もそんな風に思っていないから安心しろ」

「酷っ!」

「一般論だ」


晴次さんと、いつもの様に漫才のようなやり取りをしながら、心の奥でどこか緊張している自分を感じていた。



約束の朝、深呼吸して心を落ち着かせてから、待ち合わせの場所に行った。空は晴れて暖かく、こんな日に夏樹さんとお出掛けなら凄く嬉しいのに…と思うくらい、良い天気だった。

日頃利用しない方面の電車に乗り、スマホを使って道順を確認する。指定されたのは、駅から少し離れた場所にある緑に囲まれた大きな公園だった。中に入ると、休日とあって、利用している人も多い。


きょろきょろ見回すと、それらしい人を見かけた。背筋を伸ばして、息を吐くと、ゆっくり歩き出す。人混みから少し離れた小高い場所で、ぼんやりと風景を見ている車椅子に座った彼女は、私が真っ直ぐ歩いてきた事に気付くと、私に視線を移した。


私が最初に彼女を見た時の印象は、「あの時、会わなくて良かった」という安堵だった。夏樹さんが彼女に会いに行った時、私が彼女を見ていたなら、きっと夏樹さんの事を諦めても仕方なかったと思う。そのくらい彼女は綺麗だった。

風に揺れる長い髪を耳にかけるその仕草さえも、一枚の絵になるような姿に、私は晴次さんを思い出した。見慣れた姿に何も思わなかったが、彼もそう言えば、容姿はイケメンだ。姉弟とあって良く似ている彼女は、私が近づくと、にこりと微笑んだ。


「わざわざごめんなさい。こちらに呼び出したりして」

「いえ、私も会ってみたかったですし…」


「初めまして、長谷早紀です。座ったままで、ごめんなさいね」

「香田綾乃です」


「綾乃ちゃん、で良いかな?

私も下の名前で構わないから」

「はい。私も勝手にずっと、早紀さんと呼んでいたので構わないです」


「ねぇ、綾乃ちゃん」

「何ですか?」

「話す時、敬語じゃなくて良いわよ」

「そういう訳には…早紀さんは年上ですし」

「晴次より一つ年上なだけよ。良かったら、普通に話してね?」

「はい」

「ふふふ、ねぇ、隣に座らない?

ここからの光景が凄く綺麗で、貴女を待つ間眺めていたの」


落ち着いた態度、涼しげな声、綺麗な容姿…何を比べても、私は敵わない。夏樹さんが好きになるのも分かる気がする。早紀さんは、同性から見ても魅力的な人だった。


どうして、夏樹さんはこんな素敵な人の告白を断ってまで、私を選んでくれたのだろう―


疑問が不安となって自分に襲いかかるのをふり払うように、私は早紀さんの隣に歩き出した。


早紀さんとの話題は、殆ど私についてだった。好きな事、好きな音楽、好きな食べ物…その時々で、私も早紀さんに質問を返した。はにかんだり、嬉しそうに話したりと、早紀さんは楽しそうに過ごしていた。私も、夏樹さんの事がなければ、きっと親しみが持てる人だと思っただろう。だけど、私からも、早紀さんからも夏樹さんの話題を口に出さないまま、時間が過ぎていった。


「ねぇ、綾乃ちゃん」

「何ですか?」


「…夏樹を宜しくね」


私を見つめて、まるで遠くに行ってしまうかのような口調の早紀さんに、思わず危機感を覚え、訊ね返す。


「貴女は、どうするんですか?」

「私は、もう、夏樹と会うことはないと思うから…」


「嫌です」

「えっ!?」

「夏樹さんが貴女を選ばなかったからって、勝手に諦めないで下さい」

「夏樹は貴女を選んだんでしょう。それで十分じゃない」


その一言に思わず、立ち上がった。この人は、また夏樹さんを傷つけるつもりだ。そんな事を私は望んでいない、私が望むのは…!


「貴女は夏樹さんを全然分かってあげていない!」


「!?」

「夏樹さんが、どれ程貴女を大切に思っていたか、知っているはずでしょう?自分の人生を犠牲にしてまで、貴女の事を想っていたんですよ!私に夏樹さんを取られたからって、貴女はもう会ってあげないんですか?


