42 あなたがそばにいてほしい

 夢。田島家の居間で早紀は座っていた。彼女の頭はこれまでにないくらいクリアだった。この家に誰もいないことだけはわかっていた。

 もう誰も帰ってこない。ここに自分はいるべきではないと考えた。なぜならば、この家の者と、血が繋がっていない。立ちあがろうとしたができなかった。まったく身体のいうことがきかないのだ。彼女は焦り出す。どうしたらいいものか。助けを呼ぼうとしても声がでなかった。怖かった。とても怖かった。このまま永遠に、ここに座り続けていなくてはならないのだろうか? そう思うとぞっとした。

「早紀」

 夫の声がした。

「早紀」

 幸次の声がした。

「早紀ちゃん」

 幸三の声がした。

 なのに、姿はない。声は、自分の勝手に作り上げたものなのだろうか。訝しむ。

「なあ、お前いったい誰が好きだった?」

 幸一郎の声がした。気弱だ。

「俺だろ? 初めての男なんだから」

 幸次の声がした。偉そうに。

「僕だよね? 何度も何度もしたじゃないか」

 幸三の声がした。いっておいて興味なさそう。

 早紀は答えることができない。動けないし、声を出すことができない。でも、いえたところで、うまく答えられそうもない。

「そうか、ごめんな」

 幸一郎の声。

 早紀は泣いた。涙を内に垂らした。彼女の内側は空洞で、涙が滴っていく。このまま涙で空間が埋まれば、わたしは声を出せるような気がした。身体中になにかが満たされれば、やっと、自分の言葉を話せるような気がした。人間のほとんどが水分なんて大嘘だ、と彼女は思う。彼女の内面は、からっぽだった。

「ねえ、お願いだよ、選んでよ」

 幸三がいった。

「もう決まってるんだろ?」

 幸次がいった。

 待ってほしい。そんなに答えを急かさないでほしい。早紀は思う。まだわたしの内側は満たされていない。

 お母さん、お母さん、お母さん。なぜか、空っぽのはずの内側から声がした。

 お

 か

 あ

 さ ん

 なん

 で

 う

 ま

 れ

 るん

 でしょう

 か。

 もう

 なんども

 うまれては

 しんで。

 こりごりです。

 またうまれるのは

 こわい

 こわい

 こわいよお。

 いきをはいて

 ごはんをたべて

 おしっこ

 うんこをして

 せいしをだしたり

 らんしをながしたり

 えらいひとになろうとしたり

 だれかにほめてもらおうとがんばったり

 にくまれたり

 だれもみてくれなかったり

 ゆめをみたり

 おちんちんがたったり

 おまたがもぞもぞしたり

 そんなの

 べつにしたくない

 したくないんだよお。

 おかあさん

 なんで

 うまれるのかな

 おしえてください。

 ありがとう

 ごめんなさい

 ゆるしてください

 あいしています

 なんで

 ことばは

 としをとると

 いえなくなるのか

 なんかい

 うまれかわっても

 わかりません。

 おかあさん

 おしえてください。

 おかあさん

 いまじぶんがどこにいるのかわかりません

 おしえてください。

 とてもくらいところにいます。

 せまいんじゃないかってくらいに

 なにもみえない

 とてつもなくひろいようなきがする

 くらいところ。

 でも

 あんしんできます。

 このまま

 うまれないでよいのなら

 ここにずっといてもいいな

 そんなふうにおもいます。

 おかあさん。

 きこえますか。

 おうとうしてください。

 おかあさん。

 おかあさん。

 おかあさん。

「早紀、……さよなら」

 幸一郎!

「待って」


 早紀は目を覚ました。

「起きたのか?」

 水浸しの自分の身体。乱れた衣服。ゆっくりと起き上がる。雨のなか、ババアが驚いた顔をして早紀を見ていた。

 早紀はあたりを見回した。雨の草原。遠くに、なにかが積み上がっている。よく見ると、骨だった。

 早紀は、起き上がった。

「ここは危ない。出るよ」

 ババアはいった。

「田島の血は絶えた。もうここを守る人柱はなくなった。じきこの雨は勢いを増す。川は氾濫して、水害になるかもしれない」

「みんなは」

「死んだ」

 ババアはいった。早紀は呆然としている。当たり前だ。

「あれは?」

 早紀が訊ねた。

「ただの野良犬の骨だ」

 ババアはいった。

「嘘」

 早紀にはその骨の山に、肉片が、血まみれとなり無残に死んだ男たちが見えた。これは、あの声が見せてくれたのかもしれない。

 しばらく早紀は、見つめ続けた。そして、近づくことを決めた。

「早紀」

 ババアが止めるのを振り払い、ぬかるみのなか、早紀は骨の山に向かっていった。男たちはどうせ死んでいた。

 早紀のなかで、なにかが生まれた。

 まさか。早紀の背中を眺めながら、ババアは驚く。わたしは、気がふれちまったんだろうか。たしかにいま、誕生した。早紀のなかに、新しい生命が宿っている。しかも、田島のものではない。妹の、あの男の、幸一郎の……。

「やってくれるね」

 ババアは呟く。無性にタバコを吸いたかったが、血を含んだタバコは使い物にならない。

「どうやって仕込んだ?」

 ババアは天に向かって聞いた。

「秋幸さんより一枚上手だねえ。これじゃまるで、神話かなにかじゃねえか」

 ねえ? 幸一郎さん、あんた、みごとな男だよ。惚れた女の腹から生まれ直すつもりかい。

 早紀は、みっつある生首のひとつを持ち上げる。選ぶなんて悲しいことだ。でも、この人をわたしは。頭とは、思ったより重いものだな、一苦労だった。

「幸一郎さん」

 その生首に、早紀は頬ずりをした。ババアには、頭蓋骨を愛撫しているかのように見えた。

 もう幸一郎は言葉のない世界にいる。これはただの残骸だ。もう歌ってくれやしない。でもいい。わたしのなかで、歌は生まれ始めている。

 早紀は悲しかった。

 ああ、最後に幸一郎といたとき、自分はどんな顔をしていたろうか?

 なぜか静かに、血の雨にうたれながら、この目の前にある死を理解した。

 最後にいえる言葉は、これだけだ。

 いわなくてはならない。

 さっきより真摯に。

 自分のためにいった。

 言葉とは、誰かを愛するために使うものだ。

 言葉とは、己を奮い立たせるため使うものだ。

「さよなら」

 生首がごとりと落ちて、少しだけ転がった。

 早紀とババアは消えた。


 雨は勢いを増し、豪雨となった。朝になる頃には、ただの雨水になっていた。その日は大雨で、血の雨は流れていった。川はぎりぎりのところで氾濫しなかった。生臭さだけは村中にしばらく残った。草原にあった死骸が見つかるのは、しばらくたってからだった。


 そして、村の住人何名かが行方不明者とされた。


 ……とにかくパーティーを続けよう。




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