21 可能性

 すべてがおしまいだ。幸次は自暴自棄になっていた。もう俺の人生、詰んだ。ジャケットのポケットのなかに、くしゃくしゃになった万札が入っていた。手にとって、眺めた。破り捨てることもできず、また雑にポケットのなかに押し込んだ。どこにも行くあてがなかった。手のひらに感じた、暖かさと震え、脈はまだ残っている。いくら手を振っても、幸次から離れようとしない。

 幸次はあのときのことを思い出す。母が出奔した日。小学生の頃だった。自分が大変なことをしてしまい、部屋の押し入れに隠れていた。きっとばれたら、とんでもないことになる。毎日のように父親に殴られていたから、痛みに鈍感になっていたけれど、それとこれとは大違いだ。家族全員が罰を受けてしまう。自分がどうなたってかまわない。でも大好きな母まで折檻をうけてしまったら……。ひどい想像に蝕まれ、暗闇のなかで縮こまりながら、震えていた。押し入れが勢いよく開かれた。父親は恐ろしい形相で幸次を見た。そして腕をつかみ引きずり出した。ごめんなさいごめんなさい、泣き喚いた。父親はあのあと、どうしたんだったろうか。覚えていない。いつだって酒を飲み、たいして働きもせず、母や俺を殴り続けた、あの男は……。

 夕暮れを歩き続けた。夜になってもさまよい、そしてババアの店に入った。カウンターテーブルを叩きつけ、椅子を蹴り飛ばした。そして、床にへたりこんだ。震えていた。寒かった。ざまあねえよ。ざまあねえ。

「……なにしてんだよ」

 声がした。

 階段から、幸一郎が降りてきた。

「休んでた……」

「ふうん」

 なんで幸次は突っ込む気も失せていた。

「どうしたんだよ」

「ババアは?」

「どっかでかけてったって」

 幸一郎が、水をいれたコップをテーブルに置いた。

 いってしまったら、こいつはどんな顔をするんだろうか、と幸次は考えた。

「俺、親父を殺した」

「……なにを、ええっ?」

 幸次はしばらく黙っていた。そして、ああ、この表情を見るのは二度目だと思った。犬が死んでしまった、あのときと同じだ。こいつ、変わってねーなあ。

「ああ、そうか。秋幸じゃねえよ。俺の育ての親、あの飲んだくれの」

 喉が渇いている。でも、幸次は続けた。

「家にいったんだよ。でさ、寝たきりになってるわけだ。あいつ。声をかけたらさ、俺を見て、枕元から汚ねえ万札を二枚出してきて、田島さんに渡してこい、っていうんだよ。なにいってんだ、もう葬式もなにも終わったっていったら、田島さんにご迷惑をかけた。母さん……が、おかしくなって、お前が田島の子供だ、って嘘を言いふらしていたけれど、田島さんはなんの文句もいわずにいてくれた、って。なにいってんだよあいつ……。母さんは、おかしくなんてないよ……、俺は田島の子供なんだよ……、なのにあいつ、お前は俺の子だ、おかえりって……、なんだよ……。あいつの口を黙らせたくて俺……」

 幸次は言葉を詰まらせた。そして、大きく、震えていた。幸次は絶対に、人前で泣かない。強い意志を持っている。怪我をしようが、あの暴力的だった幸次の父の殴られても、歯を食いしばり、泣かなかった。幸次のこんな姿を見るのは、幸一郎は初めてだった。いや、二度目だ。あのときもそうだった。

 幸次の手のひらから、あの男の「生」が離れない。こんなふうに、あっけなく、人は死ぬ。いや、殺せるんだ。そんなこと、誰も教えてくれなかった。犬を殺したときみたいに。ああ、そうか、いま気づいた。俺は、人間を見くびっていた。犬も人間も、簡単に、殺せてしまう。

「……うん」

 幸一郎の返事は幸次を苛立たせる。

「あー……。東京で、生きて、誰にもバカにされないようになってて、だのに、これかよ……。俺は、こんなところにくるんじゃなかったよ」

 勝ちたかった。のうのうと、とぼけたツラして若様なんていわれているこいつに。自分も資格がある。母と秋幸ができていた、と噂が耳に入るたび、幸次は怒りの対象を、親友へ向け、そしてそれを身体中に溜め込んだ。

「お父さんは……」

「部屋で死んでるよ……」

 結局、幸一郎しか、話せる相手はいなかった。

幸一郎の前に、泣く者ばかりが現れる。そして、幸次とさやかは似ていた。二人とも、うまく泣くことができない。そして、幸一郎の前で、やっと、泣くことができたのだ。自分という存在が、彼らを泣かせる装置となっている。自分が、これまで生きてきて、こんなに責任重大だったことなんてあったろうか。こんな空洞のような自分の前で、彼らは、涙を流してくれた。彼らのために、なにかを為さなくてはならない。彼らの尊厳を、守らなくてはならない。幸一郎は初めて、生きる意味の袖に触れたような気がした。そして、早紀を思った。俺は彼女を、きちんと泣かせてやれるだろうか?