夏樹さんが貴女の事を話す時、どんな顔をして話すか知っていますか?凄く嬉しそうに話すんです。早紀さんは夏樹さんにとって、今でも大切な存在なんです。私がどんなに彼女を愛しても、夏樹さんは早紀さんを絶対忘れたりはしない。


だから、お願いします。夏樹さんの傍にいてあげてください。

貴女にとって、それが残酷な事だと分かっています。だけど、貴女は、もう、眠ったままの早紀さんじゃないでしょう?

動くことが出来るし、話すことが出来る。貴女にも、夏樹さんを見守ってあげて欲しいんです。


私が夏樹さんを苦しめたりするようなら、遠慮なく奪っていいから。その時、私は貴女を絶対に責めたりしない。

それが、私の彼女への約束だから…だから、夏樹さんに、これから素敵な思い出を沢山作ってあげて下さい」


私をじっと見つめたまま、早紀さんは黙っていた。私も彼女を見つめ返す。どのくらい経っただろう、ふと、早紀さんが、私に微笑んだ。


「…分かったわ」


早紀さんはそれだけ言うと、私の手を取った。長く細い指を私の小指に絡める。


「私も、約束する。夏樹の傍にいるから」

「早紀さん…」

「ありがとう、綾乃ちゃん。

夏樹を選んでくれて。貴女が夏樹の傍にいてくれて…」


「私…選んだ訳じゃないですよ」


微笑む早紀さんに、苦笑で返す。


「ううん、夏樹は貴女を望んでいたのよ。ずっと…」

「そんな事ないです。だって、早紀さんには全然敵わない…私は、何もかも…」


俯いて思わず呟いた言葉に、自分で傷ついていると、早紀さんは明るい口調で、私を覗き込んだ。


「あのね、一つ教えてあげる」

「?」

「私と夏樹は、長い付き合いだったのは聞いている?」

「ええと、確か、高校からの付き合いですよね?」

「そう。だけど、私と夏樹の関係は、結局、恋愛にはならなかった」


突然の告白に、どんなリアクションを取れば良いのか分からず、黙っていると、早紀さんはいたずら顔で私を見た。


「それだけ長い間一緒に過ごしながら、そういう雰囲気にならなかったのよ。私は何度か望んだけど、夏樹は全然気づかなかったの…」

「えっ!?」


「だから、何となく分かっていたの。私は夏樹にとって、恋愛対象ではないって。

夏樹は私と、一緒にいたいと思うかもしれない。だけど、触れたいと思うのは、貴女だけよ、綾乃ちゃん。

だから、もっと自信を持って。夏樹が選んだ貴女自身を…」


「ありがとう…」


私の心の内を見透かして、励ましてくれる彼女に微笑むと、早紀さんは可笑しそうに、私の後ろに視線を送って呼び掛けた。


「良かったわね。

貴女をこれ程分かってくれる人に出会えて。夏樹」


「えっ!?」


振り向くと、泣き出しそうな顔をした夏樹さんが立っていた。


「綾乃ちゃん!!」

「わっ!?夏樹さん?」


走り出すようにこちらに来た夏樹さんは、そのままの勢いで私に抱きついた。ぎゅっと抱きしめられ、どうして良いか分からないまま彼女を受け止める。夏樹さんは涙で濡れた顔を上げて、私に笑いかけた。


「ありがとう、綾乃ちゃん。

私、貴女を好きになって、本当に良かった…」

「夏樹さん…」


夏樹さんの頬に手を伸ばして、涙を拭いてあげる。見つめたままの彼女に、顔を近づけようとすると、咳払いが聞こえて、私達ははっと我にかえった。


「何も、そこまで見せつけなくても良いわよ」


早紀さんが苦笑すると、夏樹さんは慌てて私から離れた。


「ごめん、早紀さん。あの、聞くつもりじゃなかったんだけど…」

「私は別に構わないわよ」

「綾乃ちゃん、ごめんね」

「…」


早紀さんは笑って返すが、私は言葉が出ない。どこから聞いていたのか分からないが、夏樹さんに聞かれて、自分の顔が赤いのを自覚する。今思うと、かなり気障な言い方をしてしまい、穴があったら入りたい気分だった。


