エピローグ?–2 遠くでなら泣ける②

 女は狭い路地に入る。小さな店がひしめき合っている。女の店は注意しないと見つからない。小さなドアをあける。店のなかはカウンターだけ、椅子だって六脚しかない。隅で男がカウンターに突っ伏している。

「おはようございます」

 カウンターの向こうに、ミチヨがいた。

「またかい」

 男の肩を女は揺すった。

「ハヤサカさん、今晩の準備を始めるよ。帰って」

「もう昨日が今日になってしまったのなら、別にかまわんだろ」

 昔そんなことをいっていたやつがいたな、と女は思った。まもなく夕方である。

「あたしはね、きちんと一日一日を仕切り直して始めたいの」

 無理やり男を立たせた。

「ミチヨ、送ってやって」

「すみません」

 ミチヨが申し訳なさそうにいった。

「あんたも寝たほうがいい」

 二人が出て行くと、狭い場所に一人きりだ。女はタバコに火をつけた。トーキョーで暮らすのも、慣れた。まるで百年暮らしているみたいだった。ババアはときどき、あの場所のことを思う。妹と暮らし、末裔たちの行く末を見守った場所。いまでも生々しく、あの場所は女のなかで息づいている。目を閉じれば、いつでもあの草原に立つことができる。

 ドアが開いた。子供が店を覗き込んでいる。

「あら、いらっしゃい」

 そういって女はくわえタバコでオレンジジュースをグラスに注いだ。

「コウちゃん、どうしたの? 一人?」

「うん」

 男の子は椅子に座る。地につかない足をぶらぶらさせる。

「そんなことしてると落ちちゃうよ」

 女は微笑む。

「ぜんぜん」

 そういって男の子はジュースを一口飲んだ。

「お母さんは?」

「まだ寝てる」

「大変だね」

 男の子はたまに、やってくる。母親は夜の仕事をしている。その年でこの辺りをふらつくのは危ない。一人でこんなところにきちゃいけない、と女は咎めるが、本心ではやってくるのを心待ちにしていた。

 男の子は女から菓子をもらい、ちびちびとつまんだ。ひとつだけポケットにしまった。

「気をつけるんだよ」

 女は男の子の背中に声をかける。眩しそうに、目を細める。


 コウはアパートの階段に座り込み、歌を小さく歌っていた。『ぼくはくま』だった。歌を歌ってやると、母親は喜んでくれる。コウの声はきれいね、という。きれい、とはなにか訊ねると、おいしい空気とお水みたいなこと、という。余計わからなくなった。空気においしいなんてあるんだろうか、水よりも、オレンジジュースが好きだった。

 ドアの開く音がした。

「なにやってんの?」

 となりに住んでいるおばあちゃんが上から声をかけた。そして大儀そうに階段を降りてきて、コウの隣に座った。

「歌」

 ぶっきらぼうにコウは答えた。母は隣に住む老婆をあまりよくは思っていない。口にはださないが、なんとなく、感じとられる。

「聴かせて」

 少し恥ずかしかったけれど、コウは歌ってやった。おばあさんはいつも派手な格好だった。アパートで会うときは、真っ赤な着物を肩にかけている。着物の背には鳥とか花とかの絵がごっそり描かれている。以前町で見かけたときは、年老いた細い足をミニスカートから突き出し、知らないおじさんと歩いていた。

「幸一郎はうまいねえ」

 おばあさんはコウのことをたまに幸一郎と呼ぶ。はじめは「違うよ、コウちゃんだよ」と訂正したが、いつも間違える。コウはもういい返さない。

「これあげる」

 コウはポケットのなかから菓子を取り出し、おばあさんに渡した。おばあさんは、ありがとう、といってコウを抱きしめた。

 ときどきおばあさんはコウをきつく抱きしめる。コウは抵抗しない。はじめにされたときはびっくりした。しばらくしてなんとか離れて、おばあさんを見たら、泣いていた。だから、コウはそのままでいてあげる。母親にはいえないことが増えていく。女の人のお店にいくこととか、隣のおばあさんにたまに抱きしめられ、泣かれることとか。

 道端で、犬が二人のことをじっと見ていた。コウは人差し指を口に当てた。

 内緒だよ?

 犬はしばらくして、眺めるのに飽きたらしくふらふら、おぼつかない足取りで、去っていった。

 今日は母親の仕事はお休みだから、一緒に晩御飯を食べる。ポケットモンスターのアニメを観たい。テレビは一日一時間だけ、と決められている。あとは、歌をうたおう。母と過ごす時間は、貴重だ。

 少し、眠くなった。

「幸一郎?」


『若者はみな悲しい』 了

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