「わかった」

 幸一郎は、いった。

「なにがわかったんだよ」

「俺がなんとかする」

「は?」

 幸一郎は、幸次をしっかりと見据え、いった。

「お前はずっと、ここにいた。だよな?」

「意味わかんねえよ」

 その目に逃れたくて、幸次は俯く。

「俺が、なんとかしてくるから」

 そういって幸一郎は店を出ようとした。

「いやだから……」

 幸次は幸一郎を止めた。

「お前は、田島の人間だ。俺の兄弟だ。幸三もそうだ。三人で、もう一度、やり直そう」

 幸一郎は、はっきりと、いった。

「そんな……できるわけ……」

「できる。なぜなら俺は……田島の跡取りだから……」

 ああ、おんなじだ。あのときと、なにもかもおんなじだ。いつも小馬鹿にしていたこいつに、俺は助けられる。本物のばかだ、こいつ。

 二人はやっと、見つめ合った。ガッツポーズを幸一郎はして、店を飛び出した。まったく、笑えないし、慰めにもならない笑顔を幸次に向けて。


 幸次は、カウンターに頭を突っ伏した。どれくらいの時間が経ったろうか。たいしてたっていないだろう。幸次には、とても長い時間に思えた。ドアが開き、誰かが入ってきた。幸次は、顔を上げなかった。隣に誰かが座った。

 しばらくして、誰かが言葉を投げかけた。

「お前はさあ、昔の俺そっくりで、くすぐったいよ……」

 品の悪い笑い。幸次は、隣にいるのか誰なのか、わかった。不愉快だった。

「俺はな、ここだけの話……、お前がここの連中とは違う、しっかりと物事や損得を理解できるやつだから話すんだけどな、お前は俺の子供じゃないかって思ってるんだぜ」

 それを聞いて、幸次は、びくん、と震えた。なにをいっているんだ? こいつ。

「お前の母ちゃんにな、俺の子か、って聞いたことはねえけどよ。でもなあ、お前の母ちゃんはいい女だったぞ。吸い付きがちがうんだ。キューっと締まってなあ。ありゃ生まれながらのズベ公だったなあ。旦那が働かねえからって、母ちゃん苦労したからなあ、まああれだ、エンコーってやつか? まあ三十過ぎたババアにエンコーもねえか。まあいろいろあったけど。なあ、田島の金をうまく取り上げる切り札がさ、お前なんだ。だからさ、今日から俺のことを親父だと思って……」

 母さん。幸次が顔を上げ、隣の男を睨みつけた。

「そんな顔……」

 すべてを口にする前に、夏秋の顔面に幸次は拳を思い切りぶつけた。椅子から夏秋が転げ落ちた。顔を抑えながら悶える夏秋の腹を、幸次は思い切り蹴りつけた。ぶえ、と夏秋が奇抜な声を漏らす。まったく意に介さず、幸次は夏秋を蹴り続ける。

 秋幸、親父、このクソ野郎、俺の本当の父親はいったい誰なんだ! 母さん!

 蹴るたびに不愉快なうめき声をあげた。そして、幸次が気づいたときには、もう夏秋は声もあげず、動かなくなった。

「俺はもう、何者でもない」

 幸次は、その血だるまを見て呟いた。何者かになれば、俺は、自分を肯定することができると思っていた。だから、俺はがむしゃらになろうとした。幸一郎に勝とうとした、トーキョーにもいった、働き、自分一人で立ち、誰にも文句をいわせない人間になるはずだった。なのに、もう俺は、ただのひとごろしだ。しかも、俺の父と名乗る男を二人……。

 いま、一つの意識が消えかけようとしていた。この世への未練が薄れていく。受け入れるしかない。さやかはすべてを理解していた。世界そのものと同化する寸前だった。

『お兄さん』

 幸次の耳には入ってこなかったが、声はたしかに存在していた。最後の力を振り絞り、種違いの妹が、幸次を、この世界にとどめさせようと試みる。しかし彼女には、もう現世に影響を与えるほどの能力は残されていなかった。

「もうなにもかも俺にはない」

 幸次は口にすることで、確認をしていた。俺は自分の手で、この世界を破壊してしまったんだ。自分の親を殺すということは、繋がっていた世界を自身で断ち切るということだったんだ。

『お兄さん……』

 さやかの最後の力だったのだろうか、室内に、きつい風が一瞬吹いた。ラジオが落ち、そして音が流れ出す。


『僕は、ここから出ることにします。もうじき三十だけれど。高校もいけなくなってしまったけど……。自分の可能性がちょっとでも残っているのなら……そこに賭けたい。僕は、トーキョーにいきます。なので、今日でこのラジオは終わります。皆さん、ありがとうございました。最後の曲です。だんご長男さんからのリクエストで、『今夜はブギー・バック』。ありがとうございました』


 音楽が流れた。あの曲。俺たちの、一番楽しかった頃の、なにもかも、うまくいくと思っていた頃の象徴。

 可能性、可能性、可能性……。

「はあ? ざけんじゃねえぞ!」

 幸次は叫び、そして店を飛び出した。

 さやかの最後の力が、幸次を混沌へと向かわせてしまった。そう、願いが完璧に届くことなどできない……。


 静まった店内で、夏秋の身体がびくびく、動きだす。

 死んでたまるか、死んでたまるか、ぜってえに俺は田島の金を手に入れてやる、幸次、てめえ、殺してやる、殺してやる……。てめえら全員、殺してやる……。

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