「あの、綾乃ちゃん?」

「…恥ずかしい」

「えっ?」

「夏樹さんに聞かれていると思わなかった…」

「ご、ごめんなさい。晴次さんにたまたま会って、綾乃ちゃんが早紀さんと会うって聞いて。心配で…晴次さんに連れてきて貰ったの…」

「晴次さん…内緒って言ったのに!!」


怒りがこみ上げて、少し離れた場所に隠れているつもりの晴次さんを睨み付けると、彼は私の怒りに気付いたのか、両手を合わせた。夏樹さんにどこまでも甘い晴次さんの事だ。私達の所に行きたいと夏樹さんが頼めば、喜んで、ドライブデートを楽しんだだろう。


「全く…晴次ったら、夏樹に甘いんだから」


早紀さんが呆れたように晴次さんを見ている。この人はもしかして、晴次さんの夏樹さんへの気持ちに気づいているのだろうか?


「綾乃ちゃん」

「はい?」


「今日はありがとう。私、貴女と知り合えて嬉しかった。

…もし、良ければ、私とも友人になってくれないかしら?」

「私も貴女と会えて良かったです。

だから、宜しくお願いします」


差し出された手を重ねると、早紀さんはにこりと、嬉しそうに笑った。彼女は、ちらっと夏樹さんに視線を送ると、私を手招きして、耳許で囁いた。


「夏樹をたくさん愛してあげてね」

「へっ!?」

「久しぶりに見た、あの子があまりにも綺麗で、幸せそうで驚いたわ。貴女のお陰ね」

「いや、あの、何というか…」

「ふふふ」


早紀さんは、しどろもどろで赤い顔の私を見て、笑うと「晴次、帰りましょう」と声をかけた。それから、私達を見る。


「また、二人でゆっくり話しましょうね。綾乃ちゃん」

「ええ、また会いましょう。早紀さん」


「夏樹」

「うん」


「これからも、宜しくね」

「うん、…ありがとう。早紀さん」


晴次さんが車椅子をゆっくり押して、早紀さんと帰っていくのを私達は見送った。二人が何か笑いながら話しているのを見て、やっぱり姉弟だなあと見つめていると、夏樹さんが袖を引いた。


「何?夏樹さん」

「早紀さんばかり見ないで…」

「へ?」


少し顔を赤めながら、心配そうに私を見る。夏樹さんの言いたいことが分からなくて彼女を見ると、視線を泳がせた後、小さな声で続けた。


「早紀さん、絶対綾乃ちゃんの事気に入ったと思うよ。綾乃ちゃん可愛いし、優しいから。早紀さんも綺麗でしょう?

私、貴女を早紀さんに奪われるんじゃないかと思って…心配したんだから」

「…」

「さっきも仲良くしてたじゃない、二人で」

「…」


「綾乃ちゃん?」

「あはは!!」


可笑しくて笑い続ける私を、夏樹さんが戸惑ったように見ていた。笑いすぎて滲んだ涙を拭うと、夏樹さんを抱きしめる。


「ちょっと!?綾乃ちゃん」

「大丈夫、誰もいないよ。

夏樹さんもさっき同じ事したじゃない」

「そうだけど…」


「夏樹さん、妬いてくれたんだ?」


私の質問に、腕の中の彼女は小さく頷いた。その事が嬉しくてたまらない。


「私は、貴女だけだよ。ずっと」

「うん、分かってる…」


「私達は、いつかお互いに傷つけたり、喧嘩したりするかもしれない。だけど、私は貴女を悲しませるような事はしないから。

もし、夏樹さんの心が離れてしまったとしても、貴女が望むなら私はずっと、友人として傍にいるよ」


「そんな事ない!!」


私の言葉を強く打ち消すように、彼女は顔を上げた。


「私は、綾乃ちゃん以外何も望まない!!

傷つけても、喧嘩しても良いから私を離さないで。私が一番悲しいのは、貴女が離れてしまうことだから。


私も貴女しかいないから…」


「夏樹さん」


抱きしめた腕の中の彼女は温かくて、幸せな気持ちに包まれる。

視線だけで周りに誰もいないことを確認すると、彼女にキスした。軽く触れるだけ、だけど気持ちのこもった甘いキスに、もっと彼女を欲しくなるけど、ぐっと我慢する。

何となく名残惜しそうな夏樹さんと手を繋ぐと、彼女に笑いかける。


「夏樹さん、折角だからこのままデートしようよ」

「ふふふ、そうね。行こうか」


私達は手を繋いだまま、並んでゆっくりと歩き出した